2021/07/16 18:00

7月8日に3年と少しの石巻生活を終え、地元である京都へ帰ってしまった美術家のミシオ。2018年、RAFをきっかけに石巻のキワマリ荘の二階部分に住み、「おやすみ帝国」と名付けたスペースを運営し、滞在制作を続けてきた彼は石巻で何を考え、これからどのような活動を行なっていくのだろうか。

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-ミシオさんが石巻に移住し始めてからどのくらい経ったか教えてください。

ミシオ 2018年の2月26日からです。今で、3年と4ヶ月くらいになりますね。

-石巻に引っ越してきた初期はだいぶ周りの人とのコミュニケーションなどに苦労したというお話を聞いていますが、今はだいぶコミュニケーションが取ったと伺いました。ミシオさんの実感としてはどうでしょうか。

ミシオ うーん。コミュニケーションは取りやすくなったかなと思います。もともと、人と話すのが苦手で、話すだけではなくて、電車に乗るとか、人がいるところも苦手でした。大学に行くときは、事前に電車に乗る練習とかもしていたくらいで…。練習しても、大学が始まったら汗だらだら流しながら、電車に乗って通学していました。

-今でも誰かと話す時など、極度に緊張してしまうことはありますか。

ミシオ 完全にはなくなってはないです。コミュニケーションもちゃんと取れるようになったかと言われると、自分的にはそうかなあ?という感じです…。

-改めて、ミシオさんが石巻に移住してきた経緯をお聞かせください。

ミシオ 2017年の夏に、大学を経済的な事情で辞めざるを得なくなってしまい…。その時に、ちょうど、僕が現代美術の道を目指すきっかけになった島袋道浩さんという美術家の方が「京都Re-Search」というアーティストインレジデンスを講師をしていたんです。「(島袋さんの公開プログラムに)行ったら何かが変わるかもしれない。」という気持ちがあり、僕はその公開プログラムの見学に行きました。実際その公開プログラムを見学して、島袋さんといろいろお話しすることができ、同時期に石巻で開催していた「Reborn-Art Festival2017」で展示されていた島袋さんの作品(砂浜の流木を起こす作品)が、台風でほとんど流されてしまったため、「もう一度流木を起こしに行くんだけど、手伝いに来ないか」というお誘いを受けることができました。そこで僕は初めて石巻に行くことになったんです。
石巻では島袋さんの作品の手伝いをしている時間以外に、1日自由に行動できる時間が確保できたため、展示を見て周りました。その時に展示会場になっていた「石巻のキワマリ荘」にも足を運びました。そこには展示作家の有馬かおるさんがいて、3時間くらいかな…自分の今までのこととかを話したりして、その中で僕が「大学を中退してしまったけれど、作家になりたい」と言ったら、有馬さんが「じゃあここに住めばいいじゃん!」と言ってくれて…そういう経緯で僕は2018年2月に石巻に移住し、キワマリ荘に住みながら本格的に作家活動をすることになりました。

-現在ミシオさんは美術家として、企画展に参加したり、キワマリ荘でアートスペースを運営し自分の個展などを行うなど作家活動を活発にしていらっしゃいますが、もともとアートに興味があって、美術の道に進んだのでしょうか。

ミシオ 自分はもともとは芸術にあまり親しみはなく、実際大学のAO入試で初めてデッサンの存在を知ったほどでした。大学に入ろうと思ったのも、高卒で就職するのが嫌だっていう動機があって…。高校時代、ドラムをやっていて「スタジオミュージシャンになりたい」とも思っていたのですが、コミュニケーション能力がなさすぎて、バンドも組めないし…だったら大学に行って絵を学んで、バンドとかのCDジャケットとかを描いて、少しでも音楽に関われたらいいなという気持ちがありましたね。実際、大学の同世代の子でもバンドのカメラマンをしていたり、他大学だけどバンドジャケット描いたりしている人が何人かいて、それに嫉妬しながら制作していました。

-大学に入って、同世代の人たちに影響を受けながら制作をしてきたと思いますが、具体的に美術家になりたいと考え始めたのはいつ頃でしたか。

ミシオ 大学を中退したタイミングで、作家になりたい、という気持ちが大きくなっていきました。大学を辞めることになってしまったけれど、同世代の人たちには負けたくない…!という気持ちもあったのかもしれません。
2019 Reborn Art Festival展示風景

-ミシオさんは石巻に移住してきて2年目の2019年にReborn-Art festivalに参加作家として「石巻のキワマリ荘」で展示を行いましたが、そのときは在廊しながらどのようなことをして過ごしていましたか。

※2019年のReborn-Art Festivalでミシオは「暮らす/路上のゴミに顔を描く」という作品で「石巻のキワマリ荘」の展示作家として参加。

ミシオ 在廊中は主に作品の説明を来場者にしていました。平常時のギャラリーの時よりたくさんの来場者の人がキワマリ荘に来たので、その人たちに作品の説明や、キワマリ荘の説明をしていましたね。その時に、自分や作品、ギャラリーの説明を何回もすることで一気に人とコミュニケーション取ることに慣れた気がします。説明するときのシミュレーションをしたり、「こういう風に説明したらもっとわかりやすいかな?」という例えの引き出しをたくさん作っておいて、お客さんが来た時にちゃんと話せるように自分なりに準備したりもしました。期間中は本当にいろんな人が来るので、嬉しいコメントをもらったりもしましたが、その反面ちょっと悲しいことを言われたりしたこともありました。でも、それで自分の感情のコントロールの仕方を学ぶことができました。


-ミシオさんの作風や制作する作品は石巻に来たことが影響して変化しましたか。


ミシオ 結構変化したと思いますね。石巻に引っ越してくる前の絵は結構勢いで描いていた部分があったのですが、有馬さんと絵の話をしている中で変化していきました。(有馬さんに)「描ける線の数を増やすと、それだけ絵のレパートリーが増えるよ」という話をされて、線のレパートリーを増やしたり…今までとは違う描きかたを模索していく中で、タッチが変わっていきました。京都にいる時は、自分の絵に対するコンプレックスが強くて、上手く描けなくて途中で描くのをやめてしまったりすることが多かったです。今も絵に対するコンプレックスは強いですが、人には見せられるようになりました。あと、美大ではもともと高校から美術系の高校だったり、アートに触れる環境にいた人が多くて、自分はそういう環境にはいなかったから、その人たちより美術に造詣が深くなくて…それがきっかけで作家や美術史について勉強しました。


-そのコンプレックスや周囲と自分がいる環境とのギャップみたいなものは作品にどのような形で反映されているのでしょうか。


ミシオ 「ゴミに顔を描く」っていうライフワークが特にそれを表現していると思います。あの作品自体は、続ける予定で制作していたわけではなく、大学在学中の最後の合評で出した作品でした。

-在学中は油画コースに所属していたと思いますが、コースとしてもそのような作品が受け入れられる雰囲気だったのでしょうか。


ミシオ いや、全然そんな雰囲気ではなく…。周りが絵を描いている中で、あの作品を出したので、むしろ僕自身としては「すべったな」と思いました。先生の反応も全然良くなかったし。でも、そのときは経済的にキャンバスや絵具を買うことができなくて、最終的には電車賃も払えなくなった時期でした。片道3時間近くかけて大学に自転車で通っていました。自転車で地元から大学がある左京区まで来る途中に、道端に落ちているたくさんのゴミを見て「このゴミはゴミ箱に捨てられて、廃棄されるっていうルートから外れたのかも」と思うようになったんです。僕はそれがうらやましくて…。


-ゴミがうらやましいというのは、どういう理由があってそう思うようになったのでしょうか。


ミシオ ゴミがうらやましいっていうか、その本来あるべきルートから外れた姿がうらやましいと思いました。その道端に外れたゴミの姿を、世の中の既存の仕組みやルートから抜け出すというイメージと重ね合わせて、この作品ができました。それは自分とお金持ちの人との違いや、自分ともともとアートに触れる機会があった人たちとの違いを肌で感じて、その差を超えていきたい、壁を取っ払いたい、それを乗り越えていきたい、という気持ちがあったからです。その後に、自分が元々住んでいた地域が、関西でいう「部落」と呼ばれている地域の側にあって割と治安が悪かったことを知りました。高校生の時に、家の近くのマンションにポスティングをしに行ったりしていたんですが、そこのマンションの中庭が荒れていて…その光景を思い出した時に、この庭がこの状態になっているのは、住んでいる人たちが選択してこうなっているわけではないんじゃないのかな、と思ったんです。治安が悪い地域で、経済的にも余裕のない暮らしをしていると選択肢が普通の人よりも少なかったり、そもそもどういう選択肢がこの世にあるのかを知らなかったりする人が多いと思います。僕はそういう境遇を表現したいと思っていて、選択肢が少なかったり、選べない選択肢があるルートから飛び出したい、とも思っています。


-本来あるべき道筋から外れる、とか飛び越えていくという意図は、「 路上のゴミに顔を描く」という作品以外でもそれはミシオさんの作品に現れていますか。


ミシオ 僕はドローイングの作品をレポート用紙の裏に描いて、わざとレポート用紙の本来使うべき面にある直線を透かしています。これは「人生の中での過去・現在だけでなく、未来もシミュレーションできて、言葉で記述できてしまうのではないか」という疑問から、そういったことの向こう側に行きたい、という気持ちでいたからです。制作のきっかけは、去年あたりから自分のルーツのことを知り始めている影響が大きいと思います。そういう自分のルーツに目を向けて作品を制作できるようになったのも、石巻に来たことで周囲の人から受けた影響が大きいです。僕が石巻に来て驚いたのは、ここに住む地域の人は自分たちの土地のことについてよく知っているし、それを他所から来た僕のような人に喋ることができることです。それで、自分は地元のこと全然知らないな、と感じ、地元について調べ始めました。そうして、自分のルーツを調べていく中で、「路上のゴミに顔を描く」やドローイングの作品群を制作をしていく理由を言葉にしていくことができたと思います。

2021/庭が背後霊

2021/2021年拳で抵抗

2021/落穂戻し

-ミシオさんは今まで石巻で美術家としてキワマリ荘で活動してきましたよね。京都に帰ってからもその活動は続けていくと思いますが、今後の展望をお聞かせください。


ミシオ 京都に行ったらまずバイトを探さないと…。活動を続けていくために、アトリエのようなスペースを持ってそこで制作を続けていきたいな、とは思っています。それは地元かもしれないし、地元じゃないかもしれないけど、できれば地元の近くで、制作しながら自分の生まれた土地についてもっと知りたいなと思います。作家活動を続けていくにあたって、そういうアートスペースみたいなものはあったほうが、自分は良いんじゃないかなって。キワマリ荘を出たら野良アーティストになるので笑

今年とか、来年とか、(作家の方などから)誘ってもらったりしてちょっとずつ展示の予定が決まったりしているんですが、正直な話それもすぐなくなるんじゃないかなって…。そういう不安があるから、早く自分の制作する場を持ちたい、という気持ちが強いです。30歳までに自分の制作の基盤を作らないと、作家活動も続けいけないんじゃないかなとも思っているので…。ただ、キワマリ荘にいる時にたくさん周りに迷惑かけてきたので、自分一人でアートスペースなんて始められるのかな…。


-ミシオさんには作家活動を続けて行って欲しいと思いますが、また石巻に帰ってきて欲しいなとも思います。滞在ではなくて、移住で…。


ミシオ その時はきっとボロボロになって帰ってくることになるんじゃないかな…笑 そうなって石巻に帰ってこないように、これから頑張ります!


(2021年7月6日 収録)text:山田はるひ


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美術家・ミシオ
1998年、京都府生まれ。宮城県石巻市在住。2017年、京都府の美大を中退。2018年、Reborn-Art Festival 2017をきっかけに石巻市へ移住。「石巻のキワマリ荘」にて、住居兼アトリエ兼ギャラリーの「おやすみ帝国」を立ち上げ、作家活動を行っている。日々、町を徘徊しながら路上に落ちているゴミに顔を描きんろで、「今見えている世界から目線をずらし別の場所へ脱出する」ことをテーマに制作をしている。