2015/07/09 02:29

実行委員会の代表を務める村上日苗です。
私たち家族は、福島県飯舘村で、自然農業と、自然食レストラン農家民宿の「なな色の空」を営みながら、自給自足の暮らしをしていました。
さまざまな人が訪れ、自然とともに生きる学びの場として「なな色の空」はありました。
しかし、2011年3月11日、東日本大震災。そして、原発事故が起こりました。
3月12日の深夜、原発が爆発すると聞き、着のみ着のまま、幼子を3人かかえて避難し、流れ流れて、三重県にたどり着きました。
あれから4年たった今も、一度も家に帰ることができずにいます。
あの日の洗濯物も、思い出もすべて、置き去りのままです。
避難後、気分がすぐれない日々を過ごしていましたが、避難したくてもできない方がいる福島のことを思うと、やはり何かしたいとの思いから、福島に野菜を送る支援をはじめました。
早4年、週に一度、福島に有機野菜を送る支援を続けています。
同時に、三重県内に避難している方と集まって話し合える場、「なな色の空、おしゃべりサロン」も開催するようになりました。
その後、新たな地、津市美杉町で、自然農業を始め、あちこちのマルシェなどにも野菜などの販売で、出店するようになりました。
新しい仲間ができる中でも、福島に残された方々を思うと時折、涙があふれます。
また、アレルギーのある子どもたちが、食べ物が合わないため、
保養キャンプに行きたくても行けずにいることを知り、自然食に関わってきた経験を活かした保養キャンプができないか、昨年、周りの方々に思い切って声をかけてみました。
全くのゼロからのスタートでしたが、スタッフが集まり、様々なご支援も賜り、無事、保養キャンプを開催することができました。

私たち家族は、福島県飯舘村で、自然農業と、自然食レストラン農家民宿の「なな色の空」を営みながら、自給自足の暮らしをしていました。
さまざまな人が訪れ、自然とともに生きる学びの場として「なな色の空」はありました。
しかし、2011年3月11日、東日本大震災。そして、原発事故が起こりました。
3月12日の深夜、原発が爆発すると聞き、着のみ着のまま、幼子を3人かかえて避難し、流れ流れて、三重県にたどり着きました。
あれから4年たった今も、一度も家に帰ることができずにいます。
あの日の洗濯物も、思い出もすべて、置き去りのままです。
避難後、気分がすぐれない日々を過ごしていましたが、避難したくてもできない方がいる福島のことを思うと、やはり何かしたいとの思いから、福島に野菜を送る支援をはじめました。
早4年、週に一度、福島に有機野菜を送る支援を続けています。
同時に、三重県内に避難している方と集まって話し合える場、「なな色の空、おしゃべりサロン」も開催するようになりました。
その後、新たな地、津市美杉町で、自然農業を始め、あちこちのマルシェなどにも野菜などの販売で、出店するようになりました。
新しい仲間ができる中でも、福島に残された方々を思うと時折、涙があふれます。
また、アレルギーのある子どもたちが、食べ物が合わないため、
保養キャンプに行きたくても行けずにいることを知り、自然食に関わってきた経験を活かした保養キャンプができないか、昨年、周りの方々に思い切って声をかけてみました。
全くのゼロからのスタートでしたが、スタッフが集まり、様々なご支援も賜り、無事、保養キャンプを開催することができました。






