チャレンジ56日目・19時です
吹上ワンダーマップ10レポート配信のお時間がやって参りました。
前回は明治維新150周年の作品として様々な髷を描くことを決めたところまでレポートさせていただきました。
本日はその続きをレポートさせていただきます。
髷・その4
明治維新150周年の作品として様々な髷を描く事に決め制作に入ったのですが、様々な種類の髷を描いてただ展示するだけでは少し弱い気がしました。
そこでもう一度「散髪脱刀令」につて考えてみたのですが、「髷を落とす」その理由が妙にひっかかりました。
「髷のままだと外国人にバカにされてしまい、近代化ができないと考えたから」
この理由。僕はなんか格好悪い気がしました。
自分たちの伝統や気に入っているものを他人にバカにされたからやめてしまうというのは情けない気がします。当時の情勢や現代との価値観の違いは重々承知していますが、それでも格好悪い。
その想いが強くなった時に、作品に関するあるアイディアが生まれました。
外国人にバカにされようとも髷を貫く架空の人物を生み出し、髷を貫く理由と様々な髷を楽しむストーリーをつくろうと。
こうして生まれたものが「博多 和宏之助 物語」です。
博多 和宏之助
嘉永5年4月1日生まれ(西暦だと1853年5月15日生まれ) 明治元年(1868年)にちょうど15歳の元服を迎え、多感な時期に明治維新を体験する。 派手好き、新し物好きな和宏之助は、渡来品や海外の文化が一気に広まった明治維新を大いに楽しんだ。 明治4年(1871年)に「散髪脱刀令」が出された際には真っ先にザンギリ頭にしたのだが、後に散髪脱刀令が出された理由が「外国人に髷(まげ)を馬鹿にされたから」だという事を知ると憤慨しすぐに髷に戻し、その後は頑なに髷にこだわった。しかし髷以外に関しては大いに海外の文化を取り入れ和魂洋才の人生を謳歌した。「髷」と言っても様々な髪型がある。現在は「丁髷(ちょんまげ)」と呼ばれる事が多いのだが、私たち現代人が時代劇等で見る丁髷は本来の丁髷ではなく「銀杏髷」と呼ばれるものである。本来の丁髷とは髪の少ない老人が結う小ぶりな髷であり、その形から「ゝ髷」(ちょんまげ)と呼ばれたものである。髷の結い方は60種類以上もあると言われており、博多 和宏之助は季節やその時の気分に合わせて様々な髷を楽しんだ。 近年、博多 和宏之助が結った髷の記録が博多家の蔵から発見された。明治維新を独自の感性で生きた和宏之助の記録を、明治維新150周年を迎えるこの機会に是非公表したいと考え今回の展示に至った。