帚木蓬生先生より、『守教』を書くことになったきっかけと、今村天主堂への想い、エールを寄稿していただきました。①私と『守教』 帚木蓬生 『守教』の舞台は、現在の大刀洗町今村です。私の生まれ故郷は、宝満川を隔てて隣接する現在の小郡市大保です。今では宝満川に橋が架けられ、大保から今村までは車で15分もあれば行けます。 中学生の頃、剣道をしていたので、防具を自転車の荷台に積み、あちこちの町村大会に出かけていました。そんな折、今村の天主堂を眼にしたのです。田んぼの真ん中に、どうしてこんなに立派な教会が建っているのか不思議に思いました。帰って大人たちに訊いても、知らないと首を振るばかりでした。 2008年の夏、私は急性骨髄性白血病を得て、半年間血液病棟のクリーン・ルームに入院しました。年初めから書いていた『水神』を書き終えたのは病床でした。郷里の筑後有馬領の悲しい百姓たちの物語です。5年後の2013年、今度はやはり有馬領の百姓一揆を描いた悲惨な物語『天に星 地に花』を書き上げたのです。筑後三部作の掉尾を飾るにふさわしい主題は何か、考えていたときに思い浮かんだのが、今村の天主堂でした。その痛切極まる物語『守教』を書いて、ようやく少年の頃の謎が解けたのです。60年近くが経っていました。②今村天主堂 帚木蓬生 だだっ広い筑後平野のど真ん中で、250年にわたって続けられたキリスト教信仰の地今村に、藁屋根木造の今村教会が建てられたのは、明治14年(1881)でした。最初の頃の神父は、パリ外国宣教会に属するフランス人神父が主でした。第5代の本田保神父は浦上四番崩れの犠牲者であり、横浜と東京の神学校で修練を積んだあと司祭に叙せられています。その尽力でドイツの信者から浄財が集まり、大正2年(1913)、現在の双塔ロマネスク式赤煉瓦の天主堂が完成します。建築家は、キリスト教信者が多数潜伏した五島生まれの鉄川与助でした。故郷近くの曽根教会を施工したペルー神父や、長崎外海の主任司祭のド・ロ神父に西洋式の建築を学んだのです。今村天主堂を起工する前、鉄川は既に浦上天主堂の起工式を終えていました。 百年後の今も、その秀麗な建築は、綿々と続く今村の信仰を象徴して、筑後平野の中で偉容を誇っています。 しかし、百年の歳月には天主堂も耐え難く、処々に傷みが生じています。この天主堂の歴史的な価値は、このたび世界遺産になった天草・五島・長崎の教会群に優るとも劣らないものです。『守教』で描かれたように、受け継がれた強靭な信仰、周辺の村々の人々の寛容さを具現する遺産として、このまま瓦解させてはいけません。百年前と同じく、今度はドイツ人ではなく、日本人の浄財での復活を切に願っています。
帚木蓬生先生からのお言葉
2018/12/07 17:51