今日は活動報告ではありませんが、明日母のお誕生日なので、母のお話しをさせてください(^^)
母は奄美で生まれ、5人姉妹で母のお母さんは小さな商店をしていましたが、小さな頃に病気で亡くなったそうです。
中学から東京で顔も知らない親戚のお店で店番をしながら住み込みで働き身内を転々としていたそうで、20歳の頃外資系の化粧品会社で勤めていた頃に当時アパレルの会社を経営していた父に勝手に気にいられ結婚。笑
兄が生まれ、6歳離れて私が生まれました。
私が幼稚園くらいの時に、父は一緒に仕事をしていた従業員に騙され、当時で1千万の借金があり、同時に水道水の鉛にあたり倒れて、私は肩を貸しながら這うように病院に行った記憶がまだあります。
その後からがテレビでよく見るような超極貧生活でして…
母は騙した相手に女1人でお金を返してくださいと話をしに行きましたが、結局そのまま持ち逃げされて。
朝2時に起きて新聞配達してから毎朝倫理のお話しを聞きに、お昼はお弁当屋さんのパートをしながら夕方は新聞の集金へ、家もいつも綺麗に掃除してとにかく一生懸命に働いてる姿しか記憶にありません。
父は退院してから大好きなアパレルの会社をたたみ、生活の為にクレーン運転士の資格を取って、夜はハムの工場にバイトに行って、そこでもらってくるハムが我が家の何よりのご馳走でした(^^)
小さな頃は本当は周りの専業主婦のお母さんみたいに帰宅したら家に居て、お母さんともっと一緒に話したかったし、ないものねだりですが手作りのおやつとか本当羨ましくて。
父はいつも人間関係でトラブルある人で常にイライラしていて、他人の文句ばかり。パチンコやお酒でストレス発散。お金なくても毎日飲みに行って、自分の凄さを語ってましたね…
折り合いの悪い兄とはしょっちゅう、私も時々手をあげられることもあり、キレた時は目が尋常でなく、殺されるかと思った事も、血を見ることも何度もありました。
世の中はバブルで周りはとっても幸せに見えるのに、何で我が家はこんなにお金がないんだろう?
世の中にはお金に目を眩み人を騙す怖い人がいるんだな…
父の兄弟はいつも遺産やお金で揉めていて、長い間お金に対してもの凄くマイナスイメージがあり、人を安易に信用する事はとても怖い事と思っていました。
でもその後生活は徐々に豊かになり、人並みの生活ができる幸せを感じ、
私を大学まで入れてくれて、今親となって分かるのは本当に大変な時期に私達を死ぬほどの思いで育ててくれたのだなと思います。
話は少し飛びますが、私にも長男が生まれ子育てが始まります。
まだADHDとは知らなかった時にあまりに乱暴な子供をどうしていいか分からず、次男を出産を機に精神的にも不安定になり、外出するのが段々と憂鬱になり、必要な健診にも行かなくなりました。
このままじゃ、私も父と同じようにこの子に手をあげて、殺してしまうんじゃないかと思う日が続き、周りのよく知りもしないママに言われたちょっとした長男への言葉だけをきっかけに深く落ち込み、実家の近くへ引越しました。
そこからたまたま近所にあった子連れで通えるパン教室を知り、その間だけは気分がもの凄く開放され楽しく、
初めて食パンを自分で焼いた日の感動は今も忘れられず…大袈裟かもしれないけど私はパン作りに出会って本当に救われたんです。
その時の私と同じ年くらいの先生が私と違う人生で、もの凄くキラキラしていて、
好きな事で収入を得ている事、仕事しながらも手を抜かず、手作りの美味しい食事を楽しんで作り、子供を愛し家族仲良くしている事、もう憧れすぎてたまらなかった。
当時は長男を預けて働く何てまず無理だったけど、この自宅でパン教室というスタイルなら今の私にも出来るかも…
そう思ってからはもう周りが見えないくらいにパン作りに没頭し、田舎にある少人数の認可外保育園に毎月10万以上払って2人を預けて
イーストパンのインストラクターコースを取得する為に朝から一日講習を受けて、帰ったら夜中寝ない次男をおんぶし、習ったパンを手捏ねで朝まで復習、教室では最短の3カ月で取得しました。
そして白神こだま酵母のジュニアマイスターを取る為、福岡から始まり、最後は東京へ約3年半通いました。
資格が取れた頃にマイホームに工房を併設して白神こだま酵母パン教室をスタート。
体験レッスンを始めてから徐々に満席になり週6回レッスンを多い日は1日3回していました。
今思うと当時はあんな技術が無い私のレッスンに遠くから通ってくださってたのだなとありがたく思います。。
順風満帆に行っていたパン教室ですが、あまりに突然だった両親の病気により、180度流れが変わります。
母は元々腎臓が悪く、透析の可能性を医師に伝えられてから勝手な食事制限を始めて、1日300キロカロリーくらいの食事を1年半も続けて会う度に痩せて、
食品の栄養やカロリー表示を見ては首を傾げ食べるのが怖いと、何度話しても同じものしか食べず、目がつり上がり、唯一話を聞いていた私にも疑いの目を持ち始めました。
最終30キロ代を切り、骨皮のような姿でお風呂で倒れて救急車で運ばれました。
搬送先の病院で完全に気が気が狂い、横で寝ていた兄が誰か分からず飛び掛かって首を絞めたり…
私にいつも家族集まった作ってくれていた餃子を作るから今材料買ってきて欲しいと作り方教えてくれて,ボーっと一点を見てパチパチ瞬きをして悲しい顔をしていて、
どんなときもあんなに強くて気丈だった母が食事一つでこんなに変貌してしまうんだと、もう涙も出なかった。。
病院で自ら命を経とうとしたけど止められて、そこからすぐ精神病院に転送されました。
もう精神病院の世界が本当にドラマのようで…
そんな時にたまたま食べた1年半ぶりの病院の喫茶店のモーニングのジャム付きの何でもない食パンがあまりに美味しかったらしく、ムシャムシャと食べて
それから恐る恐るも食事が摂れるようになり、衰弱してあと1週間も持たないと言われたけどまた一般病棟に戻り、一命を取り留めました。
時を同じく前立腺癌が分かった父は約3年間闘病し、私は両親の通院や食事を作る為にパン教室はお休みすることに、、
最後の1年は脳や骨に転移し、凶暴さが増し看護師さんや病院にはご迷惑をかけ続けて、寝るときもいつ病院から電話がかかるか分からない、片時も安らげない日が続きました。
当時まだ長男は低学年、次男も保育園でしたが、その頃に長男の発達障害が分かり、多動を抑える薬があまりに強くて体重が増えずに食欲が常にないので発散させる為に平日は柔道を週末はラグビーを、
これだけは病院のお見舞いあっても絶対に休ませたくなくて、うまく主人と助け合いながら何とか乗り越えてきました。
段々と2人が強くなっていくのが分かり、体力作りにスイミングや体操なども始めて、朝は一緒にトレーニングし、とにかく手作りした栄養ある食事や食品には徹底的にこだわりました。
闘病した父も66歳で呆気なく亡くなって、あんなに数年一緒にいたのに死に目には会えず…
でも全力で家族で闘ったから、亡くなった時も何の後悔もなく、ようやく終わったとホッとしたのをよく覚えています。
父は多分やり直したことが沢山あるんじゃないかな?死ぬまで今も顕在のおばあちゃんのことが心配していたし、孫のこと大好きだったから。
当たり前だけど人って本当に終わりがあるんだ、それはいつかは誰にも分からないけど、どうせ終わるなら後悔なくやり切りたい。
そしてなるべくなら死ぬまで元気な心と身体で過ごしたい。
そう思う先に辿り着いたのが、
『食べること=生きること』
で、色々経験したからこそ沢山の方にお伝えしていくのが私の使命なんじゃないかとも思いました。
そして私の今のモットーは
『全てに感謝』
月並みですが有難うは
『有』ることは『難しい』
と心から思います。
色々とあり、自営始めてお金に困り、私も一度だけ子を置いて死んでしまった方が楽だと思ったこともありました。
癌にもなったけど、死ななかった。
仕事の代わりはあるけれど、母しか子供は守れないので今しかない子供との時間を大切に
日々は大変だけど、子供は必ず大きくなるから、色々あって子育てに行き詰まってるお母さんがいたら『絶対大丈夫!』と言いたいです。
何があってもそれは幸せになる為に気付かさせてくれる神様からの宿題。
そんなことを教えてくれたのはやはり誰でもない、私に背中を見せてくれた偉大な母で、
現在透析しているけど明日また一つ歳を重ねて、最期まで幸せに生きて欲しいし、今は離れてなかなか会えないけど私も恩返しをしたいなって思います。
生きていてくれて本当にありがとう!
お母さんはいつまでも私の誇りです(^-^)