2017/02/01 23:10

津軽鉄道サポーターズクラブです。

平素からのご応援、大変ありがとうございます!
目標額達成後も引き続きご支援いただき大変嬉しく思っているとともに、転車台の復活にあたり皆さんの思いを少しでも表現していきたく思っています。

さて、今回の活動報告では、「歴史的価値の高い、津軽鉄道の転車台を眠らせておくのはもったいない!」
の声を上げていただいた、中泊町「起きて夢見る会」会長の夏原さん(写真左)より頂いたメッセージをお届けいたします。
津鉄への思いがたくさん詰まったメッセージですので、ぜひお読みいただければと思います。

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津軽鉄道の思い出

起きて夢見る会 会長 夏原 謙二


津軽鉄道、それは昭和21年生まれの私のとっては思い出がいっぱい詰まった宝の箱である。

私が小学校に入学する前、家族で芦野公園の観桜会に行ったことがある。自宅のある岩木川沿いの長泥地区から津軽鉄道の大沢内駅まで歩き、ようやく着いたら、駅舎の中に入れないほどの人がたくさんいて、酔っぱらいのオヤジたちが大声で歌ってたことに小さいながらにとても驚いた。ようやく汽車が駅に着いたら、客車が満員で入れなくて、私の家族も駅に居た人は皆、屋根のない貨物列車に乗ることになった。やっとの思いで乗車したら、すぐ他の人に押されて、家族がバラバラになってしまい、その時はじめて家族が離れ離れになる辛さと恐怖心、芦野公園駅について家族と会えた時の喜びと安心感を体験したような気がする。

それから7年程が経った、私が武田中学校1年生の時である。その頃の夏原家は、父親がいなくて、祖母は小さな雑貨店を経営し、母親は津軽鉄道で五所川原市内まで商品を仕入れに行き、行商をしながら家族を支えてくれていた。友達と数人で大沢内駅から汽車に乗って五所川原市に遊びに行くことになっていたが、私には切符を買うお金が無かったので、行くことを諦めていた。ところが、ちょうど目の前にお店の売上金があったことから、祖母も母親も裏切ってその売上金の一部を自分の都合のよい解釈で使用して、友達との約束を果たすことができた。友達との初めての津軽鉄道の「小さな旅」はとても新鮮で、車窓から見える田んぼや岩木山、自然の風景はあれから60年たった今でもくっきりと心に残っている。その晩、家に帰ると祖母と母親から「自分勝手なことはするな。」、「泥棒はするな。」、「家族を裏切るな。」と厳しく叱られ、二度としないと誓った思い出も反省の痛みと共に心に残っている。

 やがて中学を卒業となり、友達が集団就職で都会へ出発の時が来た。私は地元の高校に進学することになったので、同級生を見送りに金木駅や大沢内駅へ幾度となく出かけた。家族・親戚・友達が大勢で見送ったが、今ではほとんど見かけることが無くなった。

 金木高校へ通学するため津軽鉄道を利用していたが、その頃の車内はとても賑やかだった。私のような通学生客、通勤客、行商人、通院客で混雑し、吊革につかまったり隣同士で支え合ったりしながら乗車するのが日常であった。車内ではお互いに挨拶を交わしたり、笑い話や自慢話、ほら吹き話に拍手する人、人と人とが繫がる津軽鉄道は「地域の交流列車」でもあった。

 昭和40年に金木高校を卒業後は故郷を離れてからは津軽鉄道を利用することが無くなった。3年後には地元に帰ってきたが、その後も津軽鉄道を利用する機会はほとんど無くなった。この頃から交通手段が変化し自家用車の時代になり、津軽鉄道に限らず全国的に鉄道利用客の減少傾向に突入することになったと思う。

 車社会での生活をするようになってから、私は津軽鉄道を利用することもほとんど無くなった。

ところが、趣味で参加していた「地域づくり活動」の繋がりにより、定年退職後に津軽鉄道を利用する機会が増えることになろうとは思ってもみなかった。地域づくり団体の連携が必要だということから新たな団体「起きて夢見る会」を設立することになり、その会長を引き受けることになった。会の名称は「寝てみる夢はすぐ忘れてしまうが、起きてみる夢はさめない。地域を明るく元気にし、次代の子供たちに!」との思いからついたものである。

その後は、会の活動が認められ、津軽鉄道の津軽中里駅隣接のスーパー空き店舗スペースを改修していただき、津軽中里駅「駅ナカにぎわい空間」としてスタートすることが出来た。津軽伝統「金多豆蔵人形芝居」の特設劇場が隣接していて、特産品や郷土料理の販売や定期的に行うステージ発表などもあり、今では憩いの場となっていて、まさに「にぎわい」を発信する場となっているように思う。

また、津軽鉄道の経営が苦しいと噂になった時に、津軽鉄道沿線の有志が発起人となり、「津軽鉄道サポータズクラブ」を平成18年に設立し、現在に至るまで様々な活動をしていることは素晴らしいことだと思う。そして、今また、津軽鉄道の津軽中里駅構内に眠っている「全国でも数少ない転車台」を復活させようと立ち上がった。

私は、子どもの頃の思い出や、友達との出逢いや別れ、母親や祖母の教育、車窓から見る風景、津軽鉄道は津軽に生まれ育った人々の貴重な財産であり、地域の宝だと思っている。

世界中の皆様の応援を頂き、今まで眠っていた「転車台」を共に目覚めさせ、新たな津軽鉄道の夢を見たいのです。