2019/01/15 22:10

風景プロジェクトを応援してくださっている皆様

 

発起人の多田が、「風景作譚」として想いを書きました。

facebookで発信していたものをこちらのページでもご紹介します。

 

 

風景作譚 -1-

 

23年前、沖縄芸大大学院を修了した。
那覇空港で、故郷行きの飛行機を待っていた。 

大学生生活を始めた頃はとても貧乏だった。
バナナだけで3ヶ月くらしたときも。 

それさえ買えなくなると、
浮浪者の人達と店の残飯を食べていた。 

そんなとき、助けてくれたのは沖縄のオジーやオバーだった。
貧乏と知り、ご飯を食べさせてくれた。
毎日のようにご飯を届けてくれる人もいた。 

那覇空港に立ち、飛行機を待ちながら。
絶対にこの地に恩返しに戻ると誓った。 

その後、わたしはガーデンデザイナーになった。
仕事で沖縄に呼ばれ、一昨年22年ぶりに沖縄の地に立った。 

風景を見て驚いてしまった。
「沖縄はこんなに外来種だらけだったのか・・・。」 

恩返しをする!
あのとき助けてくれたオジーオバーの子孫たちに恩を返す。 

「100年かけて沖縄の在来の樹々が繁茂する風景を沖縄全土に作る」

そう決意したわたしは、沖縄に住処も移した。 

そして、あるプロジェクトを始めた。 

 

風景作譚 -2-

 

わたしは香川県をベースに庭づくりをしていた。

しかし、沖縄県外の仕事を全てお断りして、
しばらくの間は沖縄だけに専念する事にした。

運転資金が必要になるな・・・。

所有していたクレーントラック、
ユンボ2台を売ってそれにあてることにした。

沖縄に移ることを奥さんに伝えた。
単身赴任になる。

「やりたいならやれば」
ありがたいお言葉。

すぐに沖縄に飛び事務所を開いた。
先ず沖縄のことをもっと知らなくては。

東京の図書館と沖縄の図書館を行き来しながら、
沖縄の樹々や歴史について調べ、
沖縄の街や山、グスク(城)をみてまわる。

色々な問題点が見えてくる。

でも、知れば知るほど沖縄の素晴らしさも見えてくる。
毎日が興奮だった。

1ヶ月ほどかけて資料をまとめる。

さあー。これからが勝負だ!

 

風景作譚 -3-

 

少し話しを戻して、私の立ち上げ時代のストーリー。

庭師修行を終え、私が独立したのは9年前の39歳のとき。
5万円の軽トラとスコップを買いそこからはじめた。

全く仕事が無い。
子供は3人いる。

まずは色々な家を回り仕事をいただく事にした。
草刈り作業や抜根作業(樹を根から抜く)を一生懸命やった。
色々な会合などに顔を出し、名前を覚えてもらおうと必死だった。

仕事が無いので小学校に通う子どもたちと一緒に家を出て山に向かう。
山の樹々を観察しながら樹の性質などを学んでいった。
樹を山から持ち帰りよく実験もした。

初めて頂いた庭づくりの仕事。

投光器をつけて夜中まで仕事をさせて頂いた。
それくらい本当に本当にうれしかった。

年間通してほとんど休まず、睡眠時間は2〜3時間で働き続けた。

5年間かけてやっとトラックやユンボその他の機材を全て揃えた。

色々な仕事もいただけるようになっていった。

そして沖縄との再会。

 

 

 

風景作譚 -4-「風景ブランド」

 

戦後、焼け野原になった沖縄。

赤土が海に流出しないよう、
成長が早い外来の樹々の種が大量に散布又は植栽された。

その後、リゾート化のため南国樹々もドンドン植えられていく。

ハワイの様な島へ。しかし代償は大きい。

自然のバランスはどうしても崩れていく。

樹々が変われば微生物、昆虫などの生態系にも影響する。

沖縄がハワイの真似をすればするほど、
ハワイの価値は上がるが沖縄の価値はあがらない。

本物がハワイで偽物が沖縄となる。

戦後に育った沖縄の人々の「原風景」は、
外来の樹々が繁茂する風景となっていってしまう。

ネット時代になり、地域の独自性が求められるようになった。

沖縄の植物は本当に独特で美しい。
しかし、植木屋さんにある樹の在来の種類は極端に少ない。

これでは美しい沖縄の風景は作れない。

沖縄の樹々を植えていく活動だけではなく、
種類を増やす活動もしていかなくてはならない。

樹が成長するには時間がかかる。

今から始めても沖縄全土を変えるには100年は必要となる。

「沖縄が元々持っている美しい風景のブランドを100年かけて作って行きましょう!」

資料を持ち沖縄の企業や団体、自治体をまわり始めた。

 

 

風景作譚 -5-

 

「風景ブランド」の資料を、
色々な企業さんにアポを取り持っていっていった。
話しをするととっても喜んてくださる。
「素晴らしい。頑張ってくださいね!」
有り難い言葉もいただける。

一本でもいいんで沖縄の樹を植え欲しいです。

各会社が沖縄の樹を植えれば沖縄全土にかなり沢山の樹が増えます。

皆で沖縄の風景を変えましょう!
「では社長さんとお話させてください!」
「それはちよっと、、、。」

社員の方は共感してしてくださるが社長さんに会えることはない。

そんな事が延々とつづく。

じゃー。直接社長さんと話しをしよう!
会社に電話をかけ、
「カゼモニワの多田ですけど、社長さんいらっしゃいますか?」

いかにも知り合い風に話をする。
運が良ければ社長さんに繋げてもらえる。

事情を話すが会ってもらえない。

試行錯誤しながら粘り強く続けた。

結果は出ない。

一方、各市町村が行うまちづくりワークショップに参加していった。

必ず話が出るキーワードたち。

「樹にかこまれた街づくり」
「緑豊かな街づくり」
「沖縄らしい街づくり」

やはりみんなが求めている!!

自分がやろうとしている方向は間違っていない!

 

 

風景作譚 -6- 「南城市さんとの出会い」

 

沖縄芸大時代の先輩をツテに南城市役所に向かった。

「植物のイベントをさせていただけませんか?」

沖縄風景ブランドの資料や、
沖縄全土の植生についての資料を見せながら、
100年かけて沖縄を変えていきたい!とお話していた。

すると、市の職員さんから、

「斎場御嶽の駐車場が老朽化して皆が喜ぶ空間に変えたい。」
「植栽のデザインを考えてもらえないか」
とのお話をいただいた。

本当に良い場所をを作りたいという情熱がビンビンつたわってくる。

周りからの話で公務員は縛りがあって、中々動けないという、
変なイメージが植え付けられていることに気づかされた。

お話しの内容や行動力に驚かせられる事ばかりだった。

なんて素晴らしい仕事なんだ・・・。

南城市さんの街づくりの情熱は素晴らしい。

そして他の市町村の街づくりの熱量も高い。
参加する市民の方々も熱い!
沖縄は熱い!

斎場御嶽は世界遺産に登録された沖縄でも核となる場所。

東京に100年かけて人が作った素晴らしい場所、明治神宮の森がある。

それに負けない森にするぞ!

1ヶ月ほどかけて斎場御嶽や周辺の植生の資料探しや山に入って樹々を調べた。

しかしここでもいろいろな問題が・・・。

 

 

風景作譚 -7- 「斎場御嶽周辺を森に還す」

 

斎場御嶽を森に還すには色々な問題があった。

まず、戦前の植生の資料が本当に乏しい。

付近の山は戦争によって多くが焼かれてしまっている。

植木屋さんが育てている樹は種類が限られている。

予算も限られている。大きな樹は植えられない。

「100年かけて森にする。」

東京にある明治神宮の森は100年前に明治時代の人々によって作られた。

土地に合った広葉樹の森にすると計画されたが、広葉樹があまり集まらない。

しかし、広葉樹と針葉樹をうまく構成する事で、
自然に広葉樹に更新していくようにデザインされた。

人手を加えなくても天然更新する「永遠の森」だ。

斎場御嶽の広場もまずはベースになる樹を植えることにした。

数が少ない樹種は付近の森から苗木を持ってきて、
地元の人たちと何年かかけて植樹していく。

100年後に育った美しい森を子孫の人々が見て喜んでほしい。

植樹した年に雨が降らず、樹が弱り心が痛くなった。

でも、何とか踏ん張ってくれた。

森づくりは始まったばかり。

 

 

風景作譚 -8- 

「アート作品で沖縄の植物と文化の素晴らしさを伝える」

 

植栽だけでなくアートを通して、
植物と沖縄文化の素晴らしさを伝える活動もしている。

違う角度から植物を見たときに、
新たな魅力を感じてもらえたらとても嬉しい。

わたしの制作は一般の人々にも参加してもらうようにしている。
植物に触れ作る喜びを共有したいと思っているからだ。

「沖縄県立博物館美術館10周年記念展」

ここではガジュマルと糸芭蕉を使った作品制作。

#やんばるアートフェスティバル では、
子供たちに苗木を植えてもらった。

「40年後に完成するアグーの森」2017-2018

沖縄在来種の美しさを表した
#やんばるBEAT」2018-2019

「沖縄タイムス創刊70周年記念展」では、
戦後、人々と植物が共に成長してきた時間を表した空間作り。

沖縄の植物は独特で沖縄の多様な文化を作り支えてきた。

作品を作るたびにその関係の面白さを感じている。

 

 

沖縄の樹々の盆栽がメインアイテム。
植物は古来から沖縄の大地を育んできたモノのみで構成。

木枠は50〜60年ほど前の建物の古材を使用し、
窓ガラスは昭和30,40,50,年代の物を使っている。

戦後、焼け野原になってしまった沖縄。
そこで人々と植物とが共に復興してきた様子を表現しています。

 

風景作譚 -9- 「外と内の風景づくり」

 

#アメナルミチ との出合い。」

アメナルミチは主婦を中心としたグループ。

自然からの恩恵を「暮らしの実践」の場をつくる事により、
自然と共に生活を営み、それを活かししていく活動をしている。

素晴らしい人たちとの出会いだった。

色々な話しの中で沖縄元々の樹々を愛で、
増やしていくプロジェクトのお話をした。

「やりましょう。」と言ってくださった。

「沖縄盆栽プロジェクト」の始まりだ。

沖縄の樹々を可愛い器に入れ、
盆栽として可愛がってもらい、増やしていく活動。

ワークショップや販売、展示する事で、
沖縄の樹々を知ってもらい、それらを身近に置いて愛でてもらう。

(盆栽が広がれば植木屋さんが苗木の生産を増やす事が出来る!)

屋外だけでなく屋内にも沖縄の樹々がある。

そんな島になったら、、。そんな思いで始まった。

その後、

「花いっぱい運動、地域美化に関する持続可能なモデル研究」

琉球大学との共同研究として活動を進める事になる。

 

風景作譚 -10- 「沖縄100年計画のプロローグ1」

 

「瀬ト内工芸ズ。」との出会い。

工芸ズ。と出会ったのは、

「瀬戸内国際芸術祭で盆栽展示空間の庭づくりをしないか」

と声をかけてもらったのがきっかけだった。

噂は聞いていた。どんな人たちだろう?

実際に会って驚いた。本気で大人の遊びをする集団だ!

デザイナー、建築家、カメラマン、
造形家などで構成されたクリエイター集団。

香川県をデザインの力で変えると本気で動いている。

お金にならない事でも香川を面白くするためなら本気でやる。

しかもクオリティーや内容がハンパではない。工芸ズ。に加えてもらった。

大きな刺激だった。
可能性はいくらでもある。
そう感じさせてくれた。

沖縄を100年かけて在来の樹々が繁茂する美しい島にする!

世界から尊敬される島にする!

本気でやれば出来る。

 

 

 

「平尾成志×瀬ト内工芸ズ。」作品

盆栽師の平尾さんと工芸ズ。とで制作した盆栽空間。
20年ほど使われていなかった家屋を再構成した。
(庭はジャングルで真っ暗、室内もかなりの傷み具合だったのを再生させた。)

 

風景作譚 -11-
「沖縄100年計画のプロローグ2」

 

盆栽師 平尾成志さんとの出会い。

平尾さんと出会ったのも、
瀬戸内国際芸術祭で盆栽展示空間制作の時だった。

盆栽師ってどんな感じだろう・・・。

同じ樹を扱う仕事をしているが接点は無かった。

香川県女木島の展示会場の庭は20年近く放置されていたので荒れ果てていた。

真っ暗でジャングルのようだった。

これはやり甲斐があるな。

平尾さんが女木島inする前に庭木の手入れをした。

自然の森をイメージし、枝のカタチを作りながら枝を透かし、光を入れていった。

この空間づくり分かるかなー?

どんな反応が来るだろう。

平尾さんが会場に到着し一言。

「そうきたかー!」

この手入れの意味がわかるんだ!

言語でなく樹を通して会話ができる。
とても嬉しくなったのを覚えている。

彼は盆栽師の修行を終え直ぐに海外に飛び立った。

全く知らない、ツテも無い場所に行き、
自分で開拓しながら盆栽パフォーマンスを色々な国で行っていった。

日本の文化を伝えるという使命を持って。

現在も日本国内外で活躍している。

彼の作る作品は素晴らしい。

パフォーマンスは見ているとドキドキする。

伝統的な技術、樹の知識、樹の観察がベースになっているからこそ面白い。

そして何より自分で切り開いていく行動力に感心させられた。

私の沖縄の風景づくりプロジェクトに大きな影響を与えてくれた1人だ。

沖縄風景プロジェクトのイベントは平尾さんに来てもらいたい。

樹を愛し、新しい事にチャレンジを続ける彼しかいない!

それは現実化する。
1/27(日)の東南植物楽園で行われる
「沖縄風景づくりキックオフイベント」に参加してくれる事になった。

無茶なお願いだったが快く承諾してくれた。本当に感謝しかない。

 

 

 

平尾成志さんのパフォーマンスと作品