あのNHKまでが「平成最後の」とか言っていて、ちょっとビックリします。
「平成最後の」にどれほどの価値があるのでしょうか、僕には分かりません。
そして、新聞や他メディアでは、新しい元号はなんだろう?みたいな特集。
そんな問いでいいのか?と思います。
僕だったら、来たるべき新しい元号になる1年をどんなふうにしたいのか?
「あなたの〇〇元年を教えてください。」みたいな問いのほうがいいんじゃないかなと思います。
ウチノ食堂藤蔵での野呂さん山田さんとのトークを思い出して、そんなことを思いました。
2019年、どんな元号になったとしても、新たな元年になります。
平成元年(昭和64年)だったみたいに、
〇〇元年(平成31年)になるのです。
1月1日からクラウドファンディングを開始しています。
「バンド組もうぜ」みたいに「本屋やろうぜ」、と。
「本屋元年」にしようじゃないか、と。
2018年12月25日。
ウェブマガジン「温度」に「2018年のあなたを表す1冊」の2人目として紹介されました。
http://ondo-books.com/rensai/1335
取り上げたのは、宮島達男「芸術論」(アートダイバー)
この夏、能登・七尾にいった帰りに、金沢に寄って谷内くんに再会して、
そのあとに21世紀美術館にいったら、カウンターはすさまじい行列で
レアンドロのプールを上から見て帰ろうと思ったところで
ミュージアムショップで目にとまって、購入。
シビれる1冊との出会いになりました。
~~~以下、ウェブマガジン「温度」より引用
「元来、アートは職業になじまない。職業とは誰かのニーズがあり、それに応えて初めて成立するものだ。ところが、アートには他者のニーズがなく、自らの思いをカタチにするだけだから、そもそも職業とはなり得ない。(中略)私は、アーティストは自分の生活を自分で支え、なお、自らの思いを納得するまでカタチにし、他者に伝える人間だと考えている。こう考えていけば、アーティストとは職業ではなく、むしろ生き方になってくる。アーティストという生き方を選べば、じつはもっと自由になる。」(本文より引用)
「アート」を「本棚」に「アーティスト」を「本屋」に替えても、同じだろうな、と。
「本屋」っていうのはたぶんそういうことなんだ。
7月、アルプスブックキャンプの前日、長野・伊那のとある本屋さんがこんなことを言っていた。
「本屋」っていうのは「本の一時預かり」のことだ。誰かのためにこの本をキープしなきゃ、と思うから本を仕入れ、誰かが買ってくれるのを待つ。それがいつなのかわからないけど。
素敵だなあと思った。誰かのためにこの本をキープしなきゃと思える本に出会う瞬間を思い浮かべた。
僕にとって、「本屋」は、「予測不可能性」にあふれた、「委ねられる」場である、ということ。目的とか目標とかではなくて、どうなるかわからない、というその不確実性が魅力であること。そこには、「手紙」のような何かが詰まっている。僕は心こめて、祈りを本に託すのだけど、その祈りが届くかどうかは読んだ本人に委ねられていること。
それを繰り返していく「場」が僕にとっての本屋なのだろうと思う。
1冊1冊の本の中に、目に見えない手紙を差し込んで、それが届く日、読まれる日を祈りながら、本を並べる。
「本棚には他者のニーズがなく、自らの思いをカタチにするだけだから、そもそも職業とはなり得ない。」
僕にとって、本屋というのは、きっとそういうこと。
本屋という生き方を選べば、じつはもっと自由になる。
~~~ここまで引用
「本棚には他者のニーズがなく、自らの思いをカタチにするだけだから、そもそも職業とはなり得ない。」
そうなんですよ。
木曜日のイベントの時に思ったキーワードは、「つくる」と「届ける」でした。
「つくる」と「届ける」の近さは、この一節にも現れているし、それは本屋にこそ、あるのではないかと思います。
この本棚は、僕がつくった(並べた)。
ここに「クリエイティブ」はあるのでしょうか?
一方で確かに、僕は「届けたい」と思いながら、本を並べました。
「つくる」と「届ける」。
そのあいだに、本棚があるように思います。
つくり手と受け手のコミュニケーションのあいだに、本棚があるように思います。
そんな本棚をつくる人のことを、「本屋」と呼んでいいのではないかと僕は思うのです。
もちろん、本以外のものを、そこにおいてもいいのだけど。
職業になるか、ならないか。
というのは、実はあまり重要ではないのではないでしょうか。
「本屋という生き方を選べば、じつはもっと自由になる。」
本屋元年。
それは「つくる人元年」、「届ける人元年」になるのかもしれません。
2019年をあなたの「本屋元年」にしませんか?