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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

現在の支援総額

9,000

1%

目標金額は550,000円

支援者数

3

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

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現在の支援総額

9,000

1%達成

終了

目標金額550,000

支援者数3

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

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クルミドコーヒー影山知明さんとの第5回「続・ゆっくり、いそげ」の夜。
2月3日の第3回目に引き続き、出演させてもらいました。


「続・ゆっくり、いそげ」を読んでの知の巨人、影山さんとのトーク。
テーマは「就活、働くことへの違和感」について。

キーワードは、「おでん」と「植物」でしょうか。

~~~メモ書き起こし。

おでんの中のジャガイモになる。最後はつゆに溶けてしまっている。でもたしかにじゃがいもはそこにいる。

小さなおでんをたくさんつくる、ということ。

「自分」ていうのと「二元論」みたいなやつが苦しさの源泉だと思う。

「共感できる」っていうのはビジョンや目標ではなくて、その人物に、心が、感性が反応するっていうこと。

「就活」とは限られた時間の中で内定を取るゲーム、つまりフレームワーク、システムにおいて必要なのはそこに適応できる人。

違和感を感じる=創造のチャンス。

「何がしたいのか?」って問いが違うような気がするんですよね。

小さな植物を育てるようなプロジェクトをやってみる。育てながら、「顧客」はだれか?「価値」は何か?と問い続ける。

「リザルトパラダイム」⇒正解主義⇒論理的思考⇒わかりやすさ⇒効率的

「人の役に立つ」とか「役割を果たす」という呪縛はあるよね。自分の存在意義をそこに求めてしまう。「自分とは?」とひとりの個人として問うのではなく、「価値とは?」「顧客とは?」を場として問うということ。

「身体がついていかない」っていうリアルを大切にしたい。それ、どうありたいか?に対する身体からのメッセージ。

「小さな植物を育てる」「小さなおでん鍋をつくる」っていうこと。

おでん×植物理論
人(具)は場(つゆ)によって活かされ、場は人によって生かされる。その「場」(土)から植物が育つように事業は展開していくことができないか。

「おでん」っていう「場」の良さは、時間軸があいまいになっていること。完成されないこと。終わりがないこと。いつからでも参加できること。

「続・ゆっくり、いそげ」の夜が旅をするとしたら、「カレーキャラバン」じゃなくて「おでんキャラバン」ですね。

「おいしいおでん」ができたとき。(プロセス上の一地点であって、「完成」ではない)その手柄は個人(具ひとつひとつ)にはなくて、「場」(具とつゆの集合体)にある。
そういうおでん的な関係を職場と結べるか?

植物、たとえば木であれば、大きさに限りがある。大きいもの(構造物)を作るには、ピラミッド型にするしかない。そうしてリザルトパラダイムが始まる。

~~~ここまでメモ

「おでん」のような「場」をつくれたら理想的だなあと思った。それは、職場でも、飲み屋でも、本屋でも同じなのだけど。

積み重なる何かがダシとなり、「つゆ」ができる。ジャガイモすでに溶けているのかもしれない。新しい人が来たら、だんだんと味をなじませる。もしかしたら、新しいおでん鍋をこしらえたほうがいいのかもしれない。

そんな「場」から生まれる、というか、育てる「植物」のような事業、あるいはプロジェクト。

どんな種がまかれたか、どんな土の状態なのか、によって、育つ植物の樹形や根の張り方はかわってくる。

そんな風な、リザルトパラダイムではなく、プロセスパラダイムにある事業、あるいはプロジェクトに携わっていくこと。

そう考えると、教育っていう空間、つまり学校空間そのものが巨大なリザルトパラダイムの中にあるっていうのはどういうことなのだろうなと思った。

「学校・教育」への違和感は究極そこに行くのかもしれないなと。

まあ、それも「二元論」で語らないほうがいいのだろうと。
正しい、とか、間違っている、とか、どっちがいいとか悪いとかではなくて、

それはそれとして、適応していくのか、距離をおいていくのか。そこを自らの判断で、しかも分人的にやっていくことなのだろうなと。

「違和感」を感じるからといって、それは必ずしも排除すべきものではないのだと思う。そんな「違和感」を組み合わせて、新しいものが生まれる可能性がある。つまり創造の種になることがあると思う。

僕は、「就活」という舞台を、もっと創造的な場にしたいと思う。

面接が終わった時に、「いま、話したことで、新たな事業のヒントが得られました」みたいに人事担当者が言うような、就活。創造的な就活をつくれないだろうか。

「自動車をつくるように」ではなくて、「植物を育てるように」、やってみること。その予測不可能性とブリコラージュを楽しむこと。そんな機会に触れることを大学じゃなくて、高校、中学のときからやってみること。

リザルトパラダイム一色の教育を受けてきたのに、急に、「未来はAIの登場によってわかりません」って言われたら、それは困るよね。

学校教育はリザルトパラダイムの中で目標設定・達成を行う場であるとしたら、学校外の場、カリキュラムの外ではプロセスパラダイムで「植物を育てる」ようなプロジェクトをつくっていくことをやっていったらいいのではないかと思う。

それが、僕が考える「オルタナティブ就活」なのかもしれない。

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