デフフットサル日本代表 9番 塩田知弘(31)です。
クラウドファンディングのご支援、そして拡散運動により日々1万人近くの人が見ていただいています。
本当に言葉でのお礼では物足りないほどの想いです、この場をお借りして皆様に心より御礼申し上げます。
まず、多くの方から持たれる疑問、核心について答えさせてください。
【日本ろうあサッカー協会があるのに、なんでOurvisionを作ってクラウドファンディングを実施するの?そもそも別でやる必要があるの?】
ここで皆様に誤解しないで欲しいのですが、日本ろうあサッカー協会もスポンサー探し、国へ助成金申請など我々の見えないところで色々動いてくださっています。
一方で、1つの問題点を抽出させていただくと、協会の中には男女共にサッカー、フットサル代表があり、これは他競技と比較しても選手の数、スタッフの数が圧倒的に多いです。
その為、協会が汗を流し頑張って集めたお金はあるものの、例え国から他競技全て平等に助成金を配しても、そこから分散比率が非常に多いため結果的に資金不足になります。
よって、満足のいく合宿も出来ません、毎回合宿が自己負担になります。
シンプルな解決方法として知名度を圧倒的に上げる、世界一という結果を出す事(スポンサー獲得、助成金の引き上げ)です。
見ていただいている皆様、選手の方々には特に知って頂きたいことは、そんな現状を変えよう、協会だけに任せるのではなく、我々選手も動こうと自発的に立ち上げたのがOurvisionというプロジェクトです。
もちろん、各選手個人で認知度アップに向けて講演を行ったり、イベントに参加したりして活動を頑張っている選手もたくさんいます。
ただ、その志を持った選手中心に団体を立ち上げて取り組むのは初めての試みであり、協会だけじゃ出来ないことを、Ourvisionがやる、Ourvisionが出来ないことを協会がやる、お互いがベストプラクティスを提供し合い、最高の環境を整えスタッフ、監督、コーチも含め選手が競技に集中できる環境を作っていく。
その先は、認知度も高く誰もが知っている世界、自己負担0、子供達にとって夢の場、目標の場でいられるように創っていくことです。
本来Ourvisionの究極のゴールを考えると、Ourvisionという組織自体が不要になることです。
前置きが長くなりましたが、私について書かせていただきます。
自分を見つめた上での観点になりますが、人としての弱さ、ありのままの自分を出しています。
中には不愉快な発言があるかもしれませんが、最後まで読んでいただけると幸いです。
①デフの世界に入ったときは嫌われ者だった!?
あるキッカケで23歳の時にKDFC(神奈川デフサッカー)に入ることになり、そのまま代表に呼ばせていただき、デフフットサルは2018年30歳で始め、日の丸を背負って8年になります。
今となっては顔に火が出るほどの思い出ですが、今もまだまだですが、当時の自分は大した結果を残せていないのに、プライドが非常に高く、デフの世界を見下していました。
代表なのに自己負担、試合中どんなに声で叫んでも反応してくれないもどかしさ、そしてこのレベルで日本代表なの?と現状をなかなか受け入れず悩んだ時期もあります。
そんな人間だったのか、生い立ちを振り返ってみると、相手に舐められまくった経験が圧倒的に多いからだろうなと思いました。
背景に、いじめ、見下される、馬鹿にされる、そしてサッカーにおいて非常に競争意識が高い環境の中で揉まれたからだろうなと私の中では解釈しています。
②生い立ち
1)静岡県藤枝市で育つ。
静岡といえば「お茶」実家の裏山にも「茶畑」だらけ、食卓に出れば必ず「お茶」給食にも「お茶」、「お茶」とはトラウマレベルの付き合いでした。
藤枝といえば、サッカーボールをモチーフにした街灯や、常に藤枝東高校サッカー部のポスターがありゴン、名波選手、長谷部選手といった、多くのJリーガーが生まれた街になります。
2)両感音性難聴と診断されたのは3歳
私含め4人(父、母、弟)家族で、みんな健常者です。
聞こえ方は人それぞれですが、私は両耳とも105デジベル(自動車のクラクションが2m内でやっと聞こえる感じ)
初めて、難聴だと診断されたのが、3歳の頃でそれまで耳が聞こえていたかは親もわからないそうです。
3)普通学級に通わせてくれた両親
幼稚部の時だけ聾学校で、それ以外は普通学級でした。
なぜ、普通学級にしたのか親に聞いたことがあり、「大人になったとき、情報保障がない中でも厳しい社会の中でも自立できるよう」と親なりに色々考え悩んだ結果、その選択をしてくれました。
実際、社会に出るまで情報保障という言葉を聞いたことがなく、ノートテイカーといった対応も受けたことがなく、自分で考えて乗り越えていく事ができたので、感謝でたくさんです。
それでも、学生時代は非常に生きづらい環境でもありました、友達作りも大変で、いじめも当然経験します。
親からは、勉強も遅れてたらみんなより先に勉強する、これから習う勉強を今勉強する、中でも「みんなが自分に合わせてもらうなんて都合のいい社会なんてない」この言葉が強く残っています。
世の中の社会は現実的に見ても、感覚的ですが健常者が7-8割、障がい者が2-3割です。
必然的に、障がい者の人たちが生活しづらい仕組みが多くて当たり前です。
だからこそ我々が声を上げて環境を変えようとしない限り、「共生」は実現しない、その為に周囲へ健常者へ伝えたいことがあるなら抵抗なくコミュニケーションが取れる方法は発音でした。
毎日発音の練習をし、上手く発音できなかったらビンタというスパルタの中で身につけていきました。
この時から、「論理的に物事が上手くいかないときは必ず原因があり出来る工夫がある、人との出会いで学ぶ、成長できる」と強く意識するようになったのだと思います。
4)良くも悪くもプライドの高い塩田が出来上がる、サッカーとの出会い
■何よりも友達が欲しかった
当たり前のように周囲は皆、サッカーをやっていたこと、自然とサッカーと触れ合っていきます。
ところが、実際は下手くそだと、ボールに触らせてもらえません。
周りには上手い選手が圧倒的に多く、声が聞こえないなら出て行け、足引っ張るからパス出さないなど仲間外れにされたこともあります。
居残り練習、実家の庭でリフティング、夜遅くまで練習していた甲斐があり、みんなについていく事ができ、中学時代は飛び級で試合に出たり、チーム内でも一番ゴールを決めていました。
いつの間にか、周囲に認められるようになり、いじめもなくなり、トレセン候補、選抜などで友達も増え環境が大きく変わります。
■誇りと自信
この選択が、サッカー経験における自信という意味で一番大きなウエストを締めています。
母校である東海大翔洋サッカー部に進み、タイガー軍団として慕われ、OBに澤登選手(エスパルス)、鈴木啓太選手(浦和レッズ)と言った多くのプロ選手が生まれた県内屈指の強豪高として部員が200-300名程いたかと思います。
特に我々の代では、県大会準優勝という実績もあり、その上で、幾多の全国の名門高、県内の名門高とのゲームマッチ、僕らの年代には先輩方には国見高校の平山相太、鵬翔の興梠慎三、星陵の本田圭佑、静学の狩野健太、藤枝東の赤星貴文、同年代では清水東の内田隼人といった、口でどう説明すればよいのか、常識が通用しない怪物達のプレーを目の前で、肌で感じ、恐怖を覚えるほど見てきました。
とにかく高校時代はがむしゃらに、怪物揃いの中で差がつけられないよう必死についていった思い出しかありません。
社会人サッカーでも、激戦区である神奈川県一部のフットワーククラブ、県リーグにしては珍しい、ザスパ草津、ジュビロ磐田、ウェルディ東京、J3など元プロ選手が多く在籍しているクラブテアトロでプレーできたこと。
県リーグ、天皇杯、クラブ選手権に出場したり、ピッチで後輩や先輩といった懐かしい選手と再会したり、知らなかった凄い選手やいろんな選手との出会いがあり常にハイレベルな環境でサッカーが出来ました。
■心の弱さ、自分の弱さがたくさん出てきた
この経験があり、デフの世界に入り、いろんな選手を見ても上手い、怖いと思える人が1人もいない、一方でプライドが高くなりすぎてしまい、周囲に対して見下すような態度をとってしまいます。
練習も真面目にやらなくなります、それなりの技術があればいいでしょ?と本気で追い込まなくなります、それでも代表に呼んでくださっていたので、当然腐っていき天狗になります。
ガツガツ勝負を仕掛けまくっていた選手から、いかに楽なプレーを選ぶ、サボる選手になってしまい、自分も結果出せてないのに上目線になります。
はい、こんな人とはチームメイトなりたくないですよね(笑)
5)仲間たちが自分を変え、成長させてくれた、
最初の頃は揉めまくり、ぶつかりまくりでした、中でも松本弘選手と揉めた記憶が多いですね…自分の方が経験も上なのに、なんでそっちの意見聞かなきゃなんだって感じでした(笑)
この時、松本弘選手も経験不足をカバーできるように誰よりもビデオ見たり、勉強して元々身体能力は高いので頼りになる存在でしたが、サッカーからのチームメイトである吉野選手も仲井選手も設楽選手もどんどん成長している事に気づかないくらい周りが見えていなかったと気づいた時でもあります。
少しずつ、手話を勉強しコミュニケーションも取れるようになり、デフサッカー界における問題や環境も見えるようになり、自分より本気で変えようと動いている選手がたくさんいたことが見えるようになってきます。
そして天狗になっていた自分を本気で叱ってくれた当時のデフサッカー日本代表監督だった中山監督(現:日本ろうあサッカー協会理事長)の存在。
人それぞれ経験や知識はバラバラ、だからこそ1人1人がプレーでチームへ還元しないと、チームプレーは出来ない、世界に勝てない、チームのために犠牲になる、チームのために走るといった、多くのことを教えてくれました。
6)フットサルの世界へ
「お前がいれば世界一になれる」定番の上井選手の誘いです。
とはいえ、フットサルは遊びでしかやっていなかった、一方でフットサル代表も船越選手を中心とした先人や過去の積み重ねがあり、サッカースタイルから本気のフットサル戦術を取り込んでいき正真正銘のフットサルという組織に変わり始めています。
それを知らないまま飛び込んだ世界は当然甘くはなく、戦力すらもなりません。
正直なところ戦術理解も足りず、フットサルって面白くないなという気持ちでずっと引きずっていましたが、ここでまた、自分の弱さに向き合うことができます。
それでも、逃げずに本気でやろうと思えたのは、世界を目指している上井の行動、現キャプテンの東海林の二人がOurvisionを立ち上げた当初から変わらぬ覚悟で行動を起こしてるから。
そして、中山監督とはまた違い、選手に新しい事を与えてくれる川元監督、今の現状問題を本気で変えようとしている金尾コーチ、橋本トレーナーの出会いは斬新そのもので、このチームで結果を残し、環境を変える一つの力になりたいと思うようになりました。
その為に、これまでの先人が築いてきたフットサル代表に、貢献していくにはフットサルを理解することから始めなくては始まらない、自分の良さが出せないと思い、基礎を一から学ぶという意味で、アバンソールソルド(デフのみのチーム)の入部も決めました。
ソルドでは、箱島さんという監督が、細かい戦術、サッカーでは意識していなかった体の使い方、奥が深いことを気づかせてくれて、正直時間は足りませんが、もっと早くフットサルやってればと思うこともあるくらい、本気でハマっていきました。
ここまで長文になりましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございます。
1人1人の生い立ちには、いろんなストーリーがある中、最後に見ていただいている人、パトロンの皆様も一緒に世界の頂点取ったという歴史を、そして環境を変えたニュースを僕らで作りませんか?
最高の環境、最高の体制で世界に挑ませてください。
お願いいたします。