『華岡、医師になる』
石川県内灘町の川、海、砂丘、小さい森に囲まれて生まれ育ち、小学生時代の夢は「河北潟を綺麗にすること」です。それは、ただ自分が綺麗な河北潟で泳ぎたい一心でした。どうやったら河北潟を綺麗にするか頭の中で授業中によく妄想したものです。この野望は今も胸の奥底に秘めています。そんな私が、高校2年生の夏に唐突に医者になることを決めました。それは半ば導かれているかのようでした。
1番大きな影響を与えたのは、3歳のときに亡くなった曾じいちゃんです。幼少期に、入院中の曾じいちゃんの病室を訪れるたびに、医者になれと私に言っていたようです。全く覚えていません。
高校生まで話が飛び、高校1年生の終わりごろ、成績が急激に下がり始め(学年で300番位...)、東進衛星予備校に入学することになりました。それも当時付き合っていた彼女がそこに通っていたから。このような動機で、通っているものだから成績は伸びるはずもありません。
そんな時に、私抜きの保護者面談が組まれました。「華岡くんは何になりたいのですか。」と東進の校長先生に尋ねられた母親は私が3歳のときの記憶を引っ張り出し、「そういえばお医者さんかな?」と答えたそうです。次の日には私の校長との面談が組まれ、医学部用の教材を提案され、校長先生は半ば強引に「大は小を兼ねる。医学部目指しておけばどこでもいける。」と2言。私は医学部を目指すようになりました。
ですが、ここで重要なのはそこではありません。目指すきっかけより、そこに耐えうる人間力を育んでくれた方々のお蔭だと最近強く思います。「好きなことはやり通せ」という父親の教訓、間違ったことをしたときにはドレッシングの瓶で殴るほどの母親の全力の愛情、私のやることには全力で応援してくれるじいちゃんばあちゃん、「何事も楽しんでやりなさい」というミニバスコーチ、「一流になりなさい」という中学バスケ部の顧問、授業を寝るものだと舐めてかかっていた私を寝ている度に立たせた中三時の担任の先生、「人生上々」を体現しまさに「人生の授業」を繰り広げる智正学院塾長(現チセイ練成塾)、「大は小を兼ねる」と名言を残し成績不振の私を見離さずに信じてくれた東進校長。
様々な「鍵」と「鍵穴」がたまたま上手く結びついて、今の私がいます。少し掛け違えば、それはどうなっているかわからない。色々な社会的背景を持ち生き方に苦しんでいる人たちが、なんだか遠い存在には思えないんです。みんな、私であり。私はみんなでもある。そう思うんです。