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「オルタナティブ就活」のすゝめ~1冊の本から始まるもうひとつの「就活」

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

現在の支援総額

9,000

1%

目標金額は550,000円

支援者数

3

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

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現在の支援総額

9,000

1%達成

終了

目標金額550,000

支援者数3

このプロジェクトは、2019/03/13に募集を開始し、 3人の支援により 9,000円の資金を集め、 2019/04/25に募集を終了しました

「就活の違和感」を感じている大学生に贈る「オルタナティブ就活」を実験するための「かえるライブラリー・ラボ」を始めます。プロジェクト「耳をすませば」でフラットに経営者や先輩と出会ったり、「にいがたイナカレッジ」など就職に直接向かわない様々な活動をはじめるためのプラットフォーム的なラボをつくります。

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「クラウドファンディング」はひとつのメディアだと思います。特に新しい事業やコンセプトを発表するときに有効なメディアだと思います。今回は、「オルタナティブ就活」というコンセプトの発信と、「就活の違和感」の言語化と共有、何より自分自身が「就活」という違和感について一定期間考えたかったから。「クラウドファンディング」自体がひとつのプロジェクトだと思います。「プロジェクト」とは、新しい価値を生み出すための期限のある取り組みのこと。「就活の違和感」という問いを投げかけ、そこにレスポンスを繰りかえす中で、新たな発見や気づきが現れます。影山知明さんが「続・ゆっくり、いそげ」を発売した後に定期的に開催している「続・ゆっくりいそげ」コール&レスポンスの会(現在は続・ゆっくり、いそげの朝あるいは夜)も、1冊の本を題材に、参加者が話し合い、まだ書かれていない章をみんなで書き足していくような、そんな会。3月14日(木)の「続・ゆっくり、いそげの夜」@西国分寺クルミドコーヒーから始まった「就活の違和感」ウィーク。そこに出るために上野駅に降り立った時に、飛び込んできた1冊の本。「仕事選びのアートとサイエンス」(山口周 光文社新書)今回のクラウドファンディングでの一番の収穫は、スピノザ「エチカ」(NHK 100分de名著)に出会えたこと。その予告編ともいうべきことがこの本にはすでに書いてあったのです。本というのは、本屋というのは、そんな「奇跡」が起こるツールであり、場なのだと、あらためて思いました。あらためてこの本から引用します。~~~以下引用スピノザは「本来の自分らしい自分であろうとする力」を「コナトゥス」と呼びました。その人の本質は、その人の姿形や肩書きではなく、「コナトゥス」によって規定されると考えました。当然のことながら、コナトゥスは多様であり、個人によって異なることになります。この世の中に存在しているあらゆるものは、それ自体として「良い」とか「悪い」とかいうことはなく、その人のコナトゥスとの組み合わせによって決まる、とスピノザは考えたわけです。私たちは極めて変化の激しい時代に生きており、私たちを取り巻く事物と私たち個人の関係性は、常に新しいものに取って代わられていくことになります。このような時代にあって、何が「良い」のか「悪い」のかを、世間一般の判断に基づいて同定することはできません。自分なりの「良い」「悪い」の評価軸をつくっていくこと。自分の姿形や立場などの形相を「エイドス」と呼びます。私たちは往々にして自分の属性や立場といった「エイドス」に基づいて「私はこうするべきだ」「私はこうしなければならない」とかんがえてしまいがちですが、このようなエイドスに基づいた自己認識は往々にして個人のコナトゥスを毀損し、その人がその人らしく生きる力を阻害する要因となっています。私たちは自分のコナトゥスを高める事物を様々に試していくことが必要になります。~~~以上引用2018年3月、僕は「会社員」的な働き方を卒業しました。「コナトゥス」よりも、「組織」や「立場」を大切にした働き方をしていていいのだろうか?そう思ったのは、山口周さんの前著「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」(光文社新書)を読んだとき。「ああ、美しくないな、今の働き方は。」そんな風に思ってしまいました。前職と並行して行っていた、東京・練馬「暗やみ本屋ハックツ」、川崎・武蔵新城「book & café stand shinjo gekijo」のミーティング時に、私は「場のチカラ」や「チューニング」などの大切さを語ってきました。ひとりひとりの「いま」を大切にして、予測不可能性を高め、心を開くこと。そうやっていい場が作られていくのだと実感していました。ところが自分自身は職場において、そのような「場」を、「いま」を生きていない。この船がどこに向かっているかもわからずにただ、船を動かしている。自分が自分らしくあろうとする「力」、つまり「コナトゥス」に耳を傾けようとしない。これは僕自身の苦しさでした。実は、「就活の違和感」の正体も、近いところにあるのではないでしょうか。自らの本質である「コナトゥス」から目を背け、交換可能なひとりの人材として面接を受ける、その違和感。そうではなく、ひとりひとりの声に、力に、コナトゥスに耳を傾け、感じ合い、場のチカラを高めて、目指すところを共有し、ともに仕事をし、成果を上げていくような、そんな働き方も可能なのではないか、と僕は思うのです。そんなメッセージを、企業に、そして大学生にどのように届けるか。その方法論のひとつが「耳をすませば」でした。企業の先輩から、社会人、組織人の先輩から、本を通じてメッセージを届ける。本をきっかけに、共感をきっかけに、大学生と出会い、未来を見つめて、語り合う時間。そんな瞬間をつくることができたら、と思ってプロジェクトを立ち上げました。「耳をすませば」に限らず、「かえるライブラリー」の仕組みのある様々な場所で、そんな瞬間をつくっていけたらと思います。来月から、僕はまた、もうひとつの船に乗り込みます。地域に1つしかない小さな高校を中心とした舞台が用意されています。乗組員は4名。小さな船です。乗組員たちのコナトゥスを感じる小道具として、また船の行き先を決めるコンパスとして、「本」が、そして「本棚」がそこにあればいいと心から思います。僕が「耳をすませば」で贈りたい本、それは100分de名著 スピノザ「エチカ」(解説:國分功一郎)です。本への添え書きはこちらです。哲学無しでは生きられない時代を僕たちは生きている。本質である「力」を知ること。自分の声に耳を傾けること。他者のコナトゥスを感じること。そんな船に乗るような人生を歩みたい。よき旅を。


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小春です。就職したい企業って、どうやって見つけるんだろう。「好きを仕事に!」って、何度か聞いた。でも分からなかった。 自分は何が好きで、何をしたいのか。 日常のほとんどの時間を注ぎ込みたいと思える、「自分のやりたいこと」。私はYouTubeでよく音楽を聞くけれど、動画を作ったり演奏したりしたいわけじゃない。 のんびり散歩に行くのも好きだけど、仕事になるのか?と言われると、うーん。 自分はどんな時に心踊るのか、 時間を忘れるほど集中するのはどんな時か、 頭の中で考えてみても、まとまらなかった。好きなことはいくつか浮かぶけれど、仕事にしたいこととイコールではない。 そんなふうに考えて、だんだん 「生活のほとんどを捧げられるほど心から好きと言えるものなんて、私には無いのかもしれない」と思ってしまった。過去の自分にも今の自分にもがっかりして、とっても寂しかった。 今思うと、 「仕事にするほど好きか?」っていう自分への問いかけは大失敗だったな。 好きを仕事にしたいはずなのに、仕事にしようとすると好きじゃなくなっていく。仕事のために好きなものを探したら、何も好きになれない自分を見つけてしまった。自信がない人って、自分の中に武器を探そうとして、見つからなくて、どんどん自信をなくしてく。自分の中より、自分の外に目を向けて、一歩だけ足を伸ばしてみようかな。一歩だけ。 そんなことを思ったあたりで、「1週間新潟に来ないか」と誘われた。 大学4年の初夏だった。~~~つづく終了まであと2日。それなのにつづくって。小春のリアル。大学4年の夏。これからどう展開していくのか?どうつづけばよいのか?「好きなことを仕事にする」「自分の武器を生かす」って時に残酷だよなあと思う。ここで思い浮かぶ1冊の本がある。「転換期を生きるきみたちへ」(内田樹編 晶文社)この中に収録されている小田嶋隆さんの「13歳のハードワーク」。これをご一読いただきたい。本文を抜粋したブログ(2016年11月1日)はこちらから。http://hero.niiblo.jp/e482630.html一部のみ抜粋する。~~~以下引用六人のメンバーで演奏するロックバンドに一万人の観客が押し寄せるからこそロックンローラーは食べていけるわけだし、一人の小説家に対して数万人の読者が想定できるからこそ、小説家というビジネスモデルが成立している。これが逆だったらお話にならない。一万人のロケンローラーが六人の観客しか集められなかったら、ロケンローラーは誰一人として食べていけない。あたりまえの話だ。(中略)「この広い世界には、きっと自分に向いた仕事があるはずだ。」という思い込みを抱くことは、夢を持つこととは違う。それは人生の選択を狭めかねない。その意味で、あまりおすすめできない。そもそも職業は、その職に就きたい誰かのために考案されたものでもなければ、その職に向いた資質を備えた若者にふさわしい職場を与えるべく用意されたものでもない。職業は、ごくシンプルに、人間社会の役割分担の結果として、社会の必要を満たすためにそこにあるものだ。ゴミを拾うのが大好きな人間がいるからゴミが生まれているのではない。ゴミ愛好家のために廃品回収業という職業が考案されたわけでもない。~~~以上引用これこそが「仕事」のリアルだと僕も思う。まあ、マズローの5段階欲求説のように、階段を上ってしまったのかもしれないのだけど。「仕事」で自己実現をする必要が本当にあるのだろうか?ストレスかからずに気の合う仲間たちとボチボチやっていく、そんな働き方だってあると思うし、そういう志向のある大学生も増えていると思う。「就活の違和感」は、そんなところにも、一因があるのかもしれない。


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茨城県日立市・株式会社えぽっくの「旅する冊子」プロジェクトhttps://a-port.asahi.com/projects/tabisuru_sassi/作戦会議という名の参加学生の振り返りをやってきました。1週間の合宿をしながら4つの企業の取材をした取材型インターン「チームひきだし」。写真は北茨城市・まるみつ旅館にて。ひきだしの特徴は、・毎日企業を取材してワークショップをしながら紹介記事を作成する。・あらかじめ取材する企業が決まっておらず、企業を知らないまま学生はエントリーする。学生の参加動機もさまざま。「いろんな企業を知りたい」っていう前向きな理由(?)から「インターンって行ったことないな、そういえば」っていうちょっと気軽な理由。「1週間で完結するインターン」っていう時間ない系の理由。「1週間実家から離れて暮らせる」とか自由なのか不純なのかわからない理由。うんうん。これ、おもしろいな。マーケティングに使える。実家から1週間はなれて暮らす!みたいな。1週間で完結するインターンシップ!みたいな。それって、逆にインターンシップを、「ボランティア」するくらいゆるくしちゃうっていうか、入口のハードルを下げるいう効果もありますね。で、おもしろかったのが、やってみてどうだったか?の話。・行って初めてわかることが大きかった。・企業が直前まで知らされないのがおもしろい。・楽しかった。自分が思っていたインターンシップと違った。・マナー講座とかも学べてよかった。・社長インタビューは最終面接みたいなもの。っていうこと。これ、いわゆる「得られる経験」みたいなところに書いてあるところ。新たな気づきは、・気づかないうちに、ホワイトカラー(オフィスワーク)志向になっている自分に気づいた。・地元企業で就職先があるのか知りたかった。・企業がわからないからこそ、「どうしてこの企業に?」と聞かれない安心感がある。・大事なのは、スピード感と熱意と経験・言葉にして伝えるのはむずかしい僕が着目したのは、ここ。企業がわからないからこそ、「どうしてこの企業に?」と聞かれない安心感がある。それかも!それ、大きいかも、って思った。「どこの企業に行くのかわかりませんが、4社の企業の取材をします」って言われたほうが予測不可能性が高まるし、一番は、「どうしてこの企業に見学に来たのですか?」って聞かれない。行動には理由があると、僕たちは教わってきた。しかし、その理由は、行動する前には、きちんとわからないのではないか。「なぜ、その行動をするのか?」っていう問いに答えられるのは、やってみた後になってから、なのではないか?就職活動中の大学生も言っていた。「志望動機」が明確に答えられないと。「志望動機は?」「それは入社した後に分かります。いまはまだ分かりません。」そんな面接ができる会社があったらいいのに。「理由」はまだ、ない。でも、事後になって理由はわかるのかもしれない。人はまだ、自分を知らない。だからこそ、「やってみる」んだ。実験してみるんだ。ひとまずは心のセンサーが「やってみようかな」をキャッチして、理由はわからずにやってみるんだ。そして、後から理由がついていく。株式会社えぽっくの提供する「チームひきだし」プロジェクトは、明確な目的・目標を決めずに、ひとまずはじめてみる、という、「オルタナティブ就活」そのものな感じがしました。2019年度も行いたいので、みなさまからの応援よろしくお願いします!


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「NHK100分de名著 スピノザ『エチカ』」2回目の読了。読めば読むほどすごい。そして、冒頭の見出し、「ありえたかもしれない、もうひとうの近代」というキャッチコピーが2回目にして、しっくりとくる。西洋的近代とは、二元論であり、わかりやすさであり、目標逆算型システムであり、、、っていうのがスタンダードで、それが時代にあっていないんじゃないか?っていう話はたくさん出ているのだけど、そもそもそのシステムっていうのはどこから始まったんだっけ?っていうので、当然、産業革命以来の社会システムの変化を挙げるのだけど。そのシステムを作り上げた要因として、「デカルト的哲学」があったのだなあと。その哲学が社会状況と見事に符合して、現在の社会の価値観、哲学、倫理ができていったのだなあと。~~~ここから本文より引用私たちがいま国家だと思っている、領域があって主権がある国家という形態は、17世紀半ばになって出てきたものです。いわゆる近代科学もこの時期に出てくる。たとえばニュートンは17世紀後半に活躍した人です。その科学の支えであった近代哲学も同じ時期に現れました。17世紀は本当に現代というものを決定づけた重要な時代なのです。私はその意味でこの世紀を、思想的なインフラを整備した時代と呼んでいます。たとえばデカルトは近代哲学の、ホッブスは近代政治思想のインフラを作った人です。そのインフラの上に、続く18世紀の思想が荘厳なアーキテクチャー、つまり建築物を築いていきます。たとえばカントの哲学やルソーの政治思想をそれにあたるものと考えることができるでしょう。そうすると、17世紀はある意味で転換点であり、ある一つの思想的方向性が選択された時代だったと考えることができます。歴史に「もしも」はありえませんが、別の方向が選択されていた可能性もあったのではないかと考えることはできます。私の考えでは、スピノザはこの可能性を示す哲学なのです。それは「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」に他なりません。~~~ここまで本文より引用このあと、「真理」についてのデカルトとスピノザの比較があります。「デカルトの真理観の特徴は、真理を、公的に人を説得するものとして位置づけているところです。真理は公的な精査に耐えうるものでなければならないわけです。私は考えている、考えているならば、その考えている私は存在している。と言われれば反論できない。」「スピノザの考える真理は他人を説得するようなものではありません。そこでは真理と真理に向き合う人の関係だけが問題になっています。だから、真理が真理自身の規範であると言われるのです。いわば、真理に向き合えば、真理が真理であることは分かるということです。」これさ、哲学は何のために、誰のためにあるのか?っていう問いになっているな、と。デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際はそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけです。「哲学」って生きるとは何か?という究極の問いに対する仮説にすぎないだと僕は思うのだけど、デカルトは、他者を説得するとか納得させるとか、何かのための哲学になっちゃってるんじゃないかと。これこそが、まさに近代社会との分岐点でしょ。近代工業社会にはデカルトのほうがめちゃめちゃマッチするのだけどね。そして、この後、この本は(僕の中の)クライマックスへ向かう。~~~ここから引用私たちの考え方は強く近代科学に規定されています。私たちの思考のOSは近代科学的です。ですから、そのOSはスピノザ哲学をうまく走らせることはできないかもしれません。これこそが私が「はじめに」で述べた、「頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない」ということの意味に他なりません。近代科学はデカルト的な方向で発展しました。その発展は貴重です。私たちは日々、その恩恵に与って生きています。そしてまた、公的に証明したり、エヴィデンスを提示することもとても大切です。それを否定するのは馬鹿げています。しかし、そのことを踏まえた上で、同時に、スピノザ哲学が善悪、本質、自由、そして能動をあのように定義した理由を考えていただきたいのです。近代科学はとても大切です。ただ、それが扱える範囲はとても限られています。フーコーの「主体の解釈学」。かつて真理は体験の対象であり、それにアクセスするためには主体の変容が必要とされていた。ある真理に到達するためには、主体が変容を遂げ、いわばレベルアップしなければならない。そのレベルアップを経てはじめてその真理に到達できる。この考え方が変わったのは17世紀であり、フーコーはその転換点を「デカルト的契機」と呼んでいます。デカルト以降、真理は主体の変容を必要としない、単なる認識の対象になってしまったというのです。フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。これは実に鋭い指摘です。~~~ここまで引用スピノザ、すげーなって。僕が大学時代からいろいろ感じて、学んだことがダイジェストで説明されてくる感じ。「場のチカラ」とか「チューニング」とか「リアルメディア」とかめちゃめちゃスピノザ的だなあと思った。そして、火曜日に小田原で後藤タツヤと話して、熱海でとっくんと話して、さらにそれが確信を増した。「機会提供」そのものの価値。それを本屋の棚を通じて表現すること。教育の最大の矛盾は、目的・目標をもって始めなければいけないこと。そして評価を前提をしなければいけないこと。でも、エンターテイメントの本質は予測不可能性にある、ということそれはまさに近代(工業)社会と僕を含めた若者が感じている違和感のギャップそのものであるのだけど。でもさ。スピノザ的に言えば、本質は自分らしくありたいとする力(コナトゥス)であって、人によって、真理は異なるだろうし、その真理の獲得のためには自らの変容が必要なわけですよ。ってことはさ。「機会提供」こそが、人を育てるんじゃないの?って。その人がその「機会」によって、どうなるかっていうのは、あまり重要じゃないというか、むしろ、その機会提供によって、自らがどうなるか?っていう問いのほうが大切なんじゃないのか?「挑戦するな、実験しよう」にいがたイナカレッジの連載で掲げたコピーの意味が、スピノザを読んだ今ならわかる。去年の夏にこはるんが言ってた「イナカレッジは自分を知るプログラムです」の意味が、今ならわかる。そして僕が本屋をたくさん作ろうとしていることの意味も。機会を提供したい。本棚で表現したいのは、なぜなのか?実験するために。実験し、自分なりの「真理」にたどりつくために。そのたどり着く過程で、自らを変容させるために。いや、ために、じゃないんだよ。生きることそのものが、そのプロセスの中にただ、ある。根源的欲求として、ただ存在するのだ。本棚に刺さっている1冊の本。1冊の本から実験の旅が始まる。そんな本棚をつくりたいと心から思う。あなたもそんな本棚をつくるひとりになりませんか?


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午前の松本での本屋宇宙旅行オープン記念イベントの後、東京・湯島のかえるライブラリー・ラボで、本の処方箋やってました。「二拠点居住」「地方で仕事をつくる」とかのテーマで話して、大学2年生の中野さんに処方されたのは、「都市と地方をかきまぜる~「食べる通信」の奇跡」(高橋博之 光文社新書)でした。こうやって、「本の処方箋」やって貸し出すライブラリーになったらいいのかも。ということで、今日の1冊。100分de名著 スピノザ「エチカ」(解説 國分功一郎)テレビは見ていないのだけど、古本屋で見つけてしまい、購入。いきなり面白い。國分さんの説明、わかりやすいなあ。「エチカ」は考え方のOSが違う、と國分さんは説明します。エチカの語源はギリシア語のエートスなのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。と始まります。倫理とは、ひとりひとりの環境によって変わってくる。「自然界に「完全/不完全」の区別が存在しないように、自然界にはそれ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しない。」とスピノザは言います。完全/不完全の考えは、我々が形成する一般的観念(偏見)との比較によってもたらせれる。善悪は、組合せによってもたらされる。「憂鬱な人」にとっての音楽はいい影響を与えるが、「悲傷の人」にとっては邪魔でしかないかもしれない。その上で「自分にとって」善いものを判断しなければならないのだと。~~~ここから引用私にとって善いものとは、私とうまく組み合わさって私の「活動能力を増大」させるものです。そのことを指してスピノザは、「より小さな完全性から、より大なる完全性へ移る」とも述べます。いわゆる道徳とスピノザ的な倫理の違い。道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制します。そこでは個々人の差は問題になりません。それに対してスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。この人にとって善いものはあの人にとっては善くないかもしれない。この人はこの勉強法でうまく知識が得られるけれども、あの人はそうでないかもしれない。そのように個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます。個別具体的に組み合わせを考えるということは、何と何がうまく組み合うかはあらかじめ分からないということでもあります。たとえばあるトレーニングの方法が自分に合っているのかどうか。それはやってみないと分かりません。その意味で、スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合わされるかを試してみるということです。もともとは道徳もそのような実験に基づいていたはずです。それが忘れられて結果だけが残っているのです。ですから、道徳だから拒否すべきということにはなりません。ただ、個々人の差異や状況を考慮に入れずに強制されることがあるならば注意が必要になるわけです。~~~ここまで引用これがスピノザの善悪についての考え方。いやあ、今こそ哲学っていう感じですね。僕たちは今、哲学なくしては生きられない時代を歩き始めているのではないかなあと。善悪は組み合わせなのだから、実験してみるしかない。ほかの人にとっては良くても、自分にとっては悪いことがありうると。「考え続けること」が必須なのだなあと。そして、この本は2日目の「本質」に移っていきます。ここで重要なのは、「コナトゥス」という考え方です。~~~ここから引用「おのおのが物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。」ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、「自分の存在を維持しようとする力」のことです。大変興味深いのは、この定理でハッキリと述べられているように、ある物が持つコナトゥスという名の力こそが、その物の「本質」であるとスピノザが考えていることです。古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。ギリシア語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。これは「見る」という動詞から来ている単語で、「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では「形相」と訳されます。英語では「form」です。このエイドス的なものの見方は、道徳的判断とも結びついてきます。人間について考えてみましょう。男性と女性というのも、確かにそれぞれ一つのエイドスとしてとらえることができます。そうすると、たとえばある人は女性を本質とする存在としてとらえられることになる。その時、その人がどんな個人史を持ち、どんな環境で誰とどんな関係を持って生きてきて、どんな性質の力を持っているのかということは無視されてしまいます。その代わりに出てくるのは、「あなたは女性であることを本質としているのだから、女性らしくありなさい」という判断です。エイドスだけから本質を考えると、男は男らしく、女は女らしく、ということになりかねないわけです。それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。たとえば、この人は体はあまりつよくはないけれども、繊細なものの見方はするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。そして、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついてきます。活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです。どのような性質を持った人が、どのような場所、どのような環境に生きているのか。それを具体的に考えた時にはじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。~~~ここまで引用うわー。「場のチカラ」ってこういう考え方もできるなあと。僕の「にいがたイナカレッジ」での肩書は、「チューニング・ファシリテーター」なのだけど、ミーティング中にしている「チューニング」っていうのは、スピノザ的に言えば、「それに対しスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。たとえば、この人は体はあまりつよくはないけれども、繊細なものの見方はするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている。だからこの人にはこんな仕事があっているだろう・・・。そんな風に考えられるわけです。そして、当然ながら、このような本質のとらえ方は、活動能力の概念に結びついてきます。活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人一人の力のありようを具体的に見て、組み合わせを考えていく必要があるからです。」これのことですよね!そして、「本の処方箋」っていうのも、まさにその人の「コナトゥス」を見つけ出す旅なのかもしれない。その見つけ出す旅の中で、「場のチカラ」が高まって、本の妖精が本を届けてくれる。そんな活動なのかもしれないなと。何より、前半部分であった、善悪は実験しないとわからない。っていうのがまさにその通りだなあと。自分に向いている仕事とか就活でいろいろ自己分析したら出てくるんだろうけど、実際はやってみなければわからないし、その職場で誰と組み合わさるか?(いい上司、悪い上司とかではなく)っていうのがとても大切なのだと。「本屋宇宙旅行オープン記念イベント」での菊地さんのトークの中で、・どのまちで、店を開けたいのか?・暮らしたいまちってどんなまち?・暮らしたいから加わりたい松本というまち:個人店のマスター(店主)が他のお店を紹介してくれるまち→「目の前のお客さんを喜ばせたい」と思っているから昔から街道の交差点→人とモノ、情報、文化が行き交うそして、住みたいまちに何を加えたらいいのか?⇒それは独立系の本屋みたいなこと、って「コナトゥス」を大切にしてきて、「組み合わせ」を実験し続けた結果、「栞日」にたどり着いて、今なお問い続け、進化し続けて行っている。だから、「栞日」に行くと、自らの本質である「コナトゥス」が強まっていくのかもしれない。それが僕が松本の朝は必ず栞日でモーニングを食べる理由なのかもしれない。僕が2017年から研究してきた「場のチカラ」とか「チューニング・ファシリテーション」が理論的に補強されたような気がして楽しい松本滞在&イベント&読書でした。さて、もう一度、自分の本質である「コナトゥス」はなんだろう?