一瞬の演劇、残り続ける映像
僕らが大学で専攻していたのは演劇という、アートの一ジャンルでした。演劇というのは今の時代には何とも非効率なアートで、稽古するにも一か月、二か月掛け、本番はたった3日間だけなど(もちろん大きな劇団やプロダクションはロングラン公演をやっていますが)、膨大な時間をかけても目に触れてもらえる機会はどうしても限られてしまいます。
しかしだからこそ、その場に来て下さったお客様と直接交流ができる、生の感動や反応が掛け合わさって演じている自分たちすら思ってもみなかった舞台が出来上がるなど、演劇ならではの素晴らしさが良さがあります。
僕はその演劇の魅力に取りつかれ、大学時代はとにかく演劇ばかりに邁進していました。
ただ、一つ大きな欠点があるとすればやはり、見たいと思って下さる全ての人には届けられないということです。客席にも限りがあるし、公演日数にも限りがあります。一瞬一瞬の出会いが生み出す感動や一体感という、演劇の持つ長所こそ逆に最大の短所でもあるのです。
それに比べ映像は一度作り上げた後は何度でも人々の目に触れることが出来る。そして世代を超えた人々と作品が出会い続けることが出来るという魅力があります。また演劇よりも圧倒的に長くこの世に残り続けるという点が長所のように思えます。もちろん、100年、200年というスパンで見たときに、どちらがより人々の心に強く訴えかけ、人々の意識に焼き付く力があるかと問われれば、優劣つけがたいだろうと思っていますが。
anoが映像作品をつくる理由
今回僕たちが挑戦しようとしているのは、演劇ではなく映像作品の制作です。僕らがなぜ自分たちの慣れ親しんだ演劇ではなく、映像を作るのかといえば一つには他ジャンルへ挑戦したいという意欲からです。僕らはずっと演劇だけをやってきて、そのほかのアートの可能性を考える機会があまり多くありませんでした。しかし大学を卒業し美術展や展覧会を見るようになり、他のアートの表現の魅力に出会って、自分たちの表現の幅の狭さを改めて認識しました。そこからanoのコンセプトでもある様々なアートの境界を越えた創作活動を目指すようになったのです。今回はそうしたanoの取り組みの第一歩なのです。
もう一つの理由は「復興」というモノを"今現在の僕ら"が扱うときの向き合い方に、一番合っているのが映像なのではないかと考えたからです。「復興」そして「震災」という大きなテーマに立ち向かうとき、限られた人に届ける演劇という手法よりも、より広い人達と共有ができる映像というツールのほうが良いのではないだろうか。そして僕らがまずできるのはありのままを伝える事なのではないかと思いました。「復興」というモノが今どういった位置にあるのか、見た人が想像ではなく実際の風景や経過を目の当たりにするほうが、与えられるモノが多いのではないかと考えたのです。現地で見た風景を超える表現を、演劇を含め他のアートで表現する術が思いつかないほど現実の衝撃が強かったこともあります。
この先まで残す価値を生み出していく
僕らが考えるのは、この先の未来の「復興」も見据え、「今」を記録しておくことで10年後、20年後に「あの時」として振り返ることが出来る「点」を生み出すことです。これから先も定期的に作品作りを行い、いつの日か後ろを振り返った時に「復興」という大きな時代の流れを、僕たちの作品から垣間見ることが出来るような作品を作りたいと思っています。そして我々含めこの時代を生きる人々の歩みの記録は、現に生きている人々にとっては必要のないものかもしれません。しかし「未来」に生きる僕らより後の世代にとって意味のある価値になってゆくと思うのです。
アートはこれまでの歴史を見ても、その作品がつくられた当初は何の価値も評価もされていないような作品が、はるか後に評価され価値が新たに見い出されるということがままあります。そうした作品を作ってゆきたい、作ろうとしてゆく必要があると思うのです。震災から8年経ち、オリンピックを控えた今、「復興」という言葉はもはや終わりを告げ新たな時代の幕開けすら感じるような流れを、今の世間から感じることがあります。しかし僕らは「復興」がまだまだ求められていること、そしてその「復興」が非常に複雑で多様な求められ方をしていることを、現地で目の当たりにしてきました。だからこそ今後の「復興」の行く末を、今を生きる人々と共有し共に考えてくことと同時に、大きな流れとして捉えるための「点」を生み出し続けていく必要があると思うのです。
だからこそ僕らは今回、「復興」というモノを映像作品としてつくりたいと思っているのです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。また次回もよろしくお願いいたします!!