「ありのまんまでいる」って、難しいようで簡単なことなのかもしれない。
まりやがmammaに対する思いを書いてくれたので、僕も思い、というか生き様というか、そんなことを”ありのまんま”で綴りたいと思います。あまりにいろんなことが26年という人生において起こっているので長くなりますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
僕は、元乳児院であるmammaが、「ありのまんま」でいられるのと同時に「失敗しても生きていればやり直せる」「いつでも帰ってこれる」そんな場になって欲しいと願っています。神愛館で働いていた保育士さんも言っていましたが「この世に生まれてきたからには幸せに生きる権利がある」と思うからです。
僕は13歳の時に不意な事故によって20段ぐらいの階段からダイレクトに落下し、左脚のアキレス腱が切れ、骨が複雑に折れる粉砕骨折を経験しました。激痛の後、左足が変な方向に曲がっており救急車で運ばれました。全治1年ぐらいの大怪我で、このことが人生の大きなターニングポイントになりました。マジョリティ(多数派)と呼ばれる枠から、この時にポンっとマイノリティ(少数派)へと、見事にはみ出ました。
いじめは風邪のように次から次へと伝染していくと思うのですが、僕のクラスでもいじめが大流行していました。半年間の長い入院期間を経て中学校に戻ると、松葉杖をついた弱々しい姿をした僕は格好のいじめのターゲットになったのです。松葉杖がなくなって片足でケンケンで家まで帰ったことや、給食で残ったであろう牛乳を学生バックの中で開封されて全て教科書が使用できなくなるようなこともありました。このようないじめの毎日は約2ヶ月間続き、地獄のような毎日でした。
いじめが終わると自分の居場所を非行の場に求めるようになりました。悪い人たちとつるむことによって自己承認欲求を満たそうとしていたのだと思います。自分を悪く見せることによっていじめをされないように演じていたのだ、とも思います。ある日、友人たちと警察が出動するぐらいの大喧嘩をしてしまったことがありました。迎えに来たお母さんが涙ながらに「あんたは何も悪くない、私が悪かった」と、僕に謝ってきたことがキッカケとなり、悪い道から手を引くことを決めました。
学校の先生からは「おまえはクズだ。クズが生きている価値があるのか。」と、さえ言われたこともあります。今でも僕の心に突き刺さっている言葉です。僕は、生きていてはいけないんだ、と思っていた時期もあり、軽い引きこもりになっていたこともありました。
中学校を卒業したら、すぐに塗装職人として働くことを両親に伝えましたが、猛反対され、通信制普通科の高校に進むことになりました。通信制ですが毎日通うフリースクールのような高校では、野球と勉強に励みましたが「普通になろう」と思えば思うほど、学歴などが邪魔をして前に出ることができませんでした。
「肩書きなどのバックグラウンドもすべてを降ろせるような」mammaがそんな場になって欲しいとも心から願っています。
高校2年生の時、数学の問題が解けたことをキッカケに猛勉強。大学に進学することを決めます。せっかく学校長推薦をいただいた大学には修学旅行で喧嘩をして窓ガラスを割ってしまい推薦が取り消しになりました。その後、なんとか教育心理学系の大学に進学しました。大学生活では、バックパック1つで旅するバックパッカーに明け暮れました。日中は学校に通い、夕方からはバイトを繰り返し、長期休みには旅に出る、これの繰り返しでした。日本を出るたびに「自分の悩みの小ささに、自分が生きてきた場所の小ささに、実は人々は優しいんだ」ということに気づかされました。「神様の正体は、もしかすると見返りの求めない愛なのかもしれない。」そんな悟りのようなことも考えていた時期もありました。
大学3年生の時に、自宅に帰ると母親が心筋梗塞によって倒れていて、そのまま帰らぬ人となりました。「明日がないと思ったら、今の自分はどう生きるのか」をテーマに、休学をして世界一周の旅に出ることにしました。バックパック1つ、自分の目で見て、肌で感じることのできた旅でした。あまりにも大きいものがありました。
ストリートチルドレンを見て「いじめにあっていたことは学校に行けていたし、いじめられても帰る家や迎え入れてくる両親がいたことは幸せなことだったんだ」と過去を肯定できるようになりました。地雷で左足がない子どもを見て、話をし、左足が粉砕骨折で済んだことに感謝したりするようにもなりました。
シリアの子どもと出会い、その笑顔に「生きること以外、何もいらないんじゃないか」と思ったこともありました。「幸せは、いつも自分の心が決める。」そう、思いました。大学時代は、複数のシリア難民支援のNGO団体でボランティア活動などもしていました。
ヒッチハイクで旅をしていたアメリカのグランドキャニオンの雄大さに震え、自分の小ささを知りました。グランドキャニオンに行くまでの道中、野宿をしているとギャングのおじさんに「アメリカで自分の意見を言わないということは、死を意味することと一緒だ。」と言われたのも印象的でした。
ヨーロッパでは、生まれて初めて英語を喋れないアジア人というだけで人種差別を受けたこともありました。逆に英語を勉強する動機になりましたが、当時は、とても悔しかったです。
mammaでは国籍・宗教・人種・言葉を問わず、みんながリラックスできる場を作りたいです。
アフリカでは、生まれるということと死ぬことを学びました。
福島の第二原発とチェルノブイリの第一原発を訪れ、不都合な真実を知りました。mammaでは、普段タブーとされているような会話ができる場にもなればいいな、と思っています。
帰国後、就職活動を行いましたが同じスーツを着て、同じことを模範解答のように返答することに嫌気が差し、新卒でJICA青年海外協力隊に参加しました。公用旅券で向かったアフリカでは先進国の人々が行っていることの異様さと、現地の人たちの力強さや本当の意味での豊かさを目の当たりにしました。日本で考えていた固定概念を剥がせば剝がすほどに、アフリカに住む人たちと仲良くなれたような気がします。生まれてから「ありのまんま」で生きていたはずなのに、いつの間にか失敗を繰り返し、子どものような心に蓋をしてありのまんまでいられなくなっているのではないか、と気づかされたのもアフリカでした。
しかしここでも1年も経たずに交通事故にあって右腕の神経を切ってしまい、任期を短縮して帰国することになりました。
帰国後に、恩師でもある学生時代にインターンしていた会社の社長の紹介で井筒耕平さんと出会い、母親のお墓が近くにあったご縁で、あわくら温泉元湯を訪れ、こんな場所を将来作りたいと思うようになり、そのままの勢いで現在の会社に就職しました。
気がつくと80カ国以上の国を47都道府県の各地を訪れていました。世界や日本を回っていて感じた1つの大きなことは、肩書きや国籍、宗教、肌の色、すべてを取っ払ったら、みんな同じ人なんじゃないか、ということでした。人は生きていればいいはずなのに、いつしか上下関係を築き、資本主義の世界では”何者”であるかが重要視されてしまいがちで本来の姿を忘れてしまっているのではないか、と感じることが多くあります。僕は10代の頃から、建前と本音を使い分ける大人の社会に圧倒的な違和感がありました。mammaには、僕の様な過去を”今”経験しているヒトに遊びに泊まりに来て欲しいです。みんなが帰れる場所に、リセットできる場所に、したい、と心から思っています。今でもその思いは変わっていません。僕は、今もバックパッカーのような働き方でいろいろな場所を転々としているので、毎日いるわけではないけれど、そんな想いの方から連絡をもらったら、必ずmammaで待っていたいと思っています。中学生の時の僕が、僕のことを「クズ」と呼んだ教師が、今の自分を見たらどう思うのでしょうか。僕の心には過去に自分が経験したことを経験している人たちを救いたい、という気持ちが心の根底にあります。
こんな記事を書いていたら、生きてさえいればどこかで報われるときがくるのだ、と誰かに伝えたくなりました。
長文失礼いたしました。
こんな僕の気持ちや思いに共感してくださる方がいらっしゃいましたら、
ご支援、ご協力いただけばと思います。よろしくお願い致します。
ゆうさい