第1回の交流会から参加している、自死遺児である菅沼舞さんから、これまでの抱えてきた様々な思いや葛藤について、書いていただきました。
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1998年に、自殺で亡くなる人の数が3万人を超え、自殺は”個人”の問題ではなく”社会”の問題だとして、「自殺対策基本法」が出来たのが2006年。
様々な方々の血の滲むような努力のおかげで、去年は、統計を始めた1978年以来、初めて速報値で自殺者数が2万人を下回りましたが、それでもまだ1日に50人以上もの方が、自ら命を絶って亡くなっており、これは交通事故で亡くなる方の6倍の数です。
私の父も2004年の7月7日に、45歳という若さで自ら命を絶ち、この世を去りました。
「世界を駆け回るような大きな会社にしたい」と自ら会社を立ち上げ、とにかく仕事人間だった父。
父が亡くなってしまった今となっては、直接的な原因を聞くこともできませんが、売り上げの多くを占める取り引き先が倒産し、父の会社も大きな煽りを受けました。最後は、資金繰りがうまくいかなくなり、「自分が入っている生命保険から下りたお金で、残された社員たちをどうにかしてほしい。」と自ら命を絶ったそうです。
病気や突然の事故などで、“生きたくても生きられない人“もいる中、自ら命を絶つこと自体は絶対に許されることではないし、どんな状況であっても、私も父には生きててほしかった。
父が亡くなった時は、私もまだ高校三年生でもちろん無力ではありましたが、
もし、あの時、父の変化に気付いていれば状況は違ったのか•••
なぜ、もっと父に優しく接することが出来なかったのか•••
なんで、父は私たちを置いて死んでしまったのか•••。
父を失った直後に感じた答えのない感情は、今も消えることなく、心の奥にずっと残っています。
父が最後に遺したノートには、「死にたい。でも死ぬのが怖い。」「死にたくない。でも死ぬしかない。」と書いてありましたが、
本当は私の父だって”死にたかった”のではなく、”生きたかった”のではないか。
でも、”死ぬ道を選ぶ”しかないほど追い詰められていたんだと思うと、胸が苦しくなります。
誰よりも子ども想いで、誰よりも負けず嫌い、周りにカッコつけるばかりで、頼ることが下手な父。
私自身もそんな父に少し似ている部分があるからこそ、きっと誰にも相談できずに苦しんでいたのではないかなと想像できます(だからといって死を選んで良い理由にはなりませんが)。
きっと自殺で亡くなった方の中には、父と同じように“生きたかった”けど、“生きれなかった”人たちが大勢いて、本当はその命は救える命だったかもしれない。
10年間で自殺者数が1万人も減ったのは、そういった救える命に何かしらのサポートが行き届く社会に少しずつでもなってきた結果なのかもしれません。
そして、その対策を動かしてきたのは、紛れもなく自殺で大切な人を亡くした人たちの声なき声です。
“生きたくても生きれない”人たちがいる一方で、“自ら死を選択する”ことは罪である。
そういった社会の風潮が、遺された人たちが声を発することや、故人の死を悲しむことさえ許されなかった。でも本当は亡くなった人たちだって、みんなと同じ人生があり、関わっている人たちも大勢いて、そんな中でも“生きたくても生きれなかった”人たちがいることを、偏見を恐れることなく立ち上がった人たちがいたからこそ、こうして私も自分の父の死について語れることが出来るようになりました。
韓国では、日本で対策が始まる10年前の日本と同じような状況があるそうです。自殺は深刻な社会問題でありながら、語ることや悲しむことさえタブー視されるという状況です。
日本の自殺対策が多くの遺児たちの声から動き始めたように、韓国でも同じように遺児たちが安心して語れる居場所を作ることで、きっと韓国でも多くの人たちの命が救われるようになっていくと確信しています。
今回は私もスタッフとして、この交流会に参加予定ですが、どうか皆さん、自殺の問題を他人事として捉えるのではなく、もしかしたらすぐ身近に起き得ることとして、考えて下されば嬉しいです。