2019/06/21 22:22

オールドミルクガラスを設立する根本的なきっかけとなったファイヤーキングの復刻について書いておきたいと思います。

友人との会話からのスタート
ファイヤーキングが大好きな友人との普段の会話からファイヤーキングを復刻出来たら凄いねと話した事から全ては始まりました。2008年の頃の事です。ファイヤーキングの商標を持っているアンカーホッキング社の電話番号やメールアドレスなどを調べてコンタクを開始しました。
1か月2か月過ぎましたが何の進展もありません。諦めることなくコンタクを続けておりました。ようやく国際部のマネージャーからメールを頂く様になりました。今から思えばライセンスの供与などは彼らも経験した事もなくどのように対応して良いのか分からなかったのだろうと思います。

シュークさんのと出会い
そのような状況の中でファイヤーキングの生産や企画と2000年のブラジルでの生産に携わったガラス大好きのシュークさんのもとに私のメールなどが届く様になりました。

シュークさんからミルクガラスは難しいよ。大丈夫?などとメールを頂く様になり私の販売の計画等について連絡しました。アンカーホッキングでは2000年のファイヤーキング生産については多くの候補地や工場をチェックして後にブラジルで生産しましたが結果は失敗に終わっております。2009年になっておりましたが当時のアンカーホッキングの社長であるアイクホーン氏が会いたいとの連絡を頂きその翌日にはニューヨーク行の飛行に乗っておりました。
土砂降りの雨 雷の閃光の中オハイオ コロンバス行の小さな飛行に乗り換えました。私は飛行機が苦手なのです。

到着の翌日にシュークさんがホテルまでご自分の車で迎えに来てくれました。絵にかいたようなおおらかでフレンドリーなアメリカ人です。力強く握手してくれたのを覚えています。
早速シュークさんの車で会社に向かいましたが何とホテルを出たところでタイヤに異常が来し車が動かなくなってしまい二人で車を押したりしておりました。シュークさんが同僚のデザイナーの方に連絡をして私はその方の車で先にアンカーホッキングへ向かいました。

シュークさんとはその後会社で会う事が出来そのような小さなアクシデントが私とシュークさんの間をより密にするのに役立ったと思いました。

アイクホーン氏
アンカーホッキングはチャプター11を適用された事もあって新しく社長となっていたアイクホーン氏と私の二人だけで先ず午前から3時間以上にわたり話し合いをしました。当時私はガラスの事についてはあまり知識がなく専門用語が英語でいろいろ出てきましたが実際のところはあまり理解出来てはいなかったのです。ライセンスの契約のポイントとなったのは私の販売計画が彼らの既存の客先との混乱をもたらさないという点にあったと思います。

当時の社長のアイクホーン氏

午前中の話し合いを終了して近くの可愛いホテルのカフェでシュークさん デザイナー2人と一緒にランチを頂きました。

そしてまた社長との話合い。夕方近くになって分厚い契約書に一枚づつ社長と私の二人でサインをして最後のページにサインをしてファイヤーキングの日本での復刻生産と販売についての正式なライセンス契約を締結しました。アイクホーン氏のやさしいお言葉に今でも感謝をしています。

ミルクガラスの生産
ライセンス契約と同時に進めていたミルクガラスの生産をガラス会社と具体的に試作を進める事になりました。もちろん先ずはジェダイの試作です。当時はそのガラス会社からは3か月で試作を終えて量産しますと口頭では約束を頂いておりました。歴史のある設備も技術者もそろっている上場企業でしたので安心しておりました。1940-70年代のアンカーホッキングではオートメーションのラインでミルクガラスを1日に何十万個も生産していました。2000年代のこの日本ではほとんどが手作業での生産になっていました。先ずネコ壺という厚さ4-5センチはある焼き物のツボでガラスの材料を高温で熔解します。

ネコ壺

ところがこの分厚いネコ壺がミルクガラスを溶解している時に破損してしまったのです。当然熔解していたガラスは流れ出して大騒ぎとなりました。これは完全耐熱ガラスを目指していたのでいわゆる非常に硬いガラスの調合になっていた為で試作をしながらそのガラスの硬度を変えていくわけです。そのたびに耐熱の度合いが低くなってしまいます。試作をするたびに問題が発生して3か月後にはジェダイの試作を諦めてミルクホワイトに変更をせざるを得なくなりました。
耐熱基準より下回る基準でもなかなかうまく熔解も出来ませんでしたがようやく一度あり型の金型で成形してみる事になりました。ところがなんとミルクガラスで成形したところその金型が壊れてしまいました。数百万円の金型が使用不可能となってしまいました。それだけこのミルクガラスは難しいものです。

試行錯誤の結果この上場のガラス会社はミルクガラスの生産は不可能と言う結論を持ってきました。

新たなガラス工場との出会い
ネコ壺の強度に問題があるのかと関西のネコ壺業者に確認をして行きました。ネコ壺の強度を上げる事は無理でその際に新たにガラス工場を3社紹介を頂きました。そのうちの2社は電話の段階でミルクガラスの生産は無理と断られましたが東北のガラス工場が試作する事には合意して頂きました。

またミルクホワイトの試作です。毎週週末に試作をしてようやく3か月後くらいに成形する事が出来ました。初回250個を生産しましたが良品は1個だけでした。それでも一方では出来た商品は全て引き取ると言って頂いてたセレクトショップの担当者もおられて何とか諦めずに試作を続ける事が出来ました。金型も素材を変更してミルクガラスに耐えうるものも出来ておりました。

スタッキングマグのみミルクホワイトの1色だけでのスタートとなったわけです。

オールドミルクガラス
ファイヤーキングの復刻の経験をもとにミルクガラスに囲まれた生活をコンセプトに食器に始まり簡単な家具や照明などをオールドミルクガラスとして提案して行きたいと考えております。

またできれば欧米市場へ日本で復刻したミルクガラスを逆上陸させたく皆様のご支援を何卒宜しくお願い申し上げます。