ホロコーストとアウシュヴィッツとは何か、について。

 ホロコーストとは、 1933年から1945年の間にナチスドイツ政権を中心としてヨーロッパ全土で進展したユダヤ人の組織的な迫害および虐殺のことであり、国立の施設である強制収容所で実施されました。

1933年から建設が始まっていた強制収容所には、ナチス政権に反対した人や刑事犯、障がい者といったナチス政権から「不必要な人材」と見做された人々が収容されており、そこにユダヤ人も含まれました。第二次世界大戦の勃発後、ドイツは占領した国にも収容所を造り始め、中でもアウシュヴィッツ強制収容所が最大規模の収容所でした。

ポーランドのクラクフ近郊にあるアウシュヴィッツ強制収容所には火葬場、絶滅収容所、および強制労働収容所があった。「Arbeit macht frei (労働は自由への道)」というスローガンが掲げられた門をくぐると、自由や尊厳は剥奪され、“ユダヤ人であること”が殺害を肯定しました。運ばれたユダヤ人はナチスの医師に“選別”され、労働に適さないと判断されれば性別や年齢、政治思想にかかわらずガス室に送られました。

 こうした意味でアウシュヴィッツ強制収容所は、ヨーロッパにおける「ユダヤ人絶滅センター」でした。ホロコーストによって約600万人のユダヤ人が犠牲になったといわれますが、そのうちの110万人がアウシュヴィッツでの犠牲者であり、アウシュヴィッツ強制収容所は「ホロコースト、大量虐殺、暴力の象徴」とされました。

このような歴史を僕たちは学びました。



僕らの出会いと来歴。

 僕らは大学の史学科で出会いました。お互いの共通点は「元サッカー部」「歴史」「教職課程」くらいでしたが、授業の合間に話をする回数が増えていきました。

 世界史が好きだった僕らは、大学の食堂や居酒屋で多岐にわたるテーマを、時には声を荒げたりもしながら語りあってきました。議論は尽きることなく、互いの家へ行ってお酒片手に、読んだ本の話、歴史の話、政治の話などを深夜までして、朝になったら頭痛を抱えて帰路につくのが通例でした。そんなやりとりは大学を卒業しても続き、定期的に二人で集まっては10時間ずっと語りっぱなしなんて日も普通になっていました。

 教員と出版社と、お互い活動する場所は違っても、それぞれが考える「発信」の意義と価値について議論を重ねてきました。

 語る量が増えていくうちに関心も似てきて、「今、ここに行きたい」と思ったら自然と声を掛け合うようになりました。これまでにも、「歴史の継承」と「復興」をテーマに思索を深めに、京都と奈良へ行きました。また2019年には、当時話題になっていた「あいちトリエンナーレ」について、ネットの情報や誰かの言葉からではなく、この目で見て、考えたいという思いを共有して、愛知県へ訪問しました。今回のプロジェクトも、いつも通り二人で飲んでいる時に三塚が放った「一生に一度は必ず、アウシュヴィッツに行っておきたいんだ」という言葉から始まりました。

 三塚の来歴

 小学校の時の担任と合わず、学校に行けなくなる日々を過ごしました。「自分の方が教師に向いている」という反骨精神から教職を志し始め、気付いたら授業を「自分だったらこうする」と考えながら受けるようになっていました。高校3年生の頃に受けた日本史の授業が受験の知識を越えた深い内容で、「教科書に書いている歴史とそうでない歴史の違いは何か」、「そもそも歴史は誰が作っているのか」という問いを探究したくなり、教育学部ではなく文学部史学科に進むことを決意しました。

 昆を含めた友人の影響から、受験で使った日本史よりも世界史に関心を持ち始め、気付いたら西洋史関連の本を読んだり、映画を観たりするようになっていました。昆の家で友人たちと観た「新・映像の世紀」が面白くて、過去作を振り返りながら観ているうちに、「ホロコースト」のテーマに出会いました。それまで、「ヒトラー」「アウシュヴィッツ」「ユダヤ人」「ホロコースト」というワードは知っていたものの、アウシュヴィッツがポーランドにあることすら知らなかった僕は、その映像に衝撃を受けました。人はどうしたらここまで残酷になれるのか、何が人を残酷にするのか。そんな問いが駆け巡りました。大学卒業後もそれは続き、様々な本や映像を参照してきました。

 中でも、ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」、東浩紀の「愚かな悪」という概念は、一人一人のユダヤ人の「固有名」を剥奪し「数値化」したアウシュヴィッツと、一人一人の子どもを「生徒」とし「管理」する学校、という対比を僕に突き付けました。僕は、この「凡庸な悪」「悪の愚かさ」という問題は教師を志す限り真剣に考える必要があると思いはじめ、その頃から「いつか必ずアウシュヴィッツへ行きたい」と思うようになりました。(*誤解を避けるために書きますが、学校とアウシュヴィッツが同じだということを言いたいわけでは決してありません。同様の構造を持った「暴力」を行使しかねないことに危機感を持ったという意味で書きました。)

 昆の来歴 

 中学二年生の頃、沖縄へ修学旅行に行きました。沖縄では、元ひめゆり学徒隊の語り部の方から沖縄戦の話を伺いました。生徒を代表し、僕が感想とお礼の言葉を述べました。「今日お聞きしたお話を、記憶し、次の世代につなげていきたいです」。そう言うと、彼女は僕の手を強く握り「ありがとう」と言いました。修学旅行から戻り、今、僕らにできることは何か、考えました。ドイツ国際平和村への募金活動を学年全員で実施したり、自分たちで平和宣言文を作成したりしました。2008年から2009年にかけてのこと。世界ではガザ地区への空爆がニュースになっていました。

「社会科の教師になろう」。たくさん勉強して入った高校では、日本史と世界史ばかり勉強していました。一浪の末入った大学では、史学科で主に西洋近現代史を学びました。三塚と出会いました。戦争と平和の問題は常に僕の中心にありました。大学一年の夏、初めての一人旅として広島へ行き、沖縄や長崎へも行きました。他方で、歴史を残すこと、さらに転じ、情報を発信すること・表現することへ興味を抱くようにもなり、メディアやマーケティングに関心を持ちました。当時、広告界隈で「ソーシャルグッド」の概念が注目されつつあり、この考えに僕は惹かれました。また、趣味で小説を書き始めました。

 新卒で出版社のマーケター職に就きました。「人々が知りたい情報を代わりに取材し、人々へ届けるのがメディアの役目だ」と僕は教わりました。マーケターとして日々数字とデータを見つめ、人々がより関心のある情報の発信量を増やします。効果的に、より効率的に。

 では、人々が興味を持っていない情報はどうなるのだろう。それが歴史として刻まれるべき大切な情報だったとして、いかにして世に広め、残すことができるだろう。人々に関心をもってもらえるだろうか、どうすれば、戦争と歴史を伝えられるのか。問いは尽きないし、答えは見つからない。今、僕らにできることは何か、考えました。

今、僕らがアウシュヴィッツに行くということ。 

 正直、アウシュヴィッツは「いつか行けたらいい」と思っていました。もっと言えば、「いつかは行ける」と思っていました。

 新型コロナウイルスの流行とロシアによるウクライナ侵攻は、僕たちのそんな感覚を打ち砕きました。円安と石油の高騰という経済面で海外旅行のハードルは上がり、安全面や政治面でロシアやウクライナに行くことは困難になりました。「いつか」に保証はない。

 また、 20代も終盤に差し掛かり、各々のライフステージや社会的ステージに少しずつ変化が起きてきました。「いつか」がきたとき、身動きが取りづらい状況である可能性もゼロではありません。家庭的にも社会的にもフレキシブルな「今」、動くしかないのかもしれない。こうした想いに背中を押された僕たちは、 9月中旬に始めた計画を9月下旬にはある程度の形にしていました。

 しかし、この計画は 10 月 7 日、イスラーム教原理主義組織ハマスのイスラエル攻撃で端を発した「戦争」によって、様相が一変しました。僕たちは、「今、アウシュヴィッツに行くこと」の意味を考える必要性に迫られることになったのです。

 史学科だった僕らは、歴史を辿ることから始めました。

歴史から現代のパレスチナ問題を考えることの“躓き”。

 パレスチナ問題の起源を辿るのは簡単ではありませんでした。中世の十字軍遠征、 19世紀のシオニズム運動、第一次世界大戦時のイギリスの三枚舌外交など、調べ、学ぶほど、その問題の複雑性が際立ち、歴史の研究者でない僕たちにとって安易に結論が出せるものではないように感じられました。同様に、ハマスがなぜ「攻撃しなくてはならなかったのか」を探ることもまた、困難を抱えておりました。

 僕たちを驚かせたのは、そうした「わからない」「難しい」という反応に対して、直ちに「テロ擁護」「ハマスに与する」と、レッテルを貼られる現代社会の状況でした。実際、BBCはハマスを“テロリスト”と呼ぶことに慎重な立場を示し、人々へ中立な立場で観察することを呼びかけましたが、イギリスの首相や議会はもちろん、人々からも痛烈に批判されました。また、フランスの左派政党がハマスの攻撃を「イスラエルによる占領政策強化の流れの中で起きた「武力攻撃」」と表現したことは、「テロの正当化」として批判されました。それにもかかわらず、イスラエルによる民間人への空爆等の報復攻撃に対する欧米からの批判は多くありませんでした。こうしたある種のダブルスタンダードは、何に起因するのでしょうか。

 その一因として、僕たちはホロコーストの歴史があるのではないか、と考えました。ホロコーストという負の歴史が、反ユダヤ的と判断されかねない主張を困難にし、イスラエルの空爆を否定できないのが、世界の現状なのかもしれない。歴史を辿るという観点で言えば、歴史に学ぶということは、歴史に縛られる可能性もまた含んでいるということなのかもしれない。僕らはそう考えました。

 今の時代、ホロコーストに学ぶことは、一方では特定の主張を困難にし、慎重な検討を求める人を「テロ擁護」と非難するにもかかわらず、他方でイスラエルの空爆は否定できないというジレンマを抱えています。ホロコーストの当事者であるヨーロッパがこうしたジレンマを自ら解消することができないのは、想像に難しくないと思います。グローバリズムの時代、ヨーロッパのジレンマは世界のジレンマとして表出し、それは私たちの問題でもあると言えるでしょう。

 ホロコーストの歴史を継承しつつ、より中立的な立場でパレスチナの問題を考え、最終的な解決に向かうためには、第三者(部外者)の参入が必要なのではないか。

 そうした意味で、ホロコーストの象徴であるアウシュヴィッツに「今、日本人が行くこと」には重要な意義がある、むしろ日本人だからこそ、アウシュヴィッツを訪れ学ぶべきなのだ、と僕たちは強く確信しました。歴史に縛られ、ポリティカル・コレクトネスと切実性の対立が激化した現代社会では、第三者(部外者)の参入が果たす役割は大きいのではないでしょうか。

 以上を踏まえ、僕らは「観光客(部外者・第三者)」としてアウシュヴィッツを訪れ、学ぶことを、改めて決意しました。一方で、アウシュヴィッツへの観光を再考したとき、アウシュヴィッツへ日本人が訪問するのに複数のハードルが存在していることに気付きました。そもそもアウシュヴィッツがポーランドにある、という事実の認知度はどの程度あるのか。僕ら自身、大学に入るまで曖昧でした。周りの人に聞くと、アウシュヴィッツ自体を知らない人、アウシュヴィッツとポーランドが結びついていない人が多数でした。それを裏付けるように、大手旅行会社にもアウシュヴィッツのツアーはもちろん、ポーランドのツアーすらありませんでした。

 僕たちが「今、アウシュヴィッツに行くこと」は、部外者の参入という側面の他にも、日本人がアウシュヴィッツへ行くハードルを下げる、という副次的な効果もあるかもしれない。その可能性に気付いたとき、この旅行を個人的な体験に閉じず、社会に還元するプロジェクトにしたいと想うようになりました。

僕たちの役割と、歴史の発信と対話への挑戦。

 僕たちが世界の問題を今すぐ解決することはできません。複雑なこの問題に対し、有効なアイデアも浮かんでいません。では、僕たちがアウシュヴィッツを見学して果たせる「役割」とは何か。

 一つは僕たちの体験を広めることで、アウシュヴィッツを日本人にとっての「観光地」として考えてもらう場所にしたいということです。もう一つはアウシュヴィッツでの体験が、前述したような課題意識を持つ僕たちにどのような意味をもたらしたのか報告することです。

 教育とメディアと、異なる畑で活動する僕たちですが、「発信」に価値を置いていることは共通します。その上でこの発信は、単なる事実の報告ではなく、より多様な人々を交えての対話として行いたいと考えています。中高生や学生、社会人という立場を越えて、「観光客」(部外者)同士での対話が、この先の可能性を開いていくと信じています。それこそが、僕たちの考える新たな「発信」の形への挑戦です。

プロジェクトの理念

 僕たちのプロジェクトに共感し、支援してださった方とかえつ有明の生徒で、対話をベースにした特別教室を開きます。対話を重視する本校で、単に歴史を知ることの先にある、創造的空間を一緒に作りたいと思っています。

 第1講で、上記で示したような現代社会が抱える課題やホロコーストおよびアウシュビッツに「今、日本人が行く意義」を確認する講演を実施します。続く第2講でアウシュヴィッツへの行き方を含めた現地レポートをします。最終第3講で、みなさんと問いを作りながら対話する時間を設けたいと思っています。

 

 現在企画中の特別授業について、以下のスライドで紹介します。

 上は現段階で、僕らが考えている計画のスケッチです。内容をお約束するものではなく、変更になる場合が多分にございますので予めご了承ください。

特別教室で実際に使用する想定で作成中のスライド資料を適宜更新中です。下記URL先をご覧ください。授業で取り扱おうと考えているテーマや問題設定については、合わせてこちらをご参照ください。

▼特別教室の企画書公開更新中▼

https://www.canva.com/design/DAF-bmDX33c/GRR8NuQqBzNBkvD7HCQ_RQ/edit#1


プロジェクトの概要と展望

 特別授業の内容自体についても、ご支援者の皆様からアイデアをいただき、それらを組み込んでいくことも考えたいです。どこまで実現できるか、という点はむろんございますが、皆様と共に作り上げるプロジェクトとなればと思います。ご要望があれば何卒よろしくお願いいたします。

 本プロジェクトはあくまで「我々がアウシュヴィッツを訪れた上で、子どもから大人まで交えた特別教室を開く」プロジェクトです。しかし同時に、このプロジェクトが挑戦の第一歩となるような構想も考えております。資金調達の達成および本プロジェクトにより実施する「特別教室」が成功すれば、第2回、第3回とシリーズ化したり、より多くの人が参加できる枠組みを具体化していきます。その構想を、僕たちは「レキシする教室」と名付けました。少しだけ紹介いたします。

 歴史をともに学び、考える場を企画するプロジェクトとして、本クラウドファンディンを皮切りにスタート。その上で「レキシする教室の特別授業#1」と位置づけして、ホロコーストの特別教室を開催します。頻繁開催は現実的ではないですが、第2回、第3回、とシリーズ化を目指します。

また、より気軽に、けれど深く、歴史や歴史の実践について考える時間を作れればと思い、stand.Fmで音声コンテンツの配信をスタートいたしました。長尺の1本撮り、いい意味で不真面目で、だからこそ熱く。歴史を語るのではなく、考える、そんなありそうでなかった“歴史する”番組を目指します。

僕たちのプロジェクトに共感し、支援してくださる方をお待ちしております。


 現在、僕たちは上記のような視察内容で計画しています。アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所とザクセンハウゼン強制収容所の視察を中心に、ワルシャワ、クラクフ、ベルリンの各博物館や記念碑等を巡る予定です。


リターンについて

 本プロジェクトは「特別教室」の開催の対話を中心に、基本リターンとして、今、僕たちができる発信の実践として、充実したコンテンツを用意したつもりです。そのため、寄付額に対し、返礼としてなるべく見合う範囲でのプランをと考え、設計いたしました。

 他方で、純粋に僕らの活動を応援し、寄付をいただくものとして、寄付型のプランも合わせて用意させていただきました。応援いただけますと嬉しいです。



 目標金額は50万です。今回、All in型を採用しました。僕らは目標が未達の場合も、実際に視察を行い、一人でもご支援いただける方がいらっしゃれば、特別教室の開催をいたします。最終的な人数や金額が目的ではなく、一人でも一緒に対話をしてくれる人を、賛同してくれる人を募りたいという想いから、このプロジェクトは設計されています。何卒よろしくお願いいたします。


部外者としてかかわることの暴力について

 僕たちは部外者としてかかわることを肯定的に語りました。しかし、それは必ずしも褒められる態度ではないのかもしれません。殴られる痛みは殴られたことがある人間にしかわかりません。いじめられたことがない人間がいじめの問題について語っているのを、いじめられたことのある人が見たとき、不快な想いをすることもあります。ホロコーストの暴力の歴史は、突き放した態度で語ること自体を拒絶するほどに、凄惨なものです。僕らはまだ、その悲惨を十分に語る言葉を持っていないし、持つことはできないのかもしれません。

 確かなことは、いずれ、本当の意味での当事者がいなくなるということです。加害者が消え、被害者も消え、後には歴史のみが残ります。確実に、遠くない未来の話です。ポストトゥルースと歴史修正主義の時代、僕らは、それでも、語らなければならないはずだと考えています。ホロコースト自体、世界における歴史修正主義の問題の中心でもあるからです。

 当事者と部外者の対立を超えた「第三者=観光客」として考えることこそが、「歴史として考える」ということなのではないか、と思います。

 長文となりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

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