榮久庵憲司氏の教義 道具とは、字のごとく【道の具え(そなえ)】なり 故に、モノに心を感ずれば 人に新しい世界が出来るでしょう そして、今までとは異なる世界が開けるでしょう、 道具を奴隷の如く扱ってはいけません 人と道具は対等でありましょう とございました。 その肩をお借りしまして私も書き残しましょう、 皆さんはこの世界に産み落とされて 普遍的立法の(然るべき原理)として 自然に対等に扱う所以は当然(普遍的)でございましょう。 故に産み落とされたばかりの自然に近い頃ほど 娃娃を可愛がってやり、家畜や人が殺される事に胸を痛め、 ものを捨てることに罪悪感を感じることありましょう。 しかし皆さんの中には大人という価値感に、慢心浸り、 それを大人の都合と云い嘘をついては、上述の業を当然の如く成し、 人間の法律をもって正当化し、明らかな方便を用いて更なる罪を得て、 贖罪を果たした経験と似たこと、知識とともに多くございましょう。 おそらく、成功経験者による立法、および法律(社会契約論)が いずれ全員が地獄へ舞い戻る導きや、大きな役割を果たしてしまっていると、 思いましょう、 それが、大人の価値観として植え付けられた事に気付きつ、 慢心浸り目の覚めぬことも、物質的成功者への道を目指すことも、 一つの道でしょう (心の欲する所に従えども矩を踰えず)ともありますし 汝の欲することを為せ とも先人がみな口をそろえて云いましょう しかし同義に、一時的な飢えを満たす手段だとも教義されているからこそ 要ともなりましょう おのず 我々の行いは不断の業によるのです、相手が動物であれ物であれ 不断の行いは相手(人)へも同様の業として現れましょう それに対する応報について、 わたしたち人間の法律価値によって、応報の良貨と悪貨を選別して、 法的権限のある者だけが((応報の良貨だけを搾取し貪る事も))できましょう。無論、残りの応報の悪貨は、権限のないものに及ぶのです、 それが人間の応報に起こり紛争や災難を招き易き業でしょう。 しかし自然の応報とは全く違いましょう、 人為的な行いではどうにもなりなかったでしょう、ゆえに すべてに畏敬を示さなくてはならず、尊厳とはそのようなことでしょう。 なにより、 ただ然るべくある相手は、然るべくとらえようのない存在でしょう 影響力のあるものだけ畏敬を示すなど到底出来る芸当ではありません。 不断の業とは、そう云うことです。 依って今ある成功者の法的導きに従うことは、 現状全てが、同じ地獄へ戻ってしまう事を目指しているにすぎず、 現世地獄である世界から、本来の(人間)を目指すには 程遠いのです 多くの先人が残した言葉を導きとするならば、 こうして阿修羅道を避けてとおる事は出来ないのです、おそらく皆さんは すでに餓鬼道も畜生道も通ってきたことでしょう、 なぜなら ここでこうして、ご縁があって、何事か!とまたは、地獄への導きを拒んで 新たな導きがないものかと思索し彷徨い 読んでくださっていると存じましょう このまま消費と生産の成功者の道を追い目指せば 地獄へ戻ると云うことを忘れず、慢心ならず同志ともども油断せず進みましょう 解釈は銘々の良心とともにございましょう、 どうか故人の思うところ解釈に近しくなりますよう 己所不欲勿施於人
滋賀県湖南市の国宝長壽寺。きっかけは目の不自由な方から当山の新たな価値を教えていただいたこと。昨年、多くの皆様からのご支援で修復させていただいた世界に一つだけの...
福岡県糸島東部八十八カ所 第39番千手観世音 がお祀りされている地蔵堂は、昨今の地震の影響と毎年の台風影響により、地域の生活道路側に壁が倒れかけており改修が...