今回は、板ヶ八重地区の「火切地蔵」です。 火切地蔵は、高岡町板ヶ八重に鎮座する神様です。板ヶ八重地区では、明治40年頃までに2回の火事があり、人々は火災から逃れる方法を考えました。それは「火伏せ地蔵」として名高い宇納間地蔵尊の力を借りる事でした。火にまつわる全ての災いにご利益があるといわれる「宇納間様」の分霊を祀りました。
今回のレポートは、赤谷の石橋です。 県道赤谷・橋山線に架かる高さ三.七メートル、長さ十一.五メートルの石造アーチ橋。明治二十年代に熊本の石工岩永三五郎系の技術を受け継いで造られたもの。建設から百数十年を経た今でも現役です。平成十四年に市指定有形文化財に指定されています。 <iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/PSNtntpNsH8" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
今回は、「一里山」です。一里山は昭和23年(1948)に開拓がはじまり、今では高岡町内でも有数の農村地帯となっています。産業は農業が中心です。なかでもお茶の栽培はさかんで、霧の多い風土と水はけのよい土に恵まれ、集落の高台に広がるお茶畑の景色は緑鮮やかでとてもすばらしいです。 <iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/ZjQWP94FSGA" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture" allowfullscreen></iframe>
松尾山本永寺は、1335年に日朝上人が佐土原に開き、1595年に浦之名に遷り、今は本永寺原と呼ばれています。江戸時代には本山に次ぐ学頭職の僧侶ら300人がいた権威あるお寺でした。明治元年に廃仏毀釈で廃寺となりましたが、本永寺原には、石塔や墓碑がたくさん残されています。本永寺は、明治16年に現在の高岡小学校の場所に、その後、現在の場所に遷りました。
今回は、去川の関跡です。去川には江戸時代に、去川御番所があり、取締りの厳しい関所でした。関所の前から大淀川の対岸に渡舟場がありました。俗謡に『薩摩去川に御番所がなけりゃ 連れて行くもの身どもが郷に』とそのきびしさが唄われています。





