(こちらのnoteに投稿しております)
コロナ禍で”アジア人差別”が聞かれるようになった。ウガンダも例外ではない。個人的にだが、6/19に再度発表されたロックダウン後から、「コロナ!」(「チャイニーズ!」)と叫ばれたり、マスクを少しでも外すと顔をしかめてマスクをつける動作をしてみせる、消毒液を顔の前に突きつけてくる、などをされた。
私の経験もそうだが、世界でこのような話やひどい場合は暴力事件にも発展していると聞くと単純に、「ひどい話だ」「差別だ」「悲しい」と思っていた。
しかし、いったん冷静になり俯瞰してみると、違った側面にも気づくことができる。
コロナが世界中で話題になり始めたとき何が起きたか。多くの人々が我先にと自国に帰国したのではないか。その中には海外で生活をしていた人やビジネスをしていた人、さらにはNGOのような国際協力をしていた人もいるだろう。
海外で生活しているよりは自国の方が安心、国境が閉鎖される前に帰国したい、といった思いがそうさせたのは容易に想像ができる。(一方で、本人の意思に反して国や所属団体が強制帰国させたケースもあるのは確かだ)しかしそれを実行したのは誰か。飛行機に乗れるくらいの経済力をもつ”金持ち”なのではないか。(*個人差はあるが、ひとくくりに”飛行機に乗れる=金持ち”とする)
そう思うと前述したウガンダでのアジア差別も仕方ないのではないか。コロナの発祥は中国だというのが現在の世界の認識だ。そこから日本を含むアジアに広がり徐々に世界中に広がっていった。世界中で国境をまたぐ大移動をしたことはその原因の一つと言えるだろう。
しかしウガンダの人々の大半は、国から出るどころか自分の住む地域から出たことのないものばかりだ。では彼らにとって、”金持ち”のイメージがあり自国民ではないムズングを見れば、飛行機に乗ってウガンダに来てコロナをもたらしていると考えるのは必然なのではないだろうか。
視点を少し外に置くと相手の言い分が分かり、批判の気持ちはなくなる。世界中で様々な”差別”が叫ばれるなか、みんなが(分かっていても)忘れがちなことだと思う。「他人の靴を履く」意識を常に持つことは世界中で必要なことだ。
また、この点に気づくと「悲しい」ととらえていた私の感情が「申し訳ない」気持ちに変わった。しかし、私がコロナをウガンダにもたらした訳ではないのは事実だ。
彼ら彼女ら自身も私が元凶ではないことは理解している。私がすべきなのは”ここにいるべき”理由(ウガンダに渡航し滞在することを決めた理由)、帰国した人々は帰国の理由を体現ししたうえで今できることを最大限やることだ。
この話は、ある程度以上の余裕のある人と脆弱層とに分けた場合よくあることだと思う。結局国際的な、グローバルな動き(全体的、大きなもの)は脆弱層を取り残してしまう多数決の世界だ。力のあるものや多数が利益を得るためこの構造はなかなか無くならない。
脆弱層が取り残された場合、そこに立ち向かう体力は十分ではないどころかむしろなく、倒れてしまう。ではどうしたらいいか。困難に取り組む余裕のあるものが、責任をもってリスクを負わなければならないのではないか。
余裕のあるものがリスクを負えばそれを跳ね返す可能性も十分あり、少なくともそれに耐えることはできるだろう。余裕のあるものが世界を動かすなか実現はなかなか難しいが、そこを意識できる人が率先してリスクを負担して少しずつ広げていくのが一番の近道かもしれない。