2021/01/31 13:18

日本人鍛冶(倭鍛冶)は日本国内に数多く存在していました。

三木も同様に刀鍛冶・野鍛冶が多数あったそうです。

戦国時代までは三木が播磨の中心で中国地方から京都への街道でした。

特に別所公が上ノ丸に城を築き周辺(24万石)を治めていたので、新しく大陸から渡来した韓鍛冶との合流が進歩の度合いを早めたと伝えられています。

当時の記録では韓鍛冶の技術者の方が多かったようです。

韓鍛冶の技術者たちは出雲地方に上陸して三木の地に居を構えたと言われています。

その当時に出雲で日本初(?)と言われる玉鋼が産出され韓鍛冶が一緒に三木に運ばれたとの事です。

三木の周辺には渡来人の居がいたるところに有ったと言い伝えられています。

つづく。 藤本