福島県いわき市出身 小2 担任の荒井先生がスポ少ミニバス顧問のため小3からのバスケ部加入を進められる。バスケが何かは知らなかったが、荒井先生が好きだったのでミニバスに加入を決意する。 小3 荒井先生が転勤。ミニバスには入るも練習が辛すぎバスケが嫌いになる。男子は上級生がおらず小3から大会に出場。毎試合100点ゲームで負けてバスケが大嫌いになる。 小5 初めて県大会に出場した気がする。渡邉拓馬選手の後ろ姿が目に焼き付いている。 小6 勝てる様になるも、いわき市では3位続き。最後の大会で唯一優勝。県大会では全国出自の笹谷ミニバスに50点差で大敗。自身はセンターでドリブルをつくこともなく、シュートも打てずただゾーンの真ん中に立つだけのセンター。バスケより友達と会える事が目的で参加していた。 中1 ある日、シュートのコツを掴み、突然3ポイントシューターになる。一年生の練習試合でミニバスでは接っていたチームに圧勝。 中2 試合にはあまり出れず。友達に彼女が出来始める中、まったくモテない人生を歩む。 中3 スタメンガードとしていわき市3連覇。小学時代50点差で負けた笹谷ミニバス母体の中学に1点差での惜負。 土浦日大目指して勉強を頑張る。学力を一気に上げる。 高1 土浦日大入学。バスケ部に入部。運が良かった。憧れの君島茂男さんと同部屋になり、辛くも充実した日々を送る。 高3 関東大会まではユニフォームをもらうも、一本のパスミスで出場機会を失う。 インターハイ後に引退。 18歳 卒業後、板前になるためにフリーターへ。様々な仕事をこなし、社会を知る。 女性と話す事が苦手だったため、思い切って土浦市桜町のキャバクラのボーイへ転身。 あれよあれよと出世街道を登り、店舗運営を覚える。 21-23歳 東京で板前修行を開始。専門卒の同級生に圧倒的な知識と技術の差を見せつけられ挫折。夜逃げして福島県いわき市に帰る。 街並みを見て「行ける!」と確信し事業計画書を作成。信用金庫からお金を借りて『パブ シンプル』を開店。 よそ者扱いで地元の経営者から嫌がらせを受けたり風評被害にあい経営破綻寸前になるが、ある事がきっかけで経営は軌道に乗り開店前に列が出来るお店となる。 その後、店舗は出火原因不明の火事で焼失し、しばらく路頭に迷うも保険金で新店舗を開店。4店舗同時運営まで拡大する。 年収は3,000万円を突破。 母校ミニバスのコーチになり結果を残すも1年でクビになる。 25歳 経営に虚しさを感じ、社会を知り己の価値を探すために東京でITをため学ぶ事を決意。専門学校を探し始める。 26-27 東中野の東京工科専門学校に入学。ITを学び社会人バスケに明け暮れる日々を送る。 28歳 新卒として社会人デビュー。ITの仕事をしつつ社会人バスケに明け暮れる。 結婚を機に川崎市へ転居。 29歳 長女誕生。 31歳 親友が経営するアパレル ベンチャーへ転職。人としてどうあるべきかを学ぶ。充実はしていたが多忙すぎたため、次女の妊娠をきっかけに退社する。再びITの世界へ。 32歳 バスケや育児に明け暮れながらITで平和な日々を送る。しかし、何か自分にできる事があるはずと様々な事を模索し始める。 35歳 小1となった娘を連れて現在の師匠である竹原勝也さんが主催するアメリカのバスケキャンプに参加。指導方針の違いに感銘を受けて日本でバスケスクールの運営を決意。 ITの傍ら月1程度のご近所バスケスクールの運営を開始する。 39歳 バスケスクールを法人化。個人事業主としてITは続けながらバスケスクールを拡大。 その度に様々なトラブルも発生し多忙すぎてノイローゼ気味になる。 優秀なスタッフの加入により課題は解決し、バスケスクールの運営は安定していく。 40歳 フランチャイズで飲食店を契約直後に新型コロナウイルスが蔓延する。課題の増加や飲食店スタッフのトラブルで苦悩する日々が続く。 バスケスクールも大半が閉鎖となる。 42歳 アメリカキャンプを久々に開催。現地で参加者がコロナウイルスに感染し1ヶ月以上をアメリカで過ごす。 帰国後に体調を崩し1年1ヶ月もの間闘病生活が始まる。 43歳 回復しない体調に心が折れかけるも、YouTubeで安芸高田市の動画を目にする。石丸市長の確固たる決意に心が動き、次第に体調も回復する。 YouTube LIVEなどを始める。 44歳 安芸高田市へ訪問。スポーツは地方で。兼ねてから描いていた理想図を安芸高田市で創り上げる事を決意する。
クラブ創設35年目で初の福島県春夏連覇!目標としていた全国の舞台へ!「国立代々木体育館」で子供たちが精一杯活躍できるために、皆様の温かいご支援を宜しくお願い致します。
誰もが自由に使えるストリートバスケットコートとしてオープンした『グレープパークコート』。コロナ禍の中、なんとか運営をしています。今回は、改めて『グレープパークコ...