昨日からメールや電話が次々入り、あらためて新聞の力を感じました。
この機会に日ごろから感じてる新聞とSNSに関連する内容を少し書いてみます。
タイトル:山陰中央新報と、プッシュ情報とプル情報。
かつてネットがない時代、マスに向けて情報発信は、新聞やテレビの媒体が中心でした。
言うまでもなく、
個人がマスに向けてアピールできる手段は、社会的に大きな実績を生むか、大きな犯罪を犯すか、ではなかったかと思います。
ざっくりですが。
今は、個人がインターネットを通じて、だれでもマスに向けて発信できる時代になりました。
その個人のメッセージがSNSの拡散によって、広く世間に伝わることはあらためて言うまでもありません。
そこで、今回の山陰中央新報で、取り上げられたかたゑ庵の記事とSNSでの拡散を比較しながら、
感じてることを書いてみます。
SNSを通じて、世界中に発信され、それが破壊的と呼びたくなるほどの深刻な影響をもたらしたのが、イスラミックステイトによる、
虐殺映像とメッセージです。
決してそれまでの世界では、新聞やテレビがその残忍なシーンやメッセージをナマで伝えることは決してなかったのですが、
SNSは、それを許して、しまいました。
そして、そこまでは行きませんが、SNSが拡散される大きな要素のひとつは、刺激的なメッセージで気を引く、センセーショナリズムではないかと思っています。
ここで昨日山陰中央新報がかたゑ庵の記事を取り上げたプロセスを振り返ってみます。
まず、私が紙媒体のチラシを配りました。
その中の公民館の館長のひとりがその内容に共感し
山陰中央新報の記者に伝えます。
そして、その記者から取材の申し込みがあって、
取材を受け、
昨日記事になりました。
5月21日に取材を受け、6月12日に記事になりました。
実は私はこの記事はボツになったのではないかと思っていました。
しかし、昨日
一面の見出しに画像入りで、紹介、そこだけでもかなりのスペースをとり、
そして本文のページを開いてみると驚くほど大きなスペースに記事が書かれていました。
このことは、今行っているかたゑ庵プロジェクトが、この新聞社のフィルターに引っかかって、
ジャーナリズムとして、広く伝えたい記事にしていただいたのものと解釈しました。
このプロセスのポイントは、
かたゑ庵の取り組みが山陰中央新報に行くまでプル型で、行われたことです。
私の仮説として、
これからの時代は、プッシュ型からプル型へいくのではないかと思っています。
つまり、タイムラインで一方的に流れていく、情報から目に留まってもらうためには
現在センセーショナルなコンテンツがてっとりばやい。
しかし、それは偏った情報の選択になりかねない。
一方、じっくりコンテンツを評価し、記事として取り上げた山陰中央新報のジャーナリズムとしてのコンテンツがあらためて評価される時代がくると思います。
あまりにも真贋わからぬ情報が一方的に入ってくる時代。
そんな時代だからこそ、世の中に伝えたいコンテンツを一次情報としてプルで拾い出す。
それを取捨選択吟味。
限られた紙面確保の攻防に勝ち上がり、「事実」をもとに判りやすく記事にされる。
だからこそ記事としてなることがシンボリックな意味をもつと思います。
つまり要約すると、
これからも新聞が大事な役割をすることになり、そこに記事として載ることの意味は大きい。
そしてなによりそれらにプルされるような事実をだれもが築きあげること。
ということです。
改めて、山陰中央新報さん、記事にしてくださってありがとうございます。