2017/11/19 23:10

今回のレポートでは、千葉を国内有数の工匠具産地にまで育てた二人の職人を紹介します。
ストーリーブックにどのようなコンテンツが盛り込まれるか、支援者の皆様の参考になれば嬉しいです。

 

江戸末期の房総半島。そこには、市原の立野平作、鴨川の佐藤政治という二人の鍛冶職人がいました。
二人は野鍛冶・農民の子として生まれましたが、様々な出会いのもとに、それぞれ三品近江守藤原朝臣兼氏、鉄水子国輝という刀鍛冶に弟子入りし作刀技術を学ぶことになります。他の地域と違って、房総半島は鍬や手道具を作る野鍛冶と刀を作る刀鍛冶の距離が近かったのです。


長い修行を経て二人は作刀技術を身につけますが、ちょうど独り立ちというときに明治維新、廃刀令という大きな時代の変化を迎えます。苦労して刀鍛冶になったのに、刀が要らない時代になってしまった。この事態の中で二人はどのように動いたか。


それは、周りの人々、市場が求めるモノを作る鍛冶職人への転換でした。

 

立野平作は、洋風文化が広がる中で髷姿からの転換、散髪需要が広がると考えました。そこで、舶来の散髪鋏をもと日本の理髪師の手にあった散髪鋏の製造に着手します。これは国内で最も早い洋鋏の国産化でもありました。


佐藤政治は、肉や牛乳の消費とともに増えていった牧場を見て、牧草を刈り取ることに特化した鎌を考案します。薄刃で軽い鎌は、牧場で働く人達からも好評を得て、「房州鎌」としてブランド化にも成功します。

 

二人は、自分の技術、新製品の製造方法を秘伝のものとせず、惜しげもなく周りに教えていきました。弟子には近隣の農家の次男・三男が多かったようです。二人は技術を教えるだけではなく、弟子たちの生活を安定させるために、自ら消費地を回り、販路を広げていきました。

この結果、房総半島・千葉には、刀鍛冶の作刀技術を応用した鋏や鎌、洋風文化に対応した工匠具を作る職人が増えていったのです。

 

旧来からの製法や伝統は大事にするけども、固執はせず、あくまでも市中の使い手が求めるものを作っていく。
この精神は今の千葉の職人にも受け継がれています。