2019/01/14 21:39



まっきぃ♪です。きちんとした御礼が遅くなりましてごめんなさい。


本来であれば、すぐにでも御礼のメールをお伝えしたいのですが、遅くなりすみませんでした。

こちらは、御礼の想いとしてお伝えさせてください。


このプロジェクトがスタートして10日を過ぎた今…、このように、ご支援いただけたことが、私にはとても励みになっておりました。やっぱり、挑戦してきて本当に良かったなと。。。最初は、不安も多く、目標金額についても沢山のご意見や現実的な言葉を伺い、自分の想いが伝わらない、伝えられない現実・壁にもぶつかり、、、自分に対しても、もどかしさを覚えていました。

それでも、この先の未来を、10年、20年、30年…100年先を、見据えている私は、

これからも伝えていくしかなくて。

そんな、想いに、一人でもご賛同いただきましたこと。嬉しく受け止めておりました。


どうもありがとうございました。どんなにか、嬉しくて、温かくて、心強かったか…、

今は、皆さんにうまく、つたえられそうにない私がいます。笑。

そんな、はじめましての方や、私を知っていらっしゃる方に、向けて『御礼』ということで、

メールで伝える文章を考えていて。。。何をお伝えしようかなぁ…と。

思いついたのは、私がどのようにして、手話に興味をもって覚えたかをきちんと説明したいなと、思いつきました。

この話は、実は親しい人にも、あまり伝えていなくて。笑。なので、

今日は御礼を込めてそのストーリーをお伝えします。

長くなりますので、お時間がある方は、お付き合いくださいませ。感謝を込めてお伝えします。

私は、2004年に転職をする中で、仕事を探しておりました。

その当時、正社員を辞めた後で数年ブランクがありすぐに正社員を探すことはせず、

派遣会社(オー人事、オー人事。笑)に登録をしました。

そして、そこからの紹介でとある外資系のガス製造会社に就職することができました。

事務職が長い経験としてあったので、すぐに採用となりましたが、

その部署は、『給与・厚生部(企画部)』という部署でのお仕事でした。

仕事の内容は、社員の方への、お給料に関わるお仕事の内容で給与計算業務(控除や支給)、

社宅の管理・案内・引っ越しの手続き・就業規則の問い合わせの対応、財形の手続き管理・健康診断の手続き、案内業務…等々と多岐にわたって業務でした。

今、思い出すととても、とても多忙な毎日でしたが、とても良い経験でした。

その部署の中に、私より少し年上の稲垣さん(いなちゃん)という女性が配属されていて、

耳が聞こえないという、障がいをもっていた女性でした。

はじめまして。の時は、筆記等でコミュニケーションをとっていたこと、

今でもぼんやりと覚えています。そんな流れで耳の聞こえないいなちゃんとの出会いは、

2004年の6月でした。

お昼休みに、女性チームの6,7人と共に昼食を、ミーティングルームでとります。

私もその中に入って、昼食をとりました。

和気あいあいの中で、話をしながら昼食をとる毎日でした。

そんな中、気が付いたのです。いなちゃんが、みんなの笑いの中には入っていないということ。

その時、黙々と彼女はご飯を食べていました。私達は耳が聞こえます。

だから、どうして、どんな事で、笑っているかを…誰かが筆記などで説明しないと、

いなちゃんには、その『面白さ』は、、、届きません。

私は、そんな彼女と少しずつ、業務でコミュニケーションをとっていきました。

そして、今度どこかに遊びに行こう!という事となり、どこに行きたい?と私。

いなちゃんは、NHKのスタジオを見学しに行きたいと。

それは、渋谷から歩いた場所にあり、私は、同じ部署の女の子も一緒に、3人で行きました。

初めてのNHKのスタジオパーク♪とても興味深く、私達は楽しみながらの帰り道、

どこかで、お茶をして帰りましょうと、喫茶店に入りました。

そこで、用意していた筆記用具で、私達は、思っていたことを忌憚なく話し合いました。

仕事のこと、職場環境、人間関係…。

そんな彼女は、自ら、自宅で書いてきたメッセージを見せてくれました。

私が、思っていたように、昼休みの時間の寂しさ…、

職場の方が、誰も手話で会話してくれないこと。単純な言葉は、手話を使ってくれる人もいるけど(同じ部署の中に)深い部分では、理解が足りないと、伝えてくれました。心の叫びのようなものでした。

私は、その日に決意をしました。 『そうだ!手話を覚えよう』

答えはすぐに私の中にあり、行動するという事が得意な私は、あらゆる手話サークル、江東区で開催している手話講習会に申込みをして、毎週、江東区立の文化センターに足を運びました。

いつの間にか私達は、手話で会話をしていき、お昼休みや、打ち合わせ、人事部全体会議など、いなちゃんに手話で通訳をすることができて、プライベートでは、温泉に行ったりもしました。彼女とのコミュニケーションが楽しくて、とても明るい彼女とは、いつも笑ってばかりでした。

そんな派遣生活にもやがて、とある、事情があり、終止符を迎えることとなりました。

理由はここでは、長くて伝えきれませんが。。。

そうして、私たちは違う会社で、別々の道で、プライベートとしてのお付き合いが始まります。

会社を退職する時、何が心残りだったか、彼女を置き去りにしたような気持ちになりました。

私が退職をするという事は、彼女と手話でコミュニケーションをとれる方がいなくなります。

このことだけは、とても辛くて、大人の私でも、とても泣けました。

彼女と離れることはとても辛かったからです。今でもあの頃を思い出すと涙が出てきてしまいます。。。でもどうしようもない現実でした。

なので、いつか、彼女とまたお仕事をしたい!

という夢だけをもって私は彼女とお別れしました。

そんな、時が過ぎて時々、会うことをしていましたが、今度は私が2013年から数年間、体調を崩してしまい、彼女との連絡が途絶えました。

彼女から連絡があっても、数回、断りました。そして、元気になって連絡をした時には、彼女が、転居をしていて、メールアドレスも変わっていて。。。

その住所に連絡をしても、郵便局にあるシステム『配達証明』という方法で、生存確認をしたり、直接、その住所に行って待ってみたり、自分の連絡先を書いたお手紙や、渡したいものをドアにかけても、答えは返ってきませんでした。昨年の出来事でした。

これは、私があの時に、彼女に会いたい!と早く伝えることができて、行動ができていたら、と悔しい現実と、悲しい現実が交差していて。今も思い出すだけで、悲しくなります。

でも、こうして、想いを誰かに伝えたり、これからは、ブログで書いてみたり、

はたまた、私が手話songアーティストとしての活動が世の中に認められて、(努力あるのみ!)

いろんな場所で活動が出来たとしたら、またいつか、いなちゃんにきっと会える。

と信じています。だから、悲しみよりも、これからの未来を明るく考えていて。

そんな、いなちゃんは、着ぐるみの『ぐんまちゃん』が大好きでした。

キャラクターとか、私が興味ではないものが好きでした。マツケンサンバとかね。笑。

いなちゃんとの記憶、思い出がたくさんあります。

『つぼみ』を一緒に初めて表現するために、歌詞を手話で通訳したのも、いなちゃんです。

『川』という表現方法が、古い手話の表現ために、あとから耳の聞こえない方に(手話の先生)に指摘され、間違っています!違います!!!と変えたこともありました。

なぜなら、いなちゃんは、当時、40代でしたので、年齢でも、手話という表現方法は違うからなのです。

そんなこともありましたが、全て経験。財産として今の私の原点にあります。

いつか、いなちゃんに会うために私は、『手話songアーティスト』の活動を続けていこうと思っています。元気になったよってね。。。

大好きな、いなちゃんが、どうか元気でありますようにと願いながら。


そして、こうして応援してくださる皆さんがいるからこそ、私はこの活動ができています。

御礼がこのような、『いなちゃんとのエピソード』となっていましたが…どうか、想いが届きますようにと、感謝の日々です。

皆さまの支援が私を動かすエネルギーとなっています。

今年は、みなさまにとっても、私にとっても、飛躍の一年となりますように。

人生の挑戦です!私、年女なのです。実は!?いのしし年。

猪突猛進にまいりますね。( ´∀` )

これからも努力を惜しみなく、ぶれない心で活動を続けさせていただきます。

まだまだ、走り続けていきますので、良かったらお知り合いやお友達、職場の方々へ、シェアを頂けたら幸いです。

今後とも応援をどうかよろしくお願いします。ご支援を本当にありがとうございました。


これ以降は、革製品を選んでくださった、対象の方へのご案内となりますのでお読みください。


『NPO法人まいぺーすさん』の革製品を希望してくださった方へ御礼

 この度は、『NPO法人まいぺーすさん』の革製品を選んでいただきまして、誠にありがとうございました。この製品は、障がい者の方が、一生懸命、丁寧に制作しておりました。長野の小布施という街で、この商品が生まれ続けていました。

皆さまの優しい想いが、これからの未来に、『幸せな社会』にしていくための取り組みとつながっていきますように、努力をし続けていきます。改めて心より感謝申し上げます。

手話songアーティスト まっきぃ♪