例えば、起こったことのほぼ全てを忘れているのに、ある瞬間のことだけは妙にいつまでも思い出す。誰しもそういう古い記憶の1つや2つは持っていることだろう。
いつか、私が身動きできぬほどに歳をとり、自分の名前が判らぬほどに呆けたとして、多分、あの瞬間は忘れない。
Jbstyleさんに絵を描いてくれとお願いすることは、これを作りたいと思った時から決めていた。
いや、逆だ。
もっと前から、私が何かを作る時、いつかJbstyleさんに絵をお願いしたいと思っていた。
ただ、ハードルが高かった。
相手は、例えば、マイクロソフトやバンダイナムコ、アドビ ジャパンという大企業から名指しで発注を受けるアーティストだ。
対する私は実績も肩書きもない、くたびれたハゲだ。
どうしたらせめて話を聞いてもらえるか、仮に受けてもらえたら一体いくらかかるのか、と言うよりも、目的のために実現したい商品価格があり、そのために、イラストを全く適正ではない金額で描いて欲しいのだ。
イラストを描く側からすれば本末転倒の話だ。
お願いしたが最後、一生相手にされなくなったとしても、文句は言えない話だ。
2016年の5月。自分は、どんな失礼な話をしようと考えているのかと、それはもう、くよくよと悩んだ。
結局、私は自分が可愛い人間だった。
真っ直ぐお伝えする以外の答えを思いつかず、プレゼン資料を作成し、当たって砕けた際の心の準備を万全に、お時間をくださいとメールを送信した(私が中学二年生なら「ええい、ままよ!」と口にしていたことだろう)。
驚いたことに、すぐに、想像したどのパターンよりも好意的な返信があり、後日、お時間を頂戴することができた。
時間がないところを文字通り割いて打ち合わせの場にお越しいただいたJbstyleさんに、プレゼン資料をお見せした。
1ページめにがっつり書いた思いを、それはもう必死に説明した。
今、この時に、少しでも伝えたいのだ。
何故なら、後ろの方のページでは、誰に何を頼んでいるのかと笑われるべき馬鹿げた価格を提示している。
さて。
Jbstyleさんは、1ページめを読み終えると、プレゼン資料を閉じてしまった。
そして言った。
「わかりました。言い値で受けますよ。」
E ne deuk mas you.
正直に書く。
多分、最初の1秒程度。
日本語にすら聞こえなかった。
何を言っているのだこの人は。
この業界には「言い値」と呼ばれる隠語的な価格体が存在するのか?
自分がマイクロソフトやバンダイナムコ、Adobe Japanという大企業から名指しで発注を受けるアーティストだとわかっておられるのか?(お前が言うな)
慌てて、手元の資料ひっくり返し、ちょ!ちょ!ちょ!とドモりながらお願いしたい価格を書いたページを臆面もなくお見せした。
私はこんな無茶苦茶をお願いする気で時間を割いてくれとお願いしたのです。
なるほどと。それでも、やはり、わかりましたと言う。
一体なんだこの状況は?一体なんだこの人は?
さらに、私がやっと、ありがとうございますと頭を下げることができた時、重ねて言うのだ。
自分は、受けたい仕事を受けたい時に受けたいように受けるために、普段は大きい仕事が貰えるように頑張ってきたのだと。
そのままのセリフではないが、大意はそういうことだ。
打ち合わせの場に喫茶店を選んだのは大失敗だった。
もしも、金髪でハデな大男を前に、スーツでハゲのサラリーマンが泣いていたら、警察を呼ばれてしまうやもしれぬ。
そんな迷惑はかけられぬ。私は様々な手段でこれを耐えた。
いつか、私が身動きできぬほどに歳をとり、自分の名前が判らぬほどに呆けたとして、多分、あの瞬間は忘れない。