87歳の小牧義美が中国に帰ってきた。
2005年3月、小牧は中国にてJIAの原田燎太郎と出逢い、以来、同年5月、8月とJIAの活動に参加する。
自身がハンセン病を病み、後遺症で麻痺した足の裏にできる傷の手当てをした経験から、中国桂林のハンセン病快復村・ピンシャン村に40日単独で住み込み、村人(快復者)が自らケアを行い、それを地元学生が支える仕組みを構築。
2006年には生活・医療環境の整った日本のハンセン病療養所を退所し、中国にて社会復帰を実現し、快復村での活動を続ける。
しかし、その過程で自らも足に傷を負い、2007年末に足を切断するために帰国する。
その後、8年の間、中国に想いを馳せながら、ピンシャン村を、中国を訪れることができないでいた。
近年、小牧は体重も落ち、かつての精気もなく、鹿児島の療養所で小さくなっていた。
その間もずっと鹿児島の療養所に小牧を訪ね続けたのが、谷之木勤任。
学生時代の2007年に中国でのワークキャンプに初参加し、以来休みごとに中国を訪れていた。卒業して消防士として働き始めてからは中国に来ることは難しくなったが、小牧を定期的に訪れ、また後輩たちの面倒を見続ける。
その谷之木が今回、小牧に付き添うことになり、「それならば安心」と、小牧の訪中が実現した。
桂林、広州では12年前から活動を共にした仲間が各地から集まり、小牧と夕食を共にした。
ピンシャン村ではかつて傷の手当てを受けた村人たちを中心に小牧の再訪を歓迎してくれた。
そして、北京ではJIAの原田燎太郎と共に講演会を開催し、北京の学生や社会人、報道関係者に向けて活動の体験などについて語りかけた。
中国滞在中、小牧は日を重ねるに従い、明らかに体力的に疲れていった。しかし、その反面、彼の存在感は日増しに大きくなっていった。2005年、2006年の最盛期以上であるかのように。
彼の講演を聴いたある記者は言った、「小牧さんは中国が好きというより、むしろJIAのみんなのことが好きなんだろうなあ」。
小牧はピンシャン村を離れるとき、こうつぶやく、「足をもう少し鍛えんといかんなぁ。そうすれば、またピンシャンに戻ってこれるかもしれない」。
ピンシャン村の村人は2005年当時43名いたが、現在は18名と半数以下になっている。
小牧自身も87歳。