▲創業後、工場として歩み出した活気ある頃[一番左が母(久子)]
クラウドファンディングをスタートさせて1週間。多くの方のご支援と温かい声に励まされています。ありがとうございます!
さて、テレビや雑誌など、あらゆるメディアで特集され、餃子人気が高まる昨今。
ご家庭でも、子どもから大人まで大好きな定番メニューとして、食卓での地位も固まってきたのではないでしょうか。
巷には様々な餃子が並び、味だけでなく、焼き餃子に水餃子、揚げ餃子、楽しいアレンジレシピなど、餃子のバリエーション豊かな食べ方も注目を集めています。
私たち「ぎょうざのビッグファイブ」は、家庭の食卓での餃子人気が高まるとともに成長してきました。
「鹿児島の食卓を餃子で応援する!」
大それたことかもしれませんが、この思いに本気で向き合い、毎日真剣に餃子作りに励んでいます。
この餃子屋らしからぬ社名【ビッグファイブ】の誕生には、知られざる物語があります。
創業30年の節目に、創業者・政田久子の餃子ストーリーを紐解いてみよう、とスタートしたこの書籍化プロジェクトですが、今回ご紹介するのは、この本では語られない、ずっとずっと前のお話です。
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ときは昭和20年4月8日。終戦をむかえる4か月余り前のこと。
鹿児島も大空襲を受け、多くの方が亡くなりました。私の曽祖母・川原タマヨも、その犠牲になった一人です。
当時、鹿児島市武町で精肉店を営んでいましたが、となりまちの唐湊に出かけていたところ、そこで空襲に遭い命を落としたと聞いています。
タマヨは夫をはやくに亡くし、女手ひとりで5人の子供を育てていました。
それはそれは、大変苦労がありました。
そんな中、佐賀出身のタマヨには同郷のよしみで親しくしていた、1人の女性がいました。重い病を患っていた彼女は、自分の旦那さんの後添えをタマヨに頼み、亡くなってしまいました。5人の子供を抱え大変な暮らしを続けるタマヨと、自分の旦那さんの事を想う、心優しい彼女からの最期の願いを受け、タマヨはその男性との再婚を決意。
この時、タマヨには強い信念がありました。
『子どもを育てるために再婚するんだ。子どもたちの苗字は、川原のまま変えない』
肉屋を営む男性と再婚したタマヨは、5人の子どもを育てながら夫とともに懸命に働き、店は大繁盛。しかし、そんな幸せな日々の全てを大空襲が変えてしまいました。
残された5人の兄妹は大変仲が良く、助け合って生活しました。
末弟を大学に進学させようと、兄達は肉屋を盛り立て、資金を作りました。世の中も高度経済成長の真っただ中、活気溢れる時代でした。
この兄弟の次男が、私の父方の祖父・川原嘉郎です。
4年前に他界しましたが、残してくれた精肉店『肉のカワハラ』は、今も鹿児島市武町で商いを続けています。
嘉郎は肉屋一筋で、さまざまな加工品も作っていました。
良質なお肉を使い、ホクホクのジャガイモを混ぜた、揚げたてコロッケは絶品で、幼かった私はホイルにくるんで何個もかぶりついたことを覚えています。
父と母が離婚し、私たち5人の子どもは母と暮らすこととなりました。
苦労している母を、祖父の嘉郎は自分の肉屋で雇い、私たちの暮らしを支えてくれたのでした。そこで生まれたのが、母・政田久子の餃子です。
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ビッグファイブの社名は、5人の子ども達とお店が大きく育つようにという思いが込められています。
何の因果か、70年以上の時を越え、女手ひとつで5人の子どもを育てあげ、力強く生き抜いた2人の女性の精神が繋がっているように感じて仕方ありません。
ぎょうざのビッグファイブは、忙しい女性を応援するために、餃子をひとつひとつ大切に作ってお届けしています。
私自身も会社の誕生に秘められたストーリーを知り、あらためて食卓を支える餃子屋でありたいと、強く思いました。
今回のプロジェクトを通し、皆さんにそんな思いをお伝えできればと考えております。
ご支援頂いた方々のご恩に応えられるよう、達成に向けて頑張って参ります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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