9月14日発売予定の『月刊秘伝』10月号誌上に拙稿が掲載されますが、タロー・ミヤケこと三宅多留次について記しております。彼の主な足跡と田辺又右衛門についても触れておりますので、書店等でお見かけの際には是非ご笑覧下さい。
タロー・ミヤケこと三宅多留次の簡単なプロフィールです。 本名三宅多留次(たるじ)。1881年(明治14年)岡山県上道郡沖田村(現在の岡山市中区沖元)出身。 少年時代より柔術を学び、不遷流、起倒流、竹内流、大東流(大東流合気柔術とは異なる)等を習得する。特に不遷流に関しては、当時日の出の勢いの講道館柔道に対峙する古流柔術の急先鋒としてつとに有名であった四世田辺又右衛門の愛弟子として長く師事し、免許皆伝を受ける。 長じては、大日本武徳会における対抗試合(1900年)や第五回内国勧業博覧会における武術大会(1903年)等で優秀な成績を収める。 1904年に渡英、イギリス国内やフランスで柔術を指導する傍ら、『タロー・ミヤケ』のリングネームで現地のプロレスラーなどを相手に異種格闘技戦を行う。第一次世界大戦が勃発した1914年にはアメリカに進出し、エド・ストラングラー・ルイス、ジョー・ステッカー、ジム・ロンドス、アド・サンテルといったプロレス史上に名を残す当時の一流レスラーたちと幾多の試合を行い、彼自身もトップレスラーとして活躍する。 1928年(昭和3年)にアメリカのプロレスラーを帯同して帰国し、『大日本レッスリング普及会』なる組織を発足する。さらに大相撲の年寄・千賀ノ浦(元関脇・綾川五郎次)らとともに日本各地でプロレス巡業を行うも、興行的に失敗しアメリカに引き返す。 1931年にはハワイで日系人の識名盛夫をスカウトし、柔術とプロレスリングの指導を行う。識名はのちにプロレスラーを目指す力道山にトレーニングを施し、若手時代のジャイアント馬場やアントニオ猪木を指導した、日本プロレス時代の名レフェリー、沖識名である。 1932年(昭和7年)に帰国し、郷里の岡山で余生を送る。 1935年(昭和10年)逝去。享年54。