自己紹介

初めまして!三枝新汰(さえぐさ あらた)と申します!

2002年3月16日生まれの、現在21歳です。

静岡県で生まれ育ち、ずっとサッカーをしてきました。

ポシションは主にサイドのポジションをすることが多く、ドリブル突破や推進力でチャンスメイクをすることを得意としています。

サッカー経歴

2007〜2013 裾野西サッカースポーツ少年団

2013〜2014  裾野市立西中学校サッカー部

2014〜2016   FCヴァーデュア三島

2017〜2019  東京ヴェルディユース

2020〜2021  Iowa Western Community College

2022〜2023  FSV Duisburg



このプロジェクトで挑戦すること・目的

まず、このプロジェクトでの一番の目的は、ずっと目標として掲げてきた、プロサッカー選手になるということです。

そして、その目標を実現するために、2月にクロアチアへ渡航し4部(アマチュア)のチームにテストを受けに行きます。そこで、3ヶ月間、試合に出場し、夏にプロになる為の、実績を作る。というのが今回のプロジェクトになります。

そして、このプロジェクトを行い、皆様からの応援、サポートというものを形にすることによって、さらなるモチベーションに繋げるという点もあります。

原点となった小学生時代

小さな頃から、体を動かすことが大好きで、よく外に出て遊んでいました。小学校1年生になった頃に、友達がみんな入っていたので、地元のサッカーチーム、裾野西サッカースポーツ少年団に入りました。その頃の僕は、友達と一緒にサッカーをするのが楽しく、ただ楽しんでやっていました。しょうがく4年生になった頃、新しく若いコーチが、チームにやってきました。これが、最初の大きな転機でした。地元のごく普通の少年団で、何もわからずに、ただ友達と楽しくやれればいい、そう思いながらやっていた僕たちに、考えてサッカーをすること、技術的なこと、その為の自主練習など、本当に基本的なことではありますが、何も分からなかった僕たちに教えてくれました。サッカー以外でも、いろいろな場所に連れて行ってもらい、とても楽しかったのを覚えています。

仲間との別れ、新たな挑戦

中学生になり、次の進路を考えるときになりました。クラブチームに行くという選択肢もある中、僕は、ずっと一緒にやってきた友達のいる、地元の裾野市立西中学校サッカー部でやることを決めました。僕らの代は、仲も良く、サッカーに対しては、比較的真面目に取り組んでいたので、休みの日なども集まって、練習したりしていました。そのおかげもあり、最初の大会、新人戦では、県大会に出場することができました。結果は、PK戦の末、初戦敗退となってしまいましたが、地元の小さなチームでやってきた僕らにとっては、県大会出場は一つの目標としてあったので、とても悔しかったですが、濃く楽しかったのを覚えています。

そして、もう一つの転機が訪れます。新人戦も終わり、ここからチームとしてさらに上を目指していこうとしていましたが、僕の中で、もっと高いレベルでやらなければいけない、そう感じていました。そこで僕は、新人戦が終わり、2年生になる頃、同じクラスの同級生が入っていた、FCヴァーデュア三島というチームに入ることにしました。このチームは、東京ヴェルディという、Jクラブの静岡県支部チームということもあり、最初に練習参加をした際、レベルの違いを感じたことを覚えています。チームに入ってからは、ありがたいことに、上の学年の試合にも出させてもらい、さらにレベルの高い環境でサッカーをすることができました。それからは、いろいろな場所にある、ヴェルディの支部チームから選抜される、支部選抜や、静岡県トレセン、東海トレセンなどにも選ばれ、その年代のトップレベルを肌で感じることができました。チームでは、仲間にも恵まれ、とても楽しい2年間になりました。

たくさんの事を感じた3年間

中学も終わり、高校生になりました。僕は、ヴェルディの支部チームにいたこともあり、東京ヴェルディユースに入ることが決まっていました。ヴェルディユースは昔から、育成にとても定評のあるチームで、実際に一緒にやってみて今までとはまた違ったレベルの高さを感じました。1年生の頃には全く試合に絡むことができず、練習の際も、全体練習には人数の問題で参加できずに、コートの端で少人数で練習をするといった日々でした。とても大きな差を感じていた僕は、休みの日にはグラウンドへ行き、練習をし、学校が終わってから練習までの時間で練習をしたりして、なんとかついていこうと必死になっていました。そして、サッカー面以外にも、ヴェルディの練習場は東京にあり、地元は静岡だったので、僕は、親元を離れ、東京に就職することになっていた姉と、二人で暮らすことになりました。初めての実家を離れての暮らし、まだ高校生だった僕には苦労することも多かったです。
2年生になる頃には、少しずつ慣れてきて、春には試合に使ってもらえるようになりました。この時は、サッカーをするのが楽しく、少しずつ自信もついてきていました。リーグ戦も始まり、4試合ほど経過した頃に、僕は筋肉系の怪我をしてしまい、リハビリをすることになりました。怪我自体は、それほど大きいものではなく、復帰したものの、パフォーマンスが完全には上がりきらず、他の選手の活躍などもあり、試合には絡めずになっていました。その後も、なかなか調子は上がりきらず、メンタル的にも不安定になり、怪我をすることも多くなっていきました。結局試合には絡めないまま、1年が終わってしまいました。
3年生になり、自信もあまり無くなっていた春先、練習試合があり、僕もその試合に出ていました。その試合で、僕は調子がよく、果敢に突破を図り、チャンスを作ることができました。その試合の後に、監督に「あれが本来の新汰だ」と言われ、そこで自分の役割、自分で気づけていなかったものに気づくことができました。そこからは、怪我などもあったものの、1年を通して試合に絡むことができました。3年間通して、辛いことの方が多かったですが、この3年間は自分にとって、とても意味のあるものになり、たくさんの事を学ぶことができました。

充実のアメリカ大学サッカー生活

高校を卒業し、僕はもともと海外に興味もあり、近年サッカーに対して力を入れているという、アメリカの大学への進学を決めました。(Iowa Wetern Community College)そして、英語を勉強するためにまずは、フィリピンに語学留学をしにいきました。もちろんサッカーをする環境もあり、とても充実していたのですが、ここでコロナが世界中で大流行してしまいました。フィリピンでも流行し始め、本来は2ヶ月の予定だったのですが、1ヶ月で日本に帰らなければいけなくなりました。アメリカの大学への入学は9月からだったので、約半年まともにサッカーをすることも出来ずに、一人でのトレーニングと、英語の勉強をすることを強いられました。この期間はとても苦しかったです。ですが、幸いにもアメリカには予定通り渡航することができ、マスクをしながらではありましたが、ずっと楽しみにしていたサッカーを、ようやくすることができるようになりました。アメリカの大学は設備がとても充実していて、僕の学校には、室内トレーニング場などもあり、とてもワクワクしていました。しかしここでは、新たな壁にぶつかります。言語です。勉強はしていましたが、やはり実際の英語は聞き取ることも難しく、コミュニケーションをとるのに苦労しました。なので、僕はサッカー中に、ボールを渡して一緒に蹴ったりして、積極的にコミュニケーションをとるようにしました。実際プレーも、ずっと楽しみにしていたので、サッカーができることが嬉しく、とても調子が良かったので、それもあり、チームメイトも話しかけてくれました。少しずつ言語にも慣れてきて、仲間とも仲が良くなり、サッカーではリーグ戦が始まりました。僕が行っていたのは、2年制の学校だったのですが、まず同じ州の2年制の学校でリーグ戦を行い、同じ地域の周辺の州から上位3チームが集まり、トーナメントを行い、そこで勝った上位2チームが全米トーナメントに進むことができるというものでした。僕たちは1位で全米まで進むことができ、決勝まで勝ち残りました。初めての全米大会。とても気合も入っていたのですが、結果は惜しくも敗戦。最初の全米は準優勝で終わりました。とても悔しく、絶対に優勝したいという気持ちが芽生えました。そして迎えた、リーグ開幕。僕たちは、地域2位で再び全米大会出場をつかみました。全米大会予選リーグ。僕は、とても調子が良く、2試合終了した時点で、1ゴール2アシストしていたのですが、2試合目で相手との接触で肩を脱臼してしまいました。しかしチームは勝ち続け、念願の全米優勝をすることができました。全国で優勝するという経験は初めてで、とても嬉しかったのを覚えています。アメリカでは、サッカーの楽しさ、そして色々な人たちと関わることで、感じることもたくさんあり、人としてもさらに成長することができました。

どん底のドイツ

4年制への編入をするのが普通なのですが、ドイツでサッカー選手を目指せると聞き、少しでも早くなれるならと思い、編入はせずに、ドイツへ行くことを決めました。しかしドイツでの生活は、思い描いていたものとはかけ離れていました。下のリーグでも、環境が整っており、プロとして、またはプロ同然の環境でサッカーができる。と、思っていたのですが、実際は、そんなすぐにそういったチームに入れるわけはなく、僕は5部のFSV Duisburgというチームに入ることになりました。そこから、試合に出て、ステップアップを目指していましたが、現実はそう甘くはなく、まだドイツでは経歴のなかった僕は、なかなか試合には出してもらえず、苦しい時間が続いていました。ちなみにこのチームは、全く勝てずに、ダントツで最下位でした。それもあり、半シーズンを終え、後半戦が始まる頃には、3人目の監督になっていました。今までの監督は、ベンチに入ることはできていたのですが、この監督になってからは、ベンチ入るどころか、練習にも参加させてもらえず、僕は一緒に所属していた日本人とともに、セカンドチーム(おじさんばかりの草サッカー)の練習に行かされていました。監督に連絡をして、練習に参加させて欲しいと言っても返信もなく、この時は本当にもどかしく、投げやりになりそうにもなっていましたが、一緒にいた日本人と共に、トップチームの練習に飛び入りで行ってみたり、ドイツではよく電車が遅延したり、運休になったりするのですが、そん日も1時間半かけて、歩いてグラウンドに行くなどして、なんとか気持ちを示そうとしていました。すると、その気持ちが伝わったのか、練習に参加する許可をもらうことができました。ですが、試合に絡むことはなく、日曜日なると毎週セカンドチームに行かされ、おじさんたちとサッカーをしていました。正直、今でもなぜあんな扱いをされたのか分かりません。練習ではいつも、僕たちのチームがAチームに勝っていたし、チームメイトも認めてくれていて、監督になぜ新汰を出さないんだと連絡してくれるような人もいました。ですが、試合に出れなかったのが事実で、監督の気持ちを変えれなかった、僕の実力というのも事実であり、前に進むしかありませんでした。
1シーズンを終えて、僕は次のチームわ探しはじめますが、最下位のチームで出ていない日本人など、欲しいチームがあるわけもなく、厳しい状況が続いていました。そこで、エージェントの方から、他の地域のチームの練習参加の話をいただき、すぐに行くことになりました。すると、2回目の練習後合格をもらうことができ、やっとの思いで移籍先を見つけることができました。この時が8月で、僕がチームを探し始めたのが4月だったので、やっと。という気持ちでした。そこから、練習に参加しながら、サッカーだけではまだ、ビザがおろせなかったので、バイト先も探しながら、準備を進めていました。しかし、ある日の朝、自主練を終え、帰ろうとしていた時に、エージェントから電話がかかってきました。そこで言われたのが、「このリーグには、外国人枠があって、このチームはオーバーしている。そして、ビザを持っている選手を優先するから、新汰のことは一番評価しているが、持っていない新汰はもうチームにいれないと、チームから連絡が来た。」という内容でした。つまり、チームがルールを把握しておらず、選手を取っていたため、ビザをまだ持っていなかった僕は、追放となったのです。正直、突然のことすぎて、何も感じませんでした。そして、これを言われたのが、8月27日。自由に移籍ができる期間、移籍期間が終わるのが、8月31日でした。4日でチームが決まるわけもなく、僕は、所属なしの選手となってしまいました。そして更に、その数日後に、僕はチームの出してくれているシェアハウスに住んでいたのですが、その家も追い出されてしまい、家も無くなってしまいました。当然お金もどんどん無くなっていく一方で、精神的にどん底にいました。その後、僕と同じ状況で追い出されてしまった日本人と共に、その日本人のバイト先である、ラーメン屋の事務所に居候させてもらうことになりました。快く迎えてくださったラーメン屋の方々には、本当に頭が上がりません。2週間ほど経ち、色々な選択肢を考えた末に、一度日本に帰るという選択をしました。というより、ほぼ帰らなければいけない状況になってしまっていました。

日本に帰ってきた僕は、かなり精神的にやられていましたが、諦めきれず、今の僕が、プロサッカー選手になるための選択、を考え、今回クロアチアへ渡航するという決断をしました。


スケジュール

1月下旬 クラウドファンディング開始

2月下旬 クラウドファンディング終了

2月25日 クロアチアへ渡航
        ↓
    1週間後に練習参加
        ↓
3ヶ月間在籍、試合に出場し経歴を作る。

2024年7月頃 モンテネグロへ渡航 練習参加


資金の使い道

航空券:約20万円

サッカー用具(スパイクなど):約5万円

プロテインなどの栄養サプリ:約3万円

活動費(トライアウト期間):約15万円

手数料(17%):約9万円

計52万円になります。


最後に

僕も21歳でサッカー選手としては、そこまで若いわけでもなく、サッカー選手にもなれていない僕は、正直崖っぷちです。ですが、これは僕がずっと目標としてきたことであり、今まで支え、応援してくれた友達、家族、コーチであったり、先生であったり、居候させてもらったラーメン屋の方々、本当にたくさんの人のおかげで、今も続けられているということを感じていてその人たちに、サッカーで恩返しをしたいという気持ちがあります。そして、僕は決して順風満帆なサッカー人生を歩めて来れた訳だはありません。日本ではプロにはなれず、海外に挑戦した今でも、プロになることはできていません。ですが、この挑戦から、プロ契約を勝ち取り、夢を追いかけている人たちに少しでも、希望を与えられたらと思っています。もちろん、今回も簡単なことではないですし、金銭的な問題もあることは事実です。そこで、皆様からの支援を頂けたら、ありがたいと考えております。そして、ご支援していただいた皆様にも、サッカーで活躍をすることで、恩返しをしていきたいです。
簡単なことではないと思いますが、少しでもご支援いただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします!


<募集方式について>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。

  • 2024/02/29 19:49

    先日、無事にクロアチアへ到着しました。学校の寮のような場所で、ご飯も出るのでとてもありがたいのですが、これは部屋からの景色なのですが、見ての通りとても田舎で、何もすることがありません笑 サッカーに集中できる環境ではあるかと思います。練習も一度参加し、近いうちにシーズンも再開すると思うので、それ...

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