2017/05/30 11:25

今泉幸広さん(現在は、エスパルスサッカー普及部 部長)

 

「サッカーがうまくなりたい」。その一心で高校2年(1986年)の夏にブラジルへの留学を決断しました。

費用は親が支援してくれましたが、渡航の手続きはすべて自分で行ないました。

ブラジル大使館や日本サッカー協会などに問合せをしながら、最終的にカズさん(三浦知良選手)の叔父さんにたどり着き、その後ブラジルへのサッカー留学が決まりました。自身初海外がブラジルでした(笑)。

 

ブラジルでは最初に「マツバラ」というクラブに所属しました。サンパウロ市から車で南に6時間くらいでしょうか。

自分がマツバラにいた頃、カズさんが他クラブからマツバラに移籍してきました。

自分より3つ年上のカズさんはトップチームで、自分はユースチーム所属。同じ宿舎で別々の部屋でしたが、ほとんど一緒に過ごしていました。まるで夫婦のように(笑)。

 

カズさんは1990年に帰国し、自分はエスパルス加入のため、1992年2月に帰国しました。

当初カズさんもエスパルスに入る可能性があったと聞いていましたが、残念ながらそれは実現しませんでした。

 

帰国後、埼玉県出身の自分はエスパルスの選手寮ができるまでは住まいを転々として、寮(栗原寮/静岡市駿河区)が完成すると“第1号”で入寮させてもらいました。

1992年に在籍

 

1992年は選手として在籍しましたが、翌93年にクラブから「通訳をやってくれないか」と打診がありました。

現場の監督たちは選手として評価してくれていましたし、自分はまだまだ選手としてプレーしたかったのが、正直な気持ちでした。

ただ、クラブがゼロからできて人材が足りない状況で、自分はそれまでもいろいろな方々にお世話になっていたので、その時に現役引退を決めて、通訳に転向しました。当時の自分にとって本当に難しい決断でした。

 

当時は、ヤスさん(三浦泰年氏)やケンタさん(長谷川健太氏)、カツミさん(大榎克己氏)、タクミさん(堀池巧氏)など、そうそうたるメンバーがいて、チームも強くて楽しかった思い出があります。

自分も体はバリバリ動くので、通訳なのに練習のランニングでは先頭集団を走っていました(笑)。

 

また、様々な監督と仕事をさせてもらい、様々な指導者の“サッカー観”が自分に入ってくる感じで、非常に勉強になりました。

ただ、93、94年は監督・選手含めて外国人が確か9人ほどいたのに、通訳が自分一人という状況で、サッカーの通訳だけでなく、選手たちの引越しやその他手続き、時には選手の奥さんの出産の際の身の回りのお手伝いなど、とにかく忙しかったですね。

 

その後、95年頃からエスパルスでサッカースクールをスタートさせる動きがあって、通訳をしながらスクールの指導に関わりました。

かれこれスクールの立ち上げからずっとエスパルスのサッカースクールに携わっています。

 

エスパルスサッカースクールも、いろいろな方々の支えがあって今日まで20年以上続けることができ、本当に感謝しています。

幼稚園年中から小学生だけでなく、ガールズ(女の子)のクラスや中学生のチームなど、約3,800名もの子どもたちが所属してくれています。

スクール事業を通じて地域に根差した活動を行いながら、エスパルスがこの街にあることで、子ども中心に笑顔があり、幸せを感じられるようにしていきたいです。

数年前から、「障がい者サッカー」や他種目とのコラボレーションを積極的に進めています。

サッカーだけでなく、この地域のスポーツがより活性化するために、エスパルスが先頭でその役割を担っていければと考えています。

 

エスパルスの歴史をまとめた25周年記念誌、皆さんと一緒に作りましょう。ご参加よろしくお願いします!

 

エスパルスサッカースクール

http://www.s-pulse.co.jp/schools/