2017/03/21 14:07

 

〓 大天使!3日間停滞中! 〓

開始10日目になる本日ですが、
実はここ3日間支援者が現れないという停滞の時期がやってきています、!



なので支援総額は相変わらず98000円で77パーセントのまま。
しかしこの77という数字、妙に目に付く。なにやら意味ありげな雰囲気を醸しているなと思い「ぞろめ 77」で検索すると

「エンジェルナンバー77は、 ”印象や雰囲気が良くなり、 魅力が安定している” というメッセージです。」

という不思議な文言が。
エンジェル?スロットの金貨ジャラジャラ的なラッキーを連想してたけども天使だったのか。
ありがためだけど、安定というのは良くないかなと思い
前髪と右髪をバッサリ切ってみるも、後ろの方には手が届かずボサァっとして間抜けな感じ

もっと空気を切り裂くようなオーラを纏いたのだが、、


カットモデルを探している友人がいる方いましたら僕を紹介してくださいな〜

 

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リターン紹介の第4弾!
モーメント小平のリアカーについて紹介です

これは
『850キロ!無一文リアカー旅』「東京から香川までリアカーを引っ張り歩く2016春』
『52日間の壮絶パフォーマンス行脚』
などなど様々なネーミングを試みるも未だ定着するものがないあの伝説の企画
『モーメント小平・生きるためにやったこと』
の現場で起きていたことの詳細について言及する僕の初試みです。

あまりの非日常っぷりに、あの壮絶な52日間のどこをどう切り取ってどんな態度で発信すれば良いかわからない。という思いからこの1年間。人に伝える事を敬遠してきたのですが
今や私はあのリアカーを嫁に出す立場。
126000円で見染めてくれる人を探すべく、真摯になるべく面白くリアカーにまつわるエピソードを書いていくことにしました!

 

東京都小平市 『リアカーをひろう』
小平→渋谷  『蛍光テイスティー』
『モーメント小平の誕生』
東京→小田原 『寒さと重さ』
小田原→沼津 『箱根越え』
沼津→浜松  『優しい東海道』
浜松→関ヶ原 『無念』
関ヶ原→京都 『喧嘩する旅芸人』
京都→神戸  『料理人とジャスミンティー』
神戸→岡山  『ゆかいな仲間達』
岡山→高松  『ずれている』
高松→綾川  『山なみ』
高松→東京  『輸送』


12章構成でいきますよ〜

まずは 第1章『リアカーをひろう』から!!6600字あって長いので心して読んでね

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◆リアカー

大学でひろったリアカーがある。
床板の半分は抜け落ち、鉄骨は悉く錆び果て支柱が取れてる等相当な年季が入っているが、引っ張ってみるとすいすい進む。
箸やラケットのように身体の一部として使えるようなグッドな道具であることを瞬時に悟った。
そしてこいつはおれと抜群に相性が良い。
ひろうまでに3年かかったが、それが落ちている状態であることを確認するには十分な時間だった。

自分で言っておいてなのだが、「リアカーをひろう」というのもおかしな表現である。
同じく軽車両に属する自転車だったとしても「落ちていた」「ひろった」なんて表現はアホな不良中学生が苦し紛れの言い訳くらいにしか使わないし。

しかし私にとってのこれには、「ひろう」という表現を使ってしかるべき状況と、さらにそれを行動に移す動機となる推察が、時空を越えてダイナミックにイメージできていたのである。

私の母校、武蔵野美術大学にはこの世に存在するあらゆる物をそこに捨て、さらに訪れた人がそれらを好きに持って帰っていいというルールで運営される「ゴミスト」なる極めてアウトローな施設が存在する。
ルールというよりは"大学独自の文化"といったほうが正しいかもしれない。
そこの学生は「とにかく無駄で役に立たないものを生産し続ける」というポリシーのもと、狂った奴も狂ってない奴も総じて狂ったように不要な物の創造に明け暮れるのだ。しかもそいつらの3割くらいは「この世でだれも見たことのないようなあり得ないものを生み出してやる」という野望に燃えており、そこから生まれたものなんぞ、作った本人ですら、それがなんなのか分かっていないのだからお手上げである。
もちろん、そんなものは皆すぐに捨ててしまう。

「ゴミスト」は、西側の空き地に、鉄パイプや垂木の骨組みに、適当な板をヒモや結束バンドで括り付け屋根にするといった明らかに学生の出した廃材で作られた即興的で退廃的な建築なのだが、通常ゴミ捨て場でイメージするような汚さや臭さはない。
雨の日も風の日も7人くらいの管理のおっちゃんおばちゃん達が適度に煎餅・茶などで雑談しつつ、長年の経験をもって秩序を保っているからだ。
素材も用途も分からないような奇矯な物体を、段ボール・発泡スチロール・金属・プラスチック・機械・木材・石膏・紙類・危険物
と鍛え抜かれた眼で振り分けて陳列する、収集車が来たら手際よく処分、という彼らの働きも知らず、のんきな学生達は「宝の山だあ、!」と毎度同じフレーズを繰り返しながら足繁く通い、不毛な物体を見つけては目を輝かせて持って帰り、さらに不毛なものとして再生産、再投棄、再陳列。なんて奇妙な循環がおきている。
一般的な市場経済ではあり得ないような「なんでも置いて良い」「なんでも持って行って良い」というお金のかからない物のやりとりが行われる都合の良い場として絶妙な存在をキープしているのだ。
なんでも置いてよい?廃棄にお金がかかるような粗大ゴミでも??と思った人もいるだろう。だったら家のゴミも持っていけるじゃん。と。
YES、あなたは勘が鋭い。
公に認められている訳ではないのだが実質、その理不尽な押しつけがまかり通っているのである。

その状況を作り出したのが、1920年頃にアメリカで生まれた"レディメイド”という芸術上の概念。美術館にトイレの便器を展示して「どうです?なんか変でしょ?」とドヤ顔をするといった行為に代表される"既製品をそのまま展示する”という遊びなのだが、極悪な学生達はそういうのも至極大好き。
偉い教授達に作品をみせてコメントを貰う講評会で
「ソファでだらけながらカップ麺を食す」
「動いてる洗濯機に自作の船を浮かべる」
「ピアノを3階から落とす」
「粘土の中に埋めておいた携帯電話を取り出し、実家の父親と電話する」
「ドライヤーをつけっぱなしにして放置」
などの破滅的な行為を作品として立て続けに発表、歴史上の偉人のつくった概念を後ろ盾に、教授を困らせる輩が数多く存在するのだ。

「基本的に学内で出た作品関連の不要物しか認めない」
というスタンスを守りたい学校側も、
「その洗濯機は船が浮かべた過去があるか否か」を確かめる術はなく、最終的には「おれっちが生きてること自体芸術だから」などと意味不明なことを語りながら家の粗大ゴミをもってくる勘違い学生の自分哲学にも甘んじる他ないのだ。

ソファ、机、食器、電子レンジ、ホッチキス、糊、アコースティックギター、洗濯機、冷蔵庫、スピーカー、おしゃれなライトなど、ここにくれば生活を豊かにするものも無料で揃う。冷蔵庫くらいの家電ならゴミストのおっちゃんに「冷蔵庫壊れてちゃって困窮なので、使える冷蔵庫きたら教えてくださいね。」といって電話番号の紙を渡しておけば10日くらいで連絡がくる。

筆や鉛筆はいつでもいくらでも落ちているから、2週間にいっぺんくらい現れる絵の具セットをゲットして、大量に捨ててある巨大なキャンバスを白く塗っちゃえば、絵なんてのもいくらでも描ける状況なのだ。

しかし気づかなくてはならないのは、一貫して享楽的な態度を容認してくれるこのシステムの維持には莫大な金がかかっており、もちろんそれらは自分たちの学費から賄われているという事実。

武蔵野美術大学の西部中央に位置する通称「ゴミスト」、ここは混沌を極める学内でも特にアウトローで世紀末な夢の場所なのである。

 

なぜに突然、詳しいゴミ捨て場の話?と思っているあなたももう少し我慢して読んでほしい。
これは、これから数多の困難をのり越え大冒険を繰り広げるリアカーの出自を語る上で重要なファクターのひとつであるからなのだ。

さらに話を展開する。
この武蔵野美術大学、東京都とは言っても小平市というかなり辺鄙なところにある。さらにどう言うわけか小平市のびょーんと飛び出たところに位置し、東村山市・国分寺市・立川市・東大和市に隣接、常に領土問題に晒され統治体制の届きにくいい一帯であるのだ。

長い冬を越えついに上京一人暮らし!晴れがましい気持ちで大学の近くに安いアパートを借りた新入生は、引っ越しの片づけに目処が立つと、これから最低でも4年間は過ごすことになる大学付近の様子を知ろうとわくわくしながら散歩に出かけるものだ。もちろん東京にはテレビでみる都心のイメージしかない。
そこで皆一様に深い絶望を味わう。
ここにはどこへ行っても家と畑と用水路ばかり。迷路みたいな町に困惑。玉川上水でオバケをみちゃう。店もあったとしても街道沿いの外食チェーン、駅前のボロい居酒屋、庶民のスーパー、平凡なコンビニ、、
彼らのおしゃれで鋭敏な感性をくすぐるような洗練された施設は一切皆無なのである。

交通の便も良いとは言えない。例えば副都心の要所・渋谷へ出かけるにしても
最寄りの鷹の台駅まで歩いて15分。そこからJR国分寺駅まで10分。そこから新宿で乗り換え、、渋谷につくまでに1時間はかかってしまう。上野や六本木の美術館へ行こうものならその悲惨さに目も当てられない。

これはムサビ上京組が味わう一種の通過儀礼みたいなものなのだが、、。

しかしその状況が逆に適度なガラパゴス現象を起こしていく。
シティーポップな暮らしに諦めのついた一派は、体の4倍くらいのキャンバスを背負い「一皮むけたぜ」と爽やかにパジャマで登校。構内で焼き餅・焼き芋・ぼたん鍋。4階から地上まで流しそうめん。鶏を絞めてカレー作り。白塗りでタイヤ引っ張りレース。池で筏つくり。などなど
周りの目を気にせずに存分にマヌケっぷりを解放していくのだ。

じつは最寄りの鷹の台駅周辺は、武蔵野美術大学の学生だけでなく、とびっきりの才女が集まる津田塾大学、保母さん系快活女子の白梅学園大学、謎の多い朝鮮大学校、池に100万円の鯉が泳いでいるという噂の創価高校。など方向性の異なる一癖も二癖もある若者が集うパワースポットなのである。

西武国分寺線など、認知度も低く、世間的なイメージもない。
従って何とも形容し難い、勝手気ままなでゆる濃いな特異文化が勝手に形成されていってるのだ。

この混沌とした状況にさらに魔術的な効果を発揮するのが、青梅街道と玉川上水から始まるここいらの入り組んだ土地の成り立ちである。

小平という地名の由来は、江戸の初期、どうしようもない荒野だったこのあたりを最初に耕し始めたパイオニア・小川なにがしの「小」に、一切の起伏が認められない平坦な土地であるという事実から「平」という一字をとりつけてみた。というなんとも安直で情けない発想から生まれたものでして。
たいてい小高い丘や低い土地、分かりやすい川や沼があれば、その土地における職業や身分別の分布や雰囲気が生まれてくるものらしいのだが(アースダイバーより)、しかし小平は果てしなく荒野だったらしく、特徴的な地形が一切ないのだ。

江戸の築城に入用な石灰を青梅で削り輸送するため整備された青梅街道により、絶望的な荒野は人が通るようになる。パイオニア・小川なにがしの働きにより街道沿いには多くの人が移り住むようになり、皆一様に街道を挟むようにして屋敷を建て、その背後の土地は、街道から垂直にまっすぐ短冊状にその家の所有となるように分けられる。平らでどこまでも不毛な土地だったからこそできたことであり、その均一さ加減はきっと当時の多摩ニュータウン的なノリだろう。
武蔵野美術大学の近辺は、おそろしく縦長の土地を耕し、両脇との境界線をきっぱり分けそれを守る小川なにがしの仲間とその子孫たちによって、350年脈々と育てられてきた土地なのである。

しかし戦後GHQの地主解体政策により、世代交代の度、それらの縦長の土地の半分以上を手放さなくては賄えないほどの税金がとられるようなる。
みな「こりゃ3代で全滅じゃ〜」と嘆いたそうな。
地主たちは惜しみながら、各々の裁量で優先順位の低い土地から手放したり、貸家をつくったりしてゆき、平行の秩序は崩壊。戦後の70年で勝手気ままな家や道がうねうねと発生、新入生を困らせる迷路の町が自然とできあがるのだ。
あの界隈の東西方向の移動が、青梅街道・鷹の街道・玉川上水沿いでしか叶わないのもそれらの理由からである。いくらなんでも行き止まりが多すぎる。

その町の入り組み具合による風通しの悪さが道の公共性を薄め、7メートルの竹を引きずり歩いたり、屋根の上でたばこ吸ったり、道ばたで劇の練習をしたりすることへの寛容さを生む基盤になっているのである。
太宰治が山崎富栄と心中した玉川上水の鬱蒼とした幽霊感も、ひとつ精神的な学生の聖域を形成する要素になっているかもしれない。

ガラパゴス化した土地のエネルギーでマヌケさに拍車のかかる学生たちは、治外法権な迷路の各所に一戸建てのボロい木造の家が点在していることに目を付け、大家さんを探し交渉。不毛な議論を加速させるため、ヒッピーするため、隠れて鶏を飼うため(食用)、おしゃれなアトリエライフを満喫するため、等々仲間同士のアホな溜まり場を作るようになる。大家さんを見つけるのは簡単で、その家のポイントから真っ直ぐ青梅街道沿いにいったところに住む人に聞けば一発だ(もし何かの店になっていたらその背後)。これらも戦後に建てられた簡素な文化住宅のひとつで、ボロいしすきま風もあるので大家さんも処理に困っている場合が多く、4万円程度で借りることができる。

やはりここで多いのは、街道沿いの大家さんの屋敷のすぐ背後にある文化住宅を選ぶパターンである。青梅街道から大家さんの屋敷の表門からはいり、屋敷を通り抜け、その裏っかわにある広い敷地にぽつんとあったりする離れ的な貸家だ。

 

これらは大家さんとのコミュニケーション次第で格段に自由度があがる。なんせそこは大家さんの私有地なのだ。

とにかく中途半端な土地が余っているため
畑の一角を借りて野菜を育てる、空き地で深夜にパフォーマンスの会を開く、制作上保管しなくてはならない資材の置き場にする、スイカ割り大会をひらく、どさくさに紛れて空いてるスペースに車をおいちゃう。などなどよほど汚くして嫌われない限り自由自在なのである。

ここでもっとも注意を置きたいのが、大家さんの農具等の持ち物である。
現在進行で、畑だった土地が潰されていく。
私も目撃したことがあるが、農業をやるのがじいちゃんだけになり、さらにそのじいちゃんが死ぬと、空の広かった農地が、瞬く間に息苦しい建て売り住宅群に変わるのだ。

取り残された倉庫と古い農具たちは寂しそうに処分されるのを待つのみになるのだが、もしそこに物好きで元気な学生がいたりしたら話は変わってくる。
関係性しだいでは残されたばあちゃんが「そこらへんの道具、好きなのあったらもっていきんさい」と言ったりすることが大いにあるのだ。

スコップ、鍬、熊手、いろんな種類の籠、垂直に穴を掘る道具、溝を作るのにつかう道具、名前のしらない道具、用途のわからない道具、大量の畳、瓶ビールのケース、リアカー。

お調子者の学生は喜んで道具を手にし、なにかしらに使ってみては、驚きと発見、自らの専門とする領域との関係を見つけては打ち震え、ほろ苦い青春を噛みしめ、350年前からそこにあり続ける巨大なケヤキの落葉に胸を詰まらせるのである。

ちなみに戦後の人らが嘆いた3世代目とは丁度今である。
私が大学に通った4年間だけでも急速に農地は消滅し、揃って白く均質な建て売り住宅が立ち並んでいく様子を同時にいくつも目撃してきた。もし10年後再びここに訪れたらさらなる町の変貌っぷりに驚く自分を容易に想像できる。

ちょっとした遠出で五日市街道の方までリアカーを引いていったことがある。
気持ちいい両側畑の道である。
バカな友達が後ろに乗っていて、前方におばあちゃんがゆっくり歩いていたので声をかけて追い越そうとすると、ぼくらをみて
「あら懐かしいねぇ、」
と話しかけてきた。

次の角まで連れだって歩いたのだが
「私が子供だった頃も、ばあちゃんが引っ張るリアカーに乗っかって畑仕事について行ったもんだわ。ばあちゃんが私に、もうちょっと前だ後ろだって言ってくるんだよねぇ。懐かし。あんたもバランスをとってやってるんだろ?」
みたいなことを言っていた。

しかのく荘の向かいの倉庫に置き去りにされた農具たちは、元気な学生とは巡り会えず、代わりにアホな学生に適当にいたずらされた後、正式に処分されていった。
思えばあれらの金属の年季の入った色合いは、おれが拾ったリアカーと随分似ていたかもしれない。

学生っていうのはどこまでも自分勝手なものである。
たまに街道沿いのチェーン店の後ろを覗いて、それでも屋敷の跡がない列を見つけては、その歴史に思い馳せたりする。どっかのタイミングで一家みんなで引っ越したんだろうか。マンションとかに?

例えばそれが20年前だとして、土地を手放すことにことにした一家と、その後ろの貸家でやりたい方題する元気な学生のことを思わずにはいられない。
大家さんの引っ越しを形ばかり手伝っただけで、珍しい農具をほしいがままにした彼は、青梅街道と玉川上水の界隈性に守られ、その後の学生生活も満喫する。時が過ぎ、卒業の季節。次にやるべきことも決まり、いざ小川を発つタイミングで、持ちきれなかった農具とリアカーを仲の良かった後輩に譲る。後輩はよろこんで界隈を爆走するも、しだいに置き場に困るようになり、
地域一のグレーゾーン「ゴミスト」と部活棟の隙間のスペースにそれを保管とも放棄とも取れるような状態で駐車。
案の定、先輩から受け継がれたリアカーは捨てられもせず。持って行かれもしない。
学生たちはゴミストのおっちゃんおばちゃん達の物だと思い、ゴミストのおっちゃんおばちゃん達はどこかのサークルの持ち物だと思う。不審物に厳しい研究室もゴミストと部活棟はノータッチ。たまに使ってはもとに戻していた後輩も翌々年に卒業。リアカーの出自を知るものは構内にいなくなる。
年に1・2回、大量の材木を運びたい気まぐれな2人組とかが「丁度良いのがあんじゃん」とアトリエまで使用、使い終わって元の隙間に戻す。

そんな感じで10数年後。

リアカーはおれにひろわれるのだ