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石巻の街中にある3つのアートギャラリーで若手作家を中心とした企画展を開催したい!

宮城県石巻市の街中にある3つのギャラリーで石巻在住の若手作家を中心とした企画展「手つかずの庭」を開催します!震災以降、この土地で生まれた街へのイメージに縛られすぎずに、これからもここで活動していく作家たちが制作を続けていくための実験的な企画展示です。ぜひご支援・ご協力をお願いいたします!

現在の支援総額

822,800

117%

目標金額は700,000円

支援者数

78

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/30に募集を開始し、 78人の支援により 822,800円の資金を集め、 2021/08/12に募集を終了しました

エンタメ領域特化型クラファン

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現在の支援総額

822,800

117%達成

終了

目標金額700,000

支援者数78

このプロジェクトは、2021/06/30に募集を開始し、 78人の支援により 822,800円の資金を集め、 2021/08/12に募集を終了しました

宮城県石巻市の街中にある3つのギャラリーで石巻在住の若手作家を中心とした企画展「手つかずの庭」を開催します!震災以降、この土地で生まれた街へのイメージに縛られすぎずに、これからもここで活動していく作家たちが制作を続けていくための実験的な企画展示です。ぜひご支援・ご協力をお願いいたします!

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インタビュー の付いた活動報告

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東北大学の学生5人で構成されているアーティストグループ「キラーギロチン」個々で活動を行っているアーティストが多い中、2017年に森内・岩渕の2名で結成されたキラーギロチンはその後メンバーを5人に増やし、グループでの活動を一貫として続けてきた。仙台で2017年に結成され、石巻ではART DRUG CENTERで2020年よりその活動を続けている。「都市」や「人工物」にフィーチャーした作品を発表してきた。絵画や映像、パフォーマンスなどをメンバー間で情報や世界観を共有しながら制作してきたキラーギロチンは、今後どのような展開を見せていくのだろうか。そして、現在までの活動を通して、グループとして作品を制作し発表することについて、メンバーの代表である森内一生と、初期メンバーとして現在まで活動を続けてきた岩渕わか菜にインタビューした。--------------------------------キラーギロチンというグループ名を最初に聞いた時は結構衝撃的でした。ぜひその由来をお聞かせください。森内 zineが効いてきたね〜。今、キラーギロチンのzineを作っていて、そのzineに名前の経緯を書いたんですよね…。だからあまり話しちゃうと…笑簡単にいうと、僕が「ギロチン」っていうワードを出して、メンバーの岩渕が「キラー」というワードを出してきて、それを合体して「キラーギロチン」になった、というのが簡単な経緯ですね。ボツになった案とかもあって…。ボツになった案もあるんですね。森内 それは、zineの方で詳しくチェックしてみてください笑岩渕 いや、見せるほどでもないんですけど…ね。森内 見せるほどでもないか…。「蹂躙ボーイズ」と「ふわふわマカロンズ」と「ポメラニアン」と…「キラーギロチン」の4つの案がありました。「ポメラニアン」にならなくてよかったですね。岩渕 そうですね。でも、可愛いですけどね。最初は可愛い名前にしたかったんですよね。キラーギロチンの年表が収録されたZINE/現在行っている企画展で購入可能「キラーギロチン」は森内さんと岩渕さんの2人で結成されたと聞いたのですが、それはどういう理由で結成に至ったのでしょうか?森内 僕の大学でのサークル活動がひと段落ついた時期で、次何か始めようかなと思っていた時にキラーギロチンが結成されました。複数人で何か活動をしたいという気持ちがベースにあって、メンバーを探していたんですよね。その時はまだ、最終的にどのような活動をするかは考えていなくて…。新しいサークルに近いような、絵をかくコミュニティを作るとか、合作するとか…そういうことでも良いいなと思っていました。とりあえず複数人で何かしたいと思っていました。それで、当時暇そうに見えた、岩渕さんを誘ったんですよね。二人の関わりは当初、そんなに深いものではなかったのでしょうか。岩渕 そうですね。ただもともと、森内さんと私は大学の美術部に入っていました。特別交流があったわけではないかな…。私は美術部以外の別の部活にも入っていたんですよね。私は高校で絵を描いていて、絵を描くこと自体は好きだったんですけど、他の部活とかバイトでまとまって絵を描く時間をとることができなくなっていました。でも、絵は描きたいなと思っていて…その「絵を描きたい」という欲求だけが高まっていました。ある日、私が「段ボールに絵を描きたい」というツイートをしたら、それに森内さんが反応して、二人でそれをやってみよう、っていうのが「キラーギロチン」の活動の始まりです。森内 その時も別に同じ段ボールとかではなくて、それぞれで描いていましたね。岩渕 構内で適当に段ボール拾ってきて…スパイスの決め方/How to trip/New Layla Art Gallery(仙台)/2018そういう風にTwitter上で意気投合したっていう感じなんですね。今はキラーギロチン自体は何人で活動していますか?森内 今は5人で活動していますね。現メンバーになったのは結構最近ですか?森内 そうですね。結構最近かな。2人でやっていた時期の方が長いですか?森内 いや、二人でやっていたのは1年半くらいで、そこからメンバーが加入してからの方が長いですね。複数人で活動するというのは客観的に見ると大変なんじゃないかな、と思うのですが、5人でやる良さはどういうところにあると思いますか?森内 僕は2人でやっているときに、「(活動を)長く続けられるな。」と感じていました。それと同時に、二人で活動をするのは(出来ることに)限界があるなとも考えていました。絵以外にも何かやりたいなと思ってたので…メンバーが増えたことで絵以外の作品を作りやすくなりましたし、作品にならないとしても選択肢が増えました。メンバーが何人かいることで良かったことはそれですね。5人の中で役割は決まっているんでしょうか?森内 決まっていますね。結構ガチガチに決まっていて、僕が会議資料を作る係なんですけど、僕が「会議やります」って言わないと永遠に開かれない会議があるので…。岩渕が馬車馬のように働く係ですね。岩渕 肉体派です。森内 石津がムードメーカーです。岩間が話を聞かない係で、中谷が猫ちゃん大好き係ですね。みんな違ってみんないい、っていう感じですね。楽しそうですね。森内 オフィシャルにいうと、僕と岩渕が絵を描くことが多くて、石津がパフォーマンス寄のことをすることが多くて、中谷と岩間がその映像を撮ったり、写真を撮ったりしますね。中谷はキュレーションをしてくれていて、「キラーギロチン」っていう名称がつくもののキュレーションをしてくれていますね。役割分担大事ですよね。森内 僕は本当はあんまり役割分担したくなくて…。好きなことをしてくれるのが一番いいと思うから…。でもとりあえずこれが役割分担ですね。メンバーで様々な作品を作っていると思うのですが、作品のテーマは「キラーギロチン」として何か一貫したものがあるのでしょうか。それとも、その都度テーマは決めているんでしょうか。森内 ちょうど今がそれの転換期かなと思っているんですけど、今はやりたいことをやっている、という表現が近いですね。今までの作品は「都市」などをテーマにしたものが多いように思いますが、どうでしょうか。森内 そうですね。今までは都市とかにフィーチャーした作品を中心に制作していました。でもそれをやっているときでさえ「この縛りでやっていこう」という思いもなく…。今はこのテーマが一番親しみやすいから、それを選んでいたという感じですね。漠然と「人工物」という縛りとかから離れていく時期は来るだろうな、とは思っています。Absence of Awareness/ART DRUG CENTER/2020広瀬川が今の制作の中心だ、という話を今回の企画展に関連したラジオを開催したときにおっしゃっていたと思うのですが…森内 そうですね。今はたまたま「広瀬川」が巡り合わせとか時期とかの関係でテーマになっています。ただ、そのテーマへの思い入れっていうのは、僕にしかなくて、僕が「広瀬川で何かやらないと、大学にいた証が残せないわ!」という感じになっていました…。証ってほどでもないけど…。思い出の風景として共有できるみたいな話ですか。森内 いや、そんなドラマチックな話ではないですね笑 みんなにとって思い出の風景だからどう、ということではなくて。「僕はずっと広瀬川をみてきたけど、この川について何も知らないな」という動機の方が強いんですよね。生活の近くにはあるけど、広瀬川のことを全然知らなくて、歴史とか、どんな場所に位置している川なのかも知らないし、それを知りたいという好奇心がありました。近くにあるのに、全然知らなかった場所である広瀬川に可能性を感じて、リサーチというよりも、メンバーとちょっと遊んでみようよ、という気持ちがありました。グループとしては「森内が言ってるから、ちょっと遊んでみるか」というのもあっただろうし、広瀬川で身体を動かしているうちにどんどん川のことを知っていく、という事象が発生して、それがグループ全体としても次の興味になっていったんだと思います。その興味が作品に反映されているかな。「まだ知らないことを知りたい」という未知のものへの興味に向かっていく、身体を動かしてその場所について手探りだけど、何かをやってみるというのがキラーギロチンらしいな、と思いました。広瀬川での活動の様子石巻ではチームで活動している人がいないので、あまり何人かで作品を作るときに個々の体験を共有して作品を制作するに至るというのはとても楽しそうだし、良いですね。身体を動かして何かする、それを何人かで同じ時間を共有する、というのはグループで作品を作る際にはとても重要なんだろうなと森内さんの話を聞くと思いますね。森内 でも、石巻の人たちはすでにそういうことをやってると思いますよ。平野くんと釣りに行ったりするじゃないですか。それは作品を作る、ということに向かっているわけではないかもしれないけど、石巻のアーティストたちの色とか、場の雰囲気とかそういうことにはつながるんじゃないかな。確かに、複数人で作品を制作したり、意見を合致させるっていうのはとても難しくて。人はそれぞれ違うのに、作品のコンセプトなんて完全に合致するわけないんですよね。ART DRUG CENTERでキラギロギャラリーを運営する時は、どうやったらみんなの意見がスマートにまとまっていくかということを意識していました。情報共有や、世界観の共有をして…そこでどのように作品にうまくまとまるかを意識することが多かったです。ただ、最近はそうではないなと考えています。それは広瀬川でのフィールドワークを通して、みんなが「面白い」と思ったことを拾っていく方が健康的だなと感じたからですね。まあ、このインタビューで僕が話したことをメンバーに見られちゃうと、それをメンバーが意識しすぎてあまり良くないかなとも思いますけどね…あくまでメンバーには自然体でいて欲しいので。企画展「手つかずの庭」/Hello! Hirosegawa/2021/キラーギロチンは仙台で活動をしていたと思うのですが、どのようにして石巻でのART DRUG CENTERでの活動につながっていくのでしょうか。森内 一応、2019年のReborn-Art Festivalを見に来ていて、そこでミシオくんにも会ったし、パルコさんにも会いました。そこで石巻にもこういうギャラリーがあるんだな、という認識が生まれました。ART DRUG CENTERで有馬さんに会った時に…この説明は他のART DRUG CENTERに入っている作家の方も似たようなきっかけなので、端折るんですけど有馬さんが「ここのスペース空いてるよ。君たちなんかやってるらしいね、今度ポートフォリオ持ってきてよ」という流れになって、じゃあポートフォリオ作るか〜となり…後日ポートフォリオを持ち込んで、有馬さんにそれを見てもらって…入ることになりましたね。割とすんなりギャラリーを借りることになったんですね。森内 あんまり疑いはなかったからかな…いや、あったかもしれないですけど…。でも仙台でギャラリーや活動できるようなスペースを借りると家賃が高いし、仙台にいて何もしないよりはいいかなと思いました。何年にART DRUG CENTERでスペースを借り始めたのでしょうか?森内 ずっと2019年だと思っていたんですけど、この間グループの年表を作っていて、2020年だったことに気付きました。2020年にART DRUG CENTERでスペースを借り始めましたね。ART DRUG CENTERは他の2つのギャラリーよりスペースを共有している人が多いと思うのですが、そのように他のアーティストの方もいらっしゃるところでスペースを借りて展示をしていくということをとおして他のアーティストの方から影響をうける、ということはありましたか?岩渕 直接、私たちの作品に他のスペースを借りているアーティストの人の影響が現れるというようなことはなかったと思いますね。森内 そうですね。岩渕 ギャラリーを運営していくということはどういうことか、を学ぶことはあったと思います。森内 あとは、守さんに石巻の街中を案内してもらって飲みに行ったりとか、有馬さんに映画借りたり、とかはありましたね。そもそもスタートラインが他のアーティストの人と僕たちでは違うので。始めた時は、僕たちの作品は展示するほどのものではなかったと思うんですよね。他のアーティストの人たちと比べると、土台がなかったと思います。僕はグループをどう長く続けていくか、ギャラリーをどう運営していくか、ということの試行錯誤の連続でした。作品の作り方や、展示の仕方を、というよりはグループについて考えることが多かったですね。一つの展示をするときに、グループでどういう手順を踏んで作品を展示するか、ということについて考えていました。これはグループの人数が増えたり、スペースを借りてできることが多くなった反動もあったと思います。方法論的なことばっかり考えていた時期でもありました。しかも、メンバーのほとんどが学生で仙台在住で、時間もある中で展示の一つや二つやっていけないようではダメだろうという思いもあり、ここでグループを長く続けられるリズムをつかみたいなと考えていましたね。印象に残っているアドバイスとかも、何個かありますが…。有馬さんは具体的に示す、というよりは、僕たちが考える余地を残してアドバイスをくれることが多かった気がしますね。有馬さんが言っていることをどうすれば、自分たちのグループを続けていくことに反映できるのかな、と考えていました。キラーギロチンは展示の回数も多かったと思います。私が石巻にきて最初にみた「エッジズ・エフェクツ」でした。その時に美大の人ではないんだ、と同時に、美大出身じゃないのにこんなしっかりコンセプト固めてそれに答える作品を作っているのはすごいな、と素直に感動しました。キラーギロチンはグループでやっているからこその良さ、が感じられる展示をいつも見せてくれるなと思います。石巻の作家たちは個々で基本的に活動している人が多いので、グループで作品の展示をしている人がいるのは新鮮だなと思いますね。メンバーがいることによって意見の交換とかも行われるから作品の精度も上げられるんでしょうか。森内 最初は、意見交換をしあってより良い方向に向かわせようと思っていました。でも「ディファイ」の展示の時に「正しい」「正しくない」ということをやっているわけではないし、そもそも違う意見をまとめようと思うことが間違いで、一番よくないのは折衷案にしてしまうのがよくないのではないかと思いました。解釈は違えど、全員が前向きになる3つ目の案を出すのが良いなと。意見が衝突した時は、個展を2回やる。という考えが1つと、それを全て流して、全員が楽しいと思うこと、やりがいがある有意義なことを作品にしようよ、と思いました。作品を作ることに対して前向きになれるような案。それが出るまで粘る、という感じです。そういう試行錯誤も、ART DRUG CENTERでしどろもどろしたおかげだと思いますね。エッジズ・エフェクツ/2020メンバーの全員が進学や就職で進路が分かれたかと思いますが、キラーギロチンのこれからの活動の展望など、今のところありますか森内 ART DRUG CENTERで活動している時に考えたことなんですけど、メンバーがバラバラになった時にどういう形態になるかについては…活動は続けていくことには続けていきますね。続けていくつもりだし、ペースは落ちるかもしれないけど、間がすごく開くっていうことはないんじゃないかな。メンバー間の連絡は密にとっているし。今回の展示は広瀬川っていうモチーフが、たまたま巡り合わせで見つかったことで制作が進んだので、今後もメンバー全員が「やってみたいな」というものが見つかり次第、制作が進むと思います。でもこの質問の難しいところは、みんなが楽しいって思うことがもしかしたら、アートとかではないかもしれないところですね。でも、体感としては一年とか、半年以内に何かは起きるんじゃないかなとは思いますね。面白い物事は転がりまくってるし、それをそれぞれがみつけ次第。ノープランだけど、前向きノープランですね。ただ、ART DRUG CENTERでしどろもどろしたおかげで活動を続けていく土台ができたなとは思います。普通だったら、メンバーが各地に飛んでしまったら空中分解してしまうんじゃないかな、と思ってしまいますよね。森内 そうですね。その空中分解しない土台を作れましたね。弱かった地盤が、今はバチっと固まってきているので。まあ、空中分解されたら困りますね…また僕が一からメンバーを集めないといけないですし笑メンバーはみんな就職や進学をして、その傍で活動を続けていくのでしょうか?それともいつか、アートの活動の方が比重が重くなってアーティストになる、ということも考えられるんでしょうか。森内 (仕事を辞めるという事は)ないですね。僕はそれをしたくなくて。それができたらかっこいいな、と大学2、3年の時は思ってましたが、僕が大学で専攻している地盤工学が最近やっと好きになって、今度はそれを社会に生かせるようになるわけで。その下積みってアート活動をやっている時間より長いんですよね。やっと大学院でやるべき学問が決まって選んだ道なので、その道を捨てることはないし、それを捨ててしまったらアート活動も続けられなくなると思いますね。岩渕 私は実際にアートを生活の軸に置いている人がどういう感じか分からないのですが、自分はアートと日常生活は別物という認識なので、そこが一緒になることはないですね。アートを生活の軸に置く覚悟もないですし…。アーティスト一本で生活していくと、やはりサラリーマンと同様の暮らしをすぐに実現するのは難しいかもしれませんね。毎月決まった額を稼げる、という職業ではありませんし。ただそういう逼迫(ひっぱく)した状態が続くほど研ぎ澄まされていく、という人もいるとは思います。森内 僕たちはお酒飲んで、うまい飯を食べている時が一番研ぎ澄まされているので。研ぎ澄まし方で言うと。明るい気持ちで制作しているんですね森内 僕たちは明るくて真面目な人です笑 学校と先生が必要です。岩渕 いい子です。そういう真面目さって、大人になっていくたびになくなっていくじゃないですか。キラーギロチンのメンバーに会って、特に私が交流があったのは森内さんと岩渕さんですが、こんな真面目で明るい人たちがいるんだ…と思いましたね笑森内 僕たちがやっている悪いことなんて「単位落としそうだヤベー」くらいなんですよ。まあ、安定志向なんだろうなとは思いますね。今まで、アーティストの人たちに触れていて、あまり出会ったことのないあり方だな、と思いますね。そんな二人はいつから美術に興味をもち始めたのでしょうか?岩渕 私は高校で美術部に入って、そこから興味を持ち始めました。大学でも美術を続けたいな、と思って、大学になってからも部活に入って絵を描いていました。森内 僕は、高校二年生の時に授業で初めて絵具を触って…そこからですね。それで大学でも美術部に入ろうと思っていました。岩渕の高校の時の美術部の顧問の鈴木先生という方がいるんですけど、その人は大学の部活の展覧会とかにきてくださっていて、僕も知り合いなんですが…その人と深く知り合うようになって、絵を見せに行って…褒められて。褒められ教育ですね森内 鈴木先生に絵を見せて褒められて…「よっしゃー」って思っていました。前向きな気持ちで絵を描き続けるモチベーションはその先生からきているのかもしれないですね。森内 どうだろ…岩渕はそうかもしれないですね。岩渕 絵を描くベースになったのは、高校の時の活動があったからかなとは思いますね…。どうなんだろ、みんな絵を描いて負の感情になったりするんですかね…?絵描くのやめたら、とか厳しいことをいう先生もたまにいますね笑岩渕 …厳しいな…。森内 僕たちはそこまでやってないからかもしれないですね。鈴木先生に見せるのは楽しみでした。楽しいから描くっていうよりは、描いた後に先生に見てもらうのが楽しみだった。先生のボキャブラリーは「すごい」しかないんですけど、興奮度は違うから笑文字にするとバチっと言ってきますけどね。岩渕 やったことに対して気づいてくれますよね。森内 そう。意図とかを汲む力が違うし、学生の絵画を見ている機会が多いから、ということもあると思うんですけど。僕は先生にあんまり技術的なことを教わったわけではないですね。あんまり教わりたくないっていうのはありましたが。石巻の展示なども鈴木先生は見にきてくれたりしましたか。森内 ありましたね。ぜひ見てもらいたいです、って招待して…。でもその時先生の反応が微妙で「もっと頑張れるな」と思いましたね笑 そういう師匠がいますね。いい先生ですね。キラーギロチンの制作の良いモチベーションになっているかもしれないですね。森内 そうですね〜。明るく前向きに活動していければ、と思います。(2021年8月6日 収録) text:山田はるひ--------------------------------キラーギロチン東北大学内で結成。2017年、森内・岩渕で活動を開始。2019年、石津・ナカヤが加入。2020年に岩間が加入し現在の体制となる。宮城県仙台市を拠点に活動中。2020年3月よりART DRUG CENTER(石巻)内のキラギロギャラリーを運営。月一回ペースで個展を行う。人間活動と自然環境の関係性に着目し、誰からも見られていない何かを眼前に差し出す作品を制作する。メンバー森内一生岩渕わか菜石津光ナカヤケイスケ岩間智紀キラーギロチンwebサイトキラーギロチンtwitter


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震災を機に石巻にUターンをし、自身の彫刻作品を中心とした制作を続けてきた彫刻家・ちばふみ枝。窓、カーテン、扉、壁、階段などのモチーフに、記憶の中の風景を組み合わせた造形を特徴とするその作品群は、鑑賞するたび自身の記憶とも接続されていく。「石巻のキワマリ荘」のメンバーとして活動しながら、東京・東北を中心に展示も開催。最近は被災した家を記録した写真作品も発表している。彼女の記憶の中の風景を組み合わせた独特の彫刻作品は、どのようにして生まれたのだろうか。--------------------------------2012 年 個展「くすんだベール」展示風景/日和アートセンター -ちばさんの作品は一貫したモチーフがあるように思えるのですが、このような作風になったのにはどのような経緯があったのでしょうか。ちば 学生時代から大学院までの時間で自分の作りたいものやどうやって作るのかなどの方向性は試行錯誤していました。レリーフを彫るみたいな作り方は大学院の修了展の時にやりはじめたものです。-大学時代はどのような作品を作っていたのでしょうか?ちば 家の中にあるものや日常的に触れるものがモチーフになることが多かったです。人間ではなくて、室内の柱とか壁とかふすまとかがモチーフなのは今と通じていて。それは彫るのではなくて、実際にふすまの紙を買ってきたり、柱も角材を買ってきて柱みたいに色を塗ったりとか。あとは、家の中で目にするもので、例えばジャンプ(週刊少年雑誌)とか使ったりもしたこともありました、断面とかを嵌め込んで使ったり…。柱にフックをかけたり、お盆を窓みたいに貼ったりとか、モルタルを塗り込んだりして形を作るっていう作品を制作したり…。テラコッタ課題作品/大学時代 -普段目に写るものがモチーフになっていることが多いんですね。ちば これは大学一年生の時の作品ですね。テラコッタを使った課題で、和式のトイレを型取りして作りました。この時から結構今の作品につながっていて。トイレって壁を隔てて、昔のだと扉も低くて上からのぞけて、下からも見えるって言うそんな薄い壁を隔ててみんなあられもない姿になっていると思うととても気になって…。石膏どりの課題で人体も制作しました。でもめっちゃ疲れているモデルさんのときがあって…。「えー」って思いながら作ってたんですよね。全然面白さを見つけられなくて、その時に「もう人体は作れないな」って思ったんですよね。何も引き出せないな、という風に感じました。それで、3年になってからはちょっとサブカル寄りっぽい感じになっていきました。和風なことに興味があって、そういう作品を作っていたり…。これも今の作品の組み立てに似ているんですよね。2003年/《記憶に在る家》ちば 4年は若干今の作風に近づいていますね。この作品は卒展のときの作品ですが、パタンパタンと閉じられるようになっています。-組み立てはだいぶ今の作品につながっていますね。家の一部が切り取られたみたいになっていますね。大学の時から今のちばさんの作品に通ずる雰囲気を感じますね…!課題以外の作品は今の作風と近いものが多いですよね。ちば 結構今に通じる作品が多いですね。修了展の時にはけっこう悩んでしまって、最後の方まで制作に取り掛かれなくて。これが初めて彫った作品です。勉強したことを生かそう、 っていうのが今までの作品だったのですが、実はこの作品にはモデルがいて…舞台に立っている子がモデルなんですが「その子がいる場所を作りたい」っていう気持ちと、その子に対するステージとか憧れとか、そういうのも含めて、自分のごく個人的な内面の部分と創作が結びつけられないかと思って。それで客観的にその子がいる場所を作ってみようと思ったんですよね。2006年/《彼女のつづく》-このモデルさんはどんな方なのでしょうか。ちば これは私のアイドル笑この子は、演劇の舞台とかライブとか歌とか、あとストリップの踊り子だったの。だからちょっとステージっぽい感じの作品になっていて、家着、外着、舞台の衣装をきた彼女がいるんです。-結構意外でした。ちばさんはあまりサブカルとかアイドルとかに興味があると思っていなかったので…。ちば 永遠のアイドルで…。ストリップとか一人で見に行ったりしていたんですよね。-しっかり応援していますね。ちば その子がいると怖くない、みたいな。ライブとかも、知名度があんまりなかったから、適当なブッキングをされることもあったりして、他のバンドは全然知らない人だけど、果敢に見に行って…。その子がいると最強だなって思っていたので。-それは東京時代ですか?院を卒業して…ちば そうですね。25歳くらいまで、うろうろしていて大学院卒業した後に、大学で教務補助の仕事をやっていて、週に 3,4 回出勤して、夏休みもあって…という2年契約のパートをしていました。だから大学に場所があるっていう感じでしたね。他のバイトも掛け持ちしつつ、アトリエも借りて制作を続けていて。その任期が終わってからは、他のバイト探して家兼アトリエを借りて制作を続けて行っていた時に震災が起こって…。-震災前にすでに「美術を生業にして食べていこう」という気持ちが強かったということでしょうか。ちば 何も考えていなくて…。親が許してくれる限り、好きなことをやっていて…。「美大行きたいんだったらいいよ!」っていう風に親が応援してくれたこともあって、院に行く時も「いいよ」っていう感じだったので、そのまま好きな制作を続けていましたね。震災前は石巻に帰ったとしても、制作をやっていくっていうイメージが全然湧かなくて…。-震災後、宮城にはいつ頃帰ってきたのでしょう。ちば 2011年の9月に宮城に帰ってきました。でも、石巻に最初から帰ってきていたわけではなくて、親が仮設住宅ではなくて仙台の方に家を借りたんですよね。親が会社を経営していてそこも被災したんだけど仕事を再開したいという意思があったので、私も帰ったら働かせてもらって、片付けも引き続きやろうと思いました。その時は本当に「家の仕事や片付けもあるし」という気持ちで、いったん制作するという自分の活動がお休みになっても仕方ないな、と思っていました。むしろその時に、制作することは一生続けられる、って思ったんですよね。それまでは年齢も年齢だったし、20代後半に差し掛かって、「どうするんだ、自分」という焦りもあり「このまま何にもなっていないまま制作を続けていくの?」と思いつつ、かといって、自分がどのように生活を安定させていけるかっていうのもあまりピンときていなくて…。震災があったことで、地元に帰る流れは当然のことという感じで受け入れられたし、家の片付けもしたいし、じゃあ仕事もやろうっていう気持ちになって。制作は別にやめないし、いったんお休みっていう期間があってもいいじゃん、という吹っ切れたような気持ちで帰ってきました。それで、次の年から通いで石巻の仕事をはじめました。-会社にはどのくらいの期間勤めていらっしゃいましたか。ちば 8年くらい。普通に働いていました。震災後の期間は、細々と制作をしているだけでアートシーンについてはすっぽり抜け落ちています。-自分の制作は続けているけれども、それまでよりは制作活動を中心に生活していくという感じではなくなったということですかね。ちば そうですね。だからインプットがほぼないような状態で、あっても自分が好きで見に行きやすい東京の展示をたまに見にいく、ということはありましたが…。積極的にいろんな本読んだりとか、情報を集めたりっていうのはしていなくて、2010年代はぽっかり空いている感じですね。-石巻のキワマリ荘との交流はいつ頃始まりましたか。ちば 2019年のReborn-Art festivalに参加したのですが、その前に「石巻のキワマリ荘」では個展をしました。そもそも中崎透さん※1が、私の大学の先輩で…。透さんが「日和アートセンター」も紹介してくれて…透さんには頭が上がらないというか、足をむけて眠れません笑透さんが仙台のメディアテークの企画に参加していて、連絡をくれたりしていて、「日和アートセンター」を(透さんの)知り合いが立ち上げるから遊びに行ってねーっていう感じでオープンの日も教えてくれて。なんか半信半疑でした。現代アートのレジデンス施設が石巻にできるっていうこと自体が。日和アートセンターオープニングレセプション風景 -「日和アートセンター」※2は現代アートのギャラリー兼レジデンス施設として存在していましたよね。ちば 2012年に私が仕事を始めてちょっとした時にそういう連絡が来て、オープンに行ってみたらすごく賑わっていて…。いろんな作家の人が展示していたんですけど、その展示していた作家の一人が、私が大学入試の時に通っていた予備校で一緒だった女の子がいたんですよね。大学は別々で、久しぶりに会って楽しくなって。黄金町※3の皆さんともその時につながりも出来ました。これからギャラリーをやっていく、という時に私が地元の作家として紹介されたりして、日和アートセンターを運営していた立石さんとも仲良くなりました。後々だけど、会社以外に通える場所がすごく自分にとって大きくて、それがあったから自分も制作を細々とでも続けていこう、関わっていこうと思えることができたと思います。ギリギリのところをつないでくれたっていうか。-アーティストにとっては展示できる場所が自分が住んでいる場所の近くにある、と思うと制作続けようかなと思いますよね。ちば 実際自分がすぐ展示しなくても、そういう関われる人がいるとか、環境があるってすごい違うなって思いました。2012年に仙台で二人展をしたんですよね。大学院で一緒だった広島に住んでいる團良子さん※4という作家がいるのですが、彼女が「東京時代に同じ職場だった方が仙台でギャラリーをやっているので、個展をしませんか?という話があるので仙台行くかも!」という連絡をくれて、私は「来て来て〜」っていう感じだったんですが、その後、團さんから「個展だと心細いから、ちばちゃんもやろうよ!」という話をもらって。ちょうど私が仙台に住んでいた時期とかぶっていたので、遊びに行く気は満々だったのですが、えーっ!と思って、制作する場所もないし、生活もあまり整っていないし…無理でしょ!と思って一回断ったんですよね。それが2011年の年末とかの話で。でもちょっとしてから、「やっぱやりたい!」という気持ちが育ってきて…家の片付けもちょっと落ち着いてきて、鍵も閉められるし、電気も通ってるし、水も流れるぞ、っていう風になったんですよね。部屋を片付けたら制作するスペースできるかもと思って、せっせと片付けをやり始めたんですよね。2012年の3月くらいに、1年の振り返り、みたいな感じでいろいろ考えるようになって…その時に「展示やっぱりやる!」という気持ちになりました。それで、團さんに「制作場所も整えたし、展示がやれるイメージが出来ました。」という連絡をして二人展をチフリグリ※5という仙台のギャラリーで開催しました。そのギャラリーのオーナーの方とも、同世代の女性だったのですが、仲良くなれて、すごく楽しくて…そういうスペースがあるということにも励まされましたね。2012年 /團良子・ちばふみ枝 二人展「バックトゥザフューチャー」/ギャラリーチフリグリ2012年/《星の砂》-同世代の女性がいる、ってなるとやりやすいですしね。ちば そう。そこから数年会社勤めをするんだけど、チフリグリのオーナーの佳代ちゃんにもすごい助けられました。グループ展をやる時にも声をかけてもらったりして、小作品を制作して展示していただいたり…。それが細々とあるから、なんとか「やっています」っていう気持ちに自分もなるし、人にも言えるし…。すごくありがたかったですね。-ちばさんは海外でも展示していますが、それも誰かとの繋がりで紹介されたっていう感じだったんでしょうか。ちば そうですね。企画者の高田彩さんと繋がったのは、塩釜にムサ美彫刻の 1 年下の子がいて、仙台出身だったんだけど塩釜のビルド・フルーガス※6 に関わっていて、それをきっかけにビルドの彩さんに紹介されて出展しました。ニュージーランドのクライストチャーチという地域で2011年2月22日に地震があって、被害も大きかった地域だったので「交流してアーティスト同士繋がって何かやりましょう。」という企画が立ち上がっていました。それに私は参加作家として呼んでいただきました。最初は、仙台のメディアテークでクライストチャーチの作家さんが展示してオンラインで繋がるイベントがあって、今度はこっちの作家がクライストチャーチで展示するという流れで…。作品だけ預けてもよかったんだけど、私は「あれ?行きたい!」となって、実際に現地に向かいました。 2013年/「Shared Lines」展示風景/カンタベリーミュージアム-ちばさんは興味関心に素直に行動することが多いですか。ちば 気持ちがそっちに向く、とか向かないとかあるじゃないですか。見極める時間もあると思うんですけど、その時は「有給こういう時に使うのか?」と思いながら、仕事も調整して行きましたね。-そう言われると、現実的ですね…。ちば 震災後だから、いろんな動きがあってたまたま縁があったから乗っかれたっていうのはありましたね。-仙台と石巻と美術的な繋がりができて、そこから石巻のキワマリ荘加入まで繋がっていくんですね。ちば そうですね。今後も制作を続けていきたい、っていう気持ちもあったし…。日和アートセンターに関わっていた時に思ったのですが、いろんな作家さんが他県から来て、出会えることがすごくいいなと思っていて…。日和アートセンターは irori の隣だったから、施設には関係ない街で活躍している人とも知り合いになれたりしましたね。もちろん地元の人たちとも出会えて。そういうのが楽しかったですね。単純に友達もできました。-日和アートセンターはアートと地域を接続する中間的な立ち位置の施設でよかったな。と思いますね。ちば 日和アートセンターは私が街なかに関わるとか、街に遊びに行くっていう意識が芽生えた場所でしたね。なにもなかったら、田舎だから引きこもってしまうし…。たまに東京から友達が戻ってきたらご飯食べに行ったりするくらいで。でも、通う場所が街にできたのがすごく大きくて、それがあったからだいぶ生活も変わったなと思いますね。自分の中でコミュニティを持てるというか。透さんの話に戻るんだけど、Reborn-Art Festivalっていう現代アートのイベントがあることも透さんが教えてくれて。それも結構半信半疑で。笑そんな大きな話が進んでるの!?みたいな。2012年/個展「くすんだベール」展示風景/日和アートセンター -今までそんな大きい現代アートのイベント的なものはありませんでしたよね。ちば そうですね。それで透さんが、「有馬さんが石巻引っ越したから会ってみて」という話をされて。そこで水戸のキワマリ荘の皆さんもいらっしゃるからその時に一緒に会おう、っていう風になり…。有馬さんは00年代の知っている作家さんだったので、実際に会った時に「あ、有馬さん…!?」っていう感じになったんですよね。水戸で有馬さんの作品を拝見したことがあったのですが、一体どんな人なんだろう?と思っていて。新聞紙のドローイングの作品は衝撃的でした。雑誌で犬山のキワマリ荘での活動を知って、そういうコミュニティを作れる人がいるのっていいなあと思ってた作家さんだったんですよね。実際に会ったら社交的だし、普通にコミュニケーションも取れて、水戸のキワマリ荘の人たちも楽しい人たちばっかりで…。(有馬さんと出会った時)まだ有馬さんは引っ越してきたばかりだったので「このスペースをやる上でとにかく人脈がないから、いろいろ知りたいんだ」っていうので、かたっぱしから人を見つけたり、紹介してもらった人にたくさん会っている時期で、それで私も有馬さんと会って…、「こういう場所にしたい」っていう話を有馬さんから聞いて、各部屋ずつ運営者を募りたいという話だったのですが、私も仕事をしていたから余裕がないな、と思ってすぐに借りますとはなりませんでした。でも、今後関わっていきますねということで、関係が続きましたね。Reborn-Art Festivalが終わった後に「じゃあ地元の人たちで独自の運営を続けていこう」という流れになり、最初の個展を「GALVANIZE gallery※7で開催するからちばさんやれない?」っていうお誘いを受けて、GALVANIZE galleryでの最初の個展を私が開催することになりました。2017年/「serendipity」展示風景/ガルバナイズギャラリー 2017 年/《これから》-ではGALVANIZE galleryでの1回目の個展がちばさんだったんですね。正式なメンバーになったのはいつからですか。ちば 多分、2019年が終わった時かな。Reborn-Art Festivalに出るために、その時は借りていなかったのですが、アーティストとして有馬さんが呼んでくれたので、みんなでスペースをどう使うか、という話し合いにも参加するようになりました。実際に展示した後に、メンバーが何人か抜けて、スペースが空いてしまうことになったので「私が空いたスペースに入ります」という話になったんですよね。2019年のReborn-Art Festivalの時にたくさんお客さんが来てくれて…。私、それでとても新鮮な気持ちになったんですよね。こうやって人が認知してくれたのに、(スペースが空いたら)もったいないなと思っていて、継続していく場所だから、こうやって何かで知ってくれた人が継続してきてくれたらいいなという気持ちもありましたし、積極的に地元の人にも認知してもらえる場所になったらいいな、石巻で現代アートが見れる場所として育っていけばいいな、と思う気持ちもありました。何人かメンバーが抜けると、キワマリ荘に足を運んできてくれた人たちが見れるものが減るわけじゃないですか。その時、有馬さんが「仙台から来るのにも往復1800円くらいかかるから、ギャラリーの入場料は無料だけれど、それだけかけてきてくれた人たちにそれだけの価値を持って帰ってもらわないといけない。」という話をしていて。その時は、この一拠点しかないし、だったらせめて各部屋埋まっていた方が「見た」っていう気持ちになるし、コンテンツが一つでも多くあった方がいいな、と私自身も思っていたので石巻のキワマリ荘に加入して、2020年の1月から「mado-beya」というスペースをオープンすることになりました。「mado-beya」 入口 -割と最近ですよね。石巻のキワマリ荘自体もオープンしてからあまり時間が経過していないですよね。ちば Reborn-Art Festival2019の前とかは、山形芸術界隈※8の人たちの展示を楽しみにキワマリ荘に来ていて…。-あの借り方すごくよかったですよね。いつ行っても何か見るものがあるっていうのは見ている側からは楽しいなと思いますね。東北はあまり県同士を跨いでアーティストの交流をするっていう機会があまりないと思うので、そういう意味でもすごくよかったですよね。ちば やっぱりその時に交流もできて、みんなそれぞれ活動している人たちだけど、ここで出会えた縁っていうのが今後も緩やかに繋がっていけばいいなと思います。-ここで、もう一度ちばさんの作品の話に戻りたいと思うのですが、ちばさんの作風はなぜこのような作風にたどり着いたのか…彫刻で人体を制作できないなと思ったという話についても詳しくお聞かせいただけますか。ちば 彫刻だと基本が、最初人体から始まることが多いのですが、でも人間って目の前のこの「人」が全て完成していて、この人は自ら動いて、自らを更新していて、それが完成形だから作る私は手出しできないし、その人を象る、っていう風にしか考えられなくなってしまって。だとしたら、その人はそれで完璧だから、その人と関わるとしたら関係性かな、と思ったんですよね。だから「人」がいる場所を作りたいなっていう気持ちが最初ありました。-その人はいないけど、その人がいたら完成する場所ということでしょうか。ちば そうですね。「人」っていうのは私の想像の世界の「人」なんですけど、場所だったら、私もそこに入れるし、その「人」もきっと来てくれるんじゃないかなと思っています。人間って、体は生身だし、想像や観念の話だけでは完結しないと思っていて、生身の自分の体があった上で、その「人」と関わりたいっていう気持ちが強くて。だから、現実の「場所」を作りたいと思いました。想像上の対象物、例えばぬいぐるみとか家族とか、アイドルっていう対象物と関係する場所やそれを想起する場所をモチーフに選んでいます。家族だったら部屋とか、アイドルだったらステージとか楽屋とか。-最近はおばあちゃんの家を掃除して、そこにあるものの写真を作品にしていますが、彫刻から離れたのは何か理由があったのでしょうか。ちば 記録的な意味もあるんですが、私は物が捨てられなくて…。感情移入してしまうんですね。だからぬいぐるみとか、おもちゃに命が宿るっていう話とか見られなくて、ただでさえ捨てられないのに、ぬいぐるみとかが意思を持っているなんて…っていうことが恐怖でしかなくて。そういうのが、お菓子の箱とかに対してもそういう気持ちがあるんですけど、最近は頑張って捨てるようにしているんですが…そういう性質があるので…。家の片付けをする時に、明かに被災した畳とかピアノとかはボランティアさんが来てくれた時に「捨てちゃえー」という感じで捨てたりしていた時もあったんですけど、家はヘドロとかにまみれたわけではなくて、綺麗な海水に浸かって、部屋の中をかき回して、さーっと引いていった感じなんですよね。だからカビとか匂いとかも最初気にならなくて、綺麗なままで、服とかもちょっと砂がついているけどただの濡れた服みたいに見えていたので干していたりしていたんですよね。兄がいるんですけど、兄が濡れた服とかを干して置いちゃったんですよね、捨てるものだとはきっと思えなかったんだと思うんです。おばあちゃんは一階にお部屋があって、おばあちゃんも捨てられない人だったので、部屋に物がギチギチにあったんです。服もなんでこんなにあるんだろう、っていうくらいあって…。捨てずに服とかを干したあと、衣装ケースとか段ボールにまたいれてしまったんですよ。そういう物もあるし、飾り物とかも捨てずにテーブルとかに乗っけたり…だからそもそもテーブルも捨てていないんですよね笑元の場所に戻すっていう感覚で、でもさすがにちょっといらないだろうっていうものもたくさんあるし…そういうことを考えるとキリがないし、混乱してしまうし。だからせめて捨てやすくするために一旦、写真を撮って、そしたら後々捨ててもいいかな、っていう気持ちになるかな。と思って写真を撮り始めました。2021年/《untitled (SALAD OIL)》2021年/untitled シリーズ展示風景/mado-beya 「mado-beya」の企画は3ヶ月ごとに考えているんですけど、年間の予定を考えていてなんとなくzineの展示ができそうだなと思っていたときに奥堀さんが詩を書いているし、zine作ろうっていう声がけを前からしていたんですけど、そうなったときにミシオくんもzineを出しているし、平野くんもzine作ってるみたいだから声かけよう、ってなった流れで自分も撮っている写真をzineにしたらいいかなと考えてzineの展示をしたんですよね。その時に、作品としてもみれる写真だよっていう風に見に来てくれた人が言ってくれたんですよね。まだ自分の彫刻と写真の作品がつながるところまでは完全には行ってないんですが、写真はzineの展示の時に「写真は写真だけで展示できたらいいかもな」くらいに思っていたんです。やっぱり「mado-beya」っていうスペースがあるのが大きくて、ある時、展示してほしいなと思っていた人が展示できないかも、となった時に「自分の写真出してみよう」となって写真の展示をやってみたんですよね。これから自分の写真と思考が結びつくのか、どうなのか…っていうところなんだけど、今年の 5 月に盛岡の cyg アートギャラリーで展示した家をテーマにした彫刻作品とつながるところもあって…。この「手つかずの庭」の企画展とほぼ同時期にプロジェクト FUKUSHIMA!での展示も始まるんですが、それも中崎透さんに呼んでいただいて…自分がcygアートギャラリーで出していた「くすんだベール」という彫刻の作品と「くすんだベールの干渉」というzineに使用していた震災後当時の家の写真と「海とカモシカ」で使用していた写真の3つで展示してみないか、という打診をいただいて、ちょうど自分もそういう考えがあったので、中崎さんの後押しもあり、彫刻作品と写真の作品を一緒に展示してみようとなりました。2021年/《くすんだベール》zine「海とカモシカ別冊 くすんだベールの干渉」zine「海とカモシカ 02」-私としては、ちばさんの彫刻の作品と写真の作品が同じ空間にあっても違和感なく入ってくるな、と思いました。ちばさんの作品は「記憶」とか「思い出」とかがベースなのかな、という風にステートメントを読んで思っているんですよね。こういう昔のものや、誰かの家族の記憶とかに触れると、同時に自分の思い出とかとも接続されていく感覚になりますし、彫刻は彫刻で日常的に触れるものがモチーフとしてあるので、そこはすごく親和性が高いんじゃないかなと感じています。あと、ちばさんの写真の作品の中で多分ちばさんのおばあちゃんが「ふみえちゃん写真」とか手書きで書いたものも混じっているんですけど、そういうのを見ると自分ではない家族の日常とか、生活とかがちゃんとあるんだ、っていうのを感じてグッとくるんですよね。ちば たからもの、とか書いてありますよね笑-これからも石巻では制作活動は続けていく予定なんでしょうか。ちば そうですね。今、仕事辞めて数ヶ月おやすみする期間があって…。自分が根詰めて一企業で仕事をしていた時とはやっぱり気持ちが変わるんですよね、仕事をしていない自分になると。今は制作に割く時間を結構とっているので、空白の10年の間の「これ知らなかったな」とかそもそも20代で全然勉強してこなかったなということを振り返って、本とか読んだり勉強したりしてインプットするのが楽しいなと思っています。今は結構制作寄りに傾いていて、これからもそういう風にやっていければいいなと思っています。街なかに「石巻のキワマリ荘」以外のアートの拠点もできて、20代の人たちも増えてわちゃわちゃやっているのもいいなと思っていますし、そういうところには人が集まってくるんじゃないかなとも思うし。そういう場所が自分の生活圏内にあって、自分も拠点として活動できるような場所としてあるっていうのが環境的に自分にとってはありがたいなと思っていて、自分がここでやれることがあればやっていきたいなと思っています。Reborn-Art Festivalがあるから人が来るっていう感覚もあって、人が来てくれるのは流動性もあって一過性のようでもあるけど、その中に出会いもあるからこの流れをすごく大事にしたいなと思っています。-自分たちよりちょっと上の世代のアーティストの人がいると、若い世代のアーティストも相談しやすいと思うんですよね。先輩のポジションっていうか。ちば あんまり偏らず、各世代バランスよくいる感じでいいですよね。関わる人が単純に増えてくれるといいですよね。-関わる人が増えると、相談できる人も増えていいなと思いますよね。(2021年7月31日 収録) text:山田はるひ※1 中崎透-美術家。1976年茨城県生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科博士後期課程満期単位取得退学。茨城県水戸市を拠点に活動。※2 日和アートセンター-2012年3月から2014年7月末まで、宮城県石巻市の中心市街地に開設していた文化芸術拠点。※3 黄金町-横浜市にある黄金町エリアマネジメントセンター。黄金町は「アートによる街おこし」を推進しており、展覧会やアーティストのレジデンスなどが盛んに行われている。※4 團良子-彫刻家。ちばふみ枝が企画する「mado-beya」の展示にも参加。※5 チフリグリ-ギャラリーチフリグリは仙台市宮城野区にあるギャラリー。「チフリグリ」とは cheerfully=愉快に快活に、grin=笑うを、カタカナ読みにした言葉。「コレ」という固定観念のない空間を運営している。※6 ビルド・フルーガス-「ほら、鳥が飛んでいる…(エスペラント語)」という意味を持つ。最先端のアートシーンを追いかけるのではなく、独特でユニークなアートシーンが生まれる場所、そして、そこで活動を行っているアーティストに注目し、様々な交流を図ることを目的にしたプラットホーム。※7 GALVANIZE gallery-「石巻のキワマリ荘」一階部分のギャラリースペース。GALVANIZE (ガルバナイズ)の意味:電気を通して刺激する、治療する。駆り立てる、活気づける、活性化する。トタンを英語で、galvanized ironやGalvanized sheet。Luigi Galvani(イタリアの解剖学者1737~1798)の名前から来ている。オーナーが電気屋さんである、建物の外観がトタンである、街の活性化の三つからGALVANIZEとなった。※8 山形芸術界隈-山形ビエンナーレ2016期間中に開催されたアートの市「芸術界隈」(ディレクター・三瀬夏之介)から派生した芸術運動体。「石巻のキワマリ荘」では2018年に年間を通して展示をするというプロジェクトを行った。--------------------------------ちばふみ枝1981年、宮城県石巻市生まれ。2006年、武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻彫刻コース修了。同年、「ニュー・アート・コンペティション of Miyagi 」に入選。その後、都内を中心に作品を発表。2011年、震災を機にUターン。翌年には地元石巻での初の個展「くすんだベール」を開催。震災体験を共有するクライストチャーチと宮城のアーティストたちの協働企画「 Shared Lines 」に2012年より携わり、せんだいメディアテークでのグループ展と翌2013年のカンタベリーミュージアムでのグループ展に参加。2017年、アーティストの有馬かおる氏が立ち上げたGALVANIZE Gallery 初の企画展にて個展「serendipity」を開催。「石巻のキワマリ荘」内に自身が企画運営を行うアートスペースmado-beyaを2020年1月にオープンし、拠点として活動。窓、カーテン、扉、壁、階段などのモチーフに、記憶の中の風景を組み合わせた造形を特徴とする。レリーフを紐で連結する方法で自立させることで、仮設的な場としての彫刻を制作している。


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2019年のReborn-Art festivalで「石巻のキワマリ荘」を訪れたことがきっかけとなり、石巻で活動を始めたアーティスト・平野将麻。2019年夏に東北芸工大を中退し、同年12月から美術家・有馬かおると守章(双子のユニットで作家活動をしている)が運営しているギャラリー「ART DRUG CENTER」内で「メイドルーム。」というスペースを立ち上げて活動。グループ展・個展合わせて7回の展示を行った。2021年2月に独立し、若干20歳という若さで、5月からは「THE ROOMERS` GARDEN」というアートスペースを運営しながら、自身も絵画や写真、インスタレーション形式での作品などを発表している。---------------------------------平野さんが石巻で活動することになった経緯を詳しく聞かせてください。平野 2019年に開催されたReborn-Art festivalで「石巻のキワマリ荘」を訪れたことが始まりです。その時は普通に観客として来ていたので、見て回っただけだったんですが、帰ってから石巻に行った時に出会った美術家のミシオさん(「石巻のキワマリ荘」に所属していた作家。現在は地元である京都に帰り、作家活動を続けている。)に連絡をとって2,3度石巻に来ました。3回目に行った時に「ART DRUG CENTER」を運営している有馬かおるさんから「余っているスペースを使ってみないか?」と提案されて2019年12月に「メイドルーム。」と名付けたスペースでの活動を「ART DRUG CENTER」一階で始めました。-石巻に引っ越してきたのはその時ですか?平野 いや、引っ越してきたのは2020年の4月ですね。それまでは松島の実家に住んでいて、仙台でバイトをして、石巻でスペースを運営してっていう…。-結構最近ですね。「メイドルーム。」と名付けた部屋にはどのような由来があるのでしょうか。平野 スペースの名前の由来は「冥土」とお手伝いさんが住む部屋「メイド部屋」からきています。「冥土」は大学を中退した当時、今となっては大袈裟だなと思いますが「自分には何もなくなってしまった。死んだも同然だ。」と感じていて、スペースの運営が決まった時に真っ先に思い浮かんだイメージが死後の世界である「冥土」でした。また「メイド部屋」はギャラリーを間借りしている自分の状況と重ね合わせています。1回目の展示は2019年の12月に自身のドローイングを中心とした個展《生まれる》を開催しました。2019 ヒラノショウマ個展《生まれる》 -展示は個展・グループ展と合わせて何回開催したのでしょうか。平野 ADCではこの後6回、グループ展と個展合わせて7回の展示をしています。-約1年で7回の展示を開催するのはだいぶ大変だったかと思いますが、展示をする中で大変だったことはどのようなことですか。平野 とにかく制作のペースをあげて展示をし、周りからは意見を聞いて改善していて、それを以って次回の展示をする、というのを約1ヶ月スパンで繰り返していたので、ペースを保っていくのが大変でした。グループ展を開催するときは、芸工大(平野さんが在籍していた大学。東北芸術工科大学の略)にいる知人からいろいろな人を紹介してもらいながら同世代のメンバーを集め、集まったメンバーに僕が企画した展示の内容を伝えて、ミーティングを重ねていきました。「メイドルーム。」では2回グループでの展示を行いましたが、2回目の展示である《のこり化す》は特に「破壊と再構築」をテーマにした実験的な内容だった上に、狭い空間で僕を含めて5人が展示していたので展示を成立させられるようにかなり試行錯誤を繰り返しました。2020 グループ展《のこり化す》-「ART DRUG CENTER」に在籍していたのは約1年ほどでしたが、展示のスパンが短く頻度も高いですね。平野さんは2021年頭に「ART DRUG CENTER」を独立して、同年5月から自分のスペースを運営していらっしゃいますが、その新しいスペースについて教えてください。平野 2020年の11月頃に独立することを決めました。「メイドルーム。」の運営を初めて約1年が経ち、「ART DRUG CENTER」と「メイドルーム。」が手狭に感じてきたため、もう少しやりたいと思ったことをより良い形で表現できる場所での展開を考え始めたのがきっかけでした。そして年が開けた2月頃にどのような展示をやるのか、誰が展示するのか、などを一気に決めていきました。スペースの名前である「THE ROOMERS` GARDEN」は「間借りしている人」という意味の「roomer」と、最もプライベートに近いけれど、開かれている場所という意味の「garden(庭)」を合わせました。自分のスペースに関しては、スペースのある場所から隔離されすぎないことを意識しています。(スペースが入っている)建物自体にも意味を持たせたいし、石巻という街でやっているということを意識させたい、という意図があって名付けました。僕はギャラリーと自分自身の距離が近すぎても「日常」的なものになってしまうし、ホワイトキューブのような外から隔絶されたスペースになるとその場所でやっている意味が薄れるのではないか、と考えていて、石巻にいるからには、ここでやれることをやりたいと思っています。「THE ROOMERS` GARDEN」外観room_Aroom_B-東京というか、いわゆる都会ではなくなぜ石巻でスペースを持つことにしたのでしょうか。平野 東京でやるのが悪いわけではないです。どこに行っても、自分がやるならその場所でやっている意味があるスペースや展示をしたいと思っていますし、展示をやっている場所自体に面白さがあってそれを感じて欲しいとも思います。石巻でやっているなら、自分のスペースの周辺のこと全部ひっくるめて展示しているものに意味を感じて欲しいです。あと、自分がやるなら突出しておもしろさがあるスペースを運営したいとも思います。-平野さんは20歳で独立したわけですが、それについては不安に思いませんでしたか。「家賃払わなきゃいけないなあ」とか。平野 自分はお金をたくさん持っているわけではないし、健康的な生活をしたいならスペースなんて借りずにたまに展示したり、グループ展に参加したり、っていうのが一番健康的な生活を送れるんだろうなあ、とは思います。でも、僕は自分の健康とかよりも「やりたい」と思ったことを最優先しがちなので、「リスクがあるから」とか「家賃払わなきゃ」とかはあまり考えずにスペースを始めました。今生きているけど、1ヶ月後には死んでいるかもしれないから。「今」やることを大事にしたいなと思っています。-平野さん自身も「おもしろい」方を選んでいるということでしょうか。平野 おもしろいっていうか、自らハードモードを選んで辛い状態でいい作品が作れてそれが評価されたら、より嬉しいんじゃないかなって思うんですよね。だからこっちを選んでいる、というのはあります。-普段制作している時に特別意識しているテーマはありますか。平野 僕はまだ制作のテーマがはっきりしているわけではないので、とにかく作って、作り続けてそれで出てきたもので見えてくるかな、と思っています。自分の美学っていうか、自分がいいなと思うことは人にはあんまり伝わらないと思っていて、だとしたらその「伝わらないこと」を(自分の中で)完璧に形にして人に見せたいなと。はっきりとしたテーマはありませんが、制作する作品には「風景」が要素に入っていることが多いです。人というよりは、風景。撮影:平野将麻2020 ZINE《揺らぐ》に収録されている写真-作品のモチーフに人を選ばないのは何か特別な理由があるのでしょうか。平野 人を作品のモチーフとして組み込むと、新しいストーリーが入ってしまうので自分の作品ではあまり使いません。自分が新しいキャラクターを生み出すということは、偶像を生み出す、ということになってしまうのが自分にはできないと思うからです。新しいキャラクターをモチーフに入れると、その人物やキャラクターの設定(性格など)を作り出すことになると思うのですが、僕はそれに抵抗があって。だから逆に、誰もいない空虚な風景を描いていて、作品ではそこに主人公は作りません。写真を作品にする時は、ファッションスナップとかの人がいないバージョンというのを意識して撮ることもあります-人がいない風景などをモチーフとして平野さんの作品は、とても静かな空気を感じます。どことなく寂しい、切ない気持ちにさせられるような…。平野 前、僕の作品をみた人に「平野くんの作品って空虚な感じがする」って言われたことがあって、多分その人的には良くない意味で言ったんだと思うんですけど、僕は「よっしゃ」って思ったんですよね。「その通り」って。自分が制作する作品は、空虚なものであって欲しいというか、自分が「良いな」と思う景色は空虚さを感じるものが多いので。-その「空虚さ」みたいなものはある意味で平野さんの作品に流れている、一貫した雰囲気のような感じがしますね。平野 最初に僕が作品にしたいと思ったのが「喪失」なんです。儚いものや、消えてなくなるものって美しいと感じるなと思ったことがきっかけで。なんでそういうものを美しいと感じるのだろう?という気持ちがあって、失うことやなくなるものはネガティブに捉えられがちだけど、僕はネガティブなだけではないはずだと思うので、ネガティブからポジティブへの変換っていうのが自分の作品で表現できたら良いなと思っています。これは作る作品や、使う素材が変わっても根本にあるテーマかもしれません。-〇〇らしい、というと嫌がる方もいらっしゃるでしょうが、平野さんの作品には平野さんらしさがあるように感じます。まだ明確ではなくても、根底に流れるテーマがあるからかもしれないですね。平野 自分はいろんな素材で作品を作っているので、その「ぽさ」みたいなものが出たらいいなとは思います。決まった技法にとらわれずに、インスタレーションや写真や絵画、パフォーマンス…様々な方法で作品を発表したいです。-先日、パフォーマンスの作品をインスタライブで配信していました。初めてパフォーマンス作品を発表したかと思いますが、その時はどうでしたか?※SURFACE OF THE WATER パフォーマンス動画:https://youtu.be/GCGJXHtUSro平野 パフォーマンスをやる時はちょっと迷いました。自分っていう主人公がいるので。作者のロードムービー的な要素もあるけど、映像の中に自分が出てきてしまうと「人」の印象が強くなるな、と思い躊躇しました。今回発表したパフォーマンスは、カメラが存在していることを意識せず、鑑賞者が俯瞰して見ることのできるようなものを目指しました。-「THE ROOMERS` GARDEN」では常設展も行っていますが、そこに選んだメンバーと平野さんにはどのようなつながりがあるのでしょうか。平野 今まで関わった人の中から、自分のアートスペースで展示して欲しいなと思った人を選びました。自分は人脈をつなげていくことしかできないなと思っていて、外に出たからこそ大学にいる友達と外の人を接続することができるんじゃないかなと思っています。(大学を)中退してよかったポイントは大学の外からの視点を得られるということだなと、今感じています。-大学の中にいると大学にいる先生や、同じ教室の同級生が師弟関係になったりライバル同士になったりすることが多い気がします。その点、平野さんは自分でスペースを運営しているから、全然畑の違う人にも意見を言われることがあると思います。そういう時に、その感想や意見をどのように捉えていますか。平野 僕はまだ知らないことが多いので、言われたことは多めに受け取ろうと思っています。そうすることで「次はこういう風に改善しよう」とか「こういうことを試してみよう」と、作品にすぐ生かすように心がけています。自分のスペースだから、誰かに何か言われてすぐに改善するスピード感があるんじゃないかな。大学で制作していた時よりも、そのレスポンスの速さは格段に上がったし、たくさんの作品を短いスパンで制作したり改善して次につなげていくことができています。-平野さんは写真やインスタレーション以外に、絵画作品も多く制作していると思いますが、絵を描くときはどんなことを考えていますか。平野 どんなこと…。まず、画風を確立したいとは今の時点ではあんまり考えていません。描きたい線がたくさんあって、最終的に作品が並んだ時になんか統一感がある作品にしたいな、という思いで制作しています。マーケットに多く流通したい、とか売れっ子になりたい、という欲望は薄くて、それよりも「これを描きたい!」という気持ちの方が強いです。だからと言って、いわゆる“練習期間”だと捉えているわけではありませんし、力を抜いて制作をしているわけではないです。-平野さんの作品では寒色、特に「青」が基調となった作品が多いと思いますが、これは意図的にそうなのでしょうか。平野 なんで青を使うんだろう…。釣りばっかりやっているからですかね…。水を近い存在に感じているからかもしれません。あと、石巻は空が広いから目に入る風景も青が多い気がしています。先ほどお話ししたように、自分の作品は空虚な雰囲気を出したい、というのがあるので自然とそれを表現できる色を選んでいるのだと思います。2021 tidal river side Ⅰ2021 tidal river side Ⅱ2021 tidal river side Ⅲ-釣りが趣味で、釣りにまつわる作品も制作していますが、平野さんの中で「釣り」と「アート」はつながっているんでしょうか。平野 全然そこは最初意識していませんでした。有馬さんに「そんなに釣りをしているんだから釣りで作品作れるんじゃない?」と言われた時もありましたが、当初の僕は「釣りは趣味で自分の作品には反映しない!」と考えていました。僕が釣りを始めたのは幼稚園の時からで、はじめて釣りをした時に魚が好きになりました。釣りが好き、というよりどちらかといえば魚が好きなんです。小学校高学年からはルアーを使った釣りを始めるようになり、そこで今までは見えている魚しかいないと思っていたのですが、いざ釣りを初めてみると全然知らない魚とかも釣れて…。やってみないと、こういう魚がいることに気づけなかったんだなと思うようになりました。そうしているうちに、ここにはどんな魚がいるのか想像することの楽しさを感じるようになったんです。見えていないものを想像して、実際に見えていなかった魚が釣れて自分の手に持って観察できる感動っていうのがすごくて…。「こいつが今まで水の中を泳いでいたんだ」という感動と、それを観察できることがうれしかったんですよね。その気持ちを感じたくて釣りをやっているのかもしれません。そうやって僕は釣りが好きになったんですけど、最近、その釣りをすることと制作がだんだんとつながってきています。さっきも言ったように、元々は釣りと制作は接続するつもりはありませんでした。例えば、今の展示のテーマも釣りから着想を得ています。今回の展示(現在「THE ROOMERS` GARDEN」で開催している個展「SURFACE OF THE WATER」)は「境界」がテーマなんですが、それを水面のイメージと重ねています。人って境界を作ってしまいがちなんだけれど、僕はその境界の先が見てみたいと思うんですよね。そこが釣りと似ていて、境界の先を想像することと、水面の下のルアーを想像すること。地形をルアーやおもりを手繰り寄せながら、手の感触や川の流れで想像するんです。そういう行為をしないと、魚がいるか分からない。境界の向こう側を見る、ということは想像するおもしろさがそこにあると思います。今まで見てこなかったものを僕はそれが良い、悪いに関わらずいったん見てみたい。でも僕が考えているようなことを人は結構避けがちで、自分がみたいものを選べる時代でみんな自分の見たいものしか見ないけど、僕は(境界の先を)見たいと思います。釣りをやっていたことが、そういうことにつながっているのかな、とは思いました。-では平野さんの中では「釣り」は今後制作の一部になっていくのでしょうか。平野 釣りが嫌いになる程、制作とは絡めたくないなと思っています。釣りは釣りで楽しむためにやっているから自然につながっていくなら作品にするのもいいかなって感じです。-なるほど。釣りをやっていたことで蓄積されてきた経験はこれからも発揮されていきそうですね。釣りをやっているから、誰かに自分の作品について意見を言われても「次に繋げよう」とか「どう改善しようか」などという方向にいけるのかもしれないですね。平野 そうですね。釣りをやっているとさっきも言ったように、釣れなかったら何が悪かったか改善したり、すぐできるのでそれもつながっているのかな。あと、1日釣れないこともあるけど、それはそれで次につながるな、とか思うので。結果としてそういう釣りで培った思考の蓄積が制作にもつながっているのかもしれないですね。-これからも釣りはずっとやっていきながら、制作もしてって感じですかね?平野 それは分からない…。けど、石巻は釣り場が近いし、シーバスが多いのが嬉しいですね笑-スペースはこれからも長い間続けていこういこうと思っていますか。平野 いつまで続けるとかは考えていなくて、もしかしたら突然やめるかもしれないし、分からないですね。ただ面白いことをやり続けたいとは思います。あと、人がとにかく来て欲しいというより、「面白いことをやっているな」と思ってもらえることをやっていきたいです。-なるほど。ではまずは、「面白いことをやっていく」ということですね。平野 そうですね。面白いことをやって、それに反応してくれる人が来てくれたら、と思います。(2021年7月18日 収録)text:山田はるひ--------------------------------アーティスト・平野将麻2000年、宮城県生まれ。2019年に東北芸工大を中退し、同年12月より石巻市 ART DRUG CENTERにてメイドルーム。の運営を始める。2021年1月、メイドルーム。での活動を終了し、同年5月、市内に新たなオルタナティブスペース THE ROOMERS' GARDEN を立ち上げる。現在はスペースの運営をしつつ、絵画や写真、インスタレーション形式での作品などを発表している。


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7月8日に3年と少しの石巻生活を終え、地元である京都へ帰ってしまった美術家のミシオ。2018年、RAFをきっかけに石巻のキワマリ荘の二階部分に住み、「おやすみ帝国」と名付けたスペースを運営し、滞在制作を続けてきた彼は石巻で何を考え、これからどのような活動を行なっていくのだろうか。---------------------------------ミシオさんが石巻に移住し始めてからどのくらい経ったか教えてください。ミシオ 2018年の2月26日からです。今で、3年と4ヶ月くらいになりますね。-石巻に引っ越してきた初期はだいぶ周りの人とのコミュニケーションなどに苦労したというお話を聞いていますが、今はだいぶコミュニケーションが取ったと伺いました。ミシオさんの実感としてはどうでしょうか。ミシオ うーん。コミュニケーションは取りやすくなったかなと思います。もともと、人と話すのが苦手で、話すだけではなくて、電車に乗るとか、人がいるところも苦手でした。大学に行くときは、事前に電車に乗る練習とかもしていたくらいで…。練習しても、大学が始まったら汗だらだら流しながら、電車に乗って通学していました。-今でも誰かと話す時など、極度に緊張してしまうことはありますか。ミシオ 完全にはなくなってはないです。コミュニケーションもちゃんと取れるようになったかと言われると、自分的にはそうかなあ?という感じです…。-改めて、ミシオさんが石巻に移住してきた経緯をお聞かせください。ミシオ 2017年の夏に、大学を経済的な事情で辞めざるを得なくなってしまい…。その時に、ちょうど、僕が現代美術の道を目指すきっかけになった島袋道浩さんという美術家の方が「京都Re-Search」というアーティストインレジデンスを講師をしていたんです。「(島袋さんの公開プログラムに)行ったら何かが変わるかもしれない。」という気持ちがあり、僕はその公開プログラムの見学に行きました。実際その公開プログラムを見学して、島袋さんといろいろお話しすることができ、同時期に石巻で開催していた「Reborn-Art Festival2017」で展示されていた島袋さんの作品(砂浜の流木を起こす作品)が、台風でほとんど流されてしまったため、「もう一度流木を起こしに行くんだけど、手伝いに来ないか」というお誘いを受けることができました。そこで僕は初めて石巻に行くことになったんです。石巻では島袋さんの作品の手伝いをしている時間以外に、1日自由に行動できる時間が確保できたため、展示を見て周りました。その時に展示会場になっていた「石巻のキワマリ荘」にも足を運びました。そこには展示作家の有馬かおるさんがいて、3時間くらいかな…自分の今までのこととかを話したりして、その中で僕が「大学を中退してしまったけれど、作家になりたい」と言ったら、有馬さんが「じゃあここに住めばいいじゃん!」と言ってくれて…そういう経緯で僕は2018年2月に石巻に移住し、キワマリ荘に住みながら本格的に作家活動をすることになりました。-現在ミシオさんは美術家として、企画展に参加したり、キワマリ荘でアートスペースを運営し自分の個展などを行うなど作家活動を活発にしていらっしゃいますが、もともとアートに興味があって、美術の道に進んだのでしょうか。ミシオ 自分はもともとは芸術にあまり親しみはなく、実際大学のAO入試で初めてデッサンの存在を知ったほどでした。大学に入ろうと思ったのも、高卒で就職するのが嫌だっていう動機があって…。高校時代、ドラムをやっていて「スタジオミュージシャンになりたい」とも思っていたのですが、コミュニケーション能力がなさすぎて、バンドも組めないし…だったら大学に行って絵を学んで、バンドとかのCDジャケットとかを描いて、少しでも音楽に関われたらいいなという気持ちがありましたね。実際、大学の同世代の子でもバンドのカメラマンをしていたり、他大学だけどバンドジャケット描いたりしている人が何人かいて、それに嫉妬しながら制作していました。-大学に入って、同世代の人たちに影響を受けながら制作をしてきたと思いますが、具体的に美術家になりたいと考え始めたのはいつ頃でしたか。ミシオ 大学を中退したタイミングで、作家になりたい、という気持ちが大きくなっていきました。大学を辞めることになってしまったけれど、同世代の人たちには負けたくない…!という気持ちもあったのかもしれません。2019 Reborn Art Festival展示風景-ミシオさんは石巻に移住してきて2年目の2019年にReborn-Art festivalに参加作家として「石巻のキワマリ荘」で展示を行いましたが、そのときは在廊しながらどのようなことをして過ごしていましたか。※2019年のReborn-Art Festivalでミシオは「暮らす/路上のゴミに顔を描く」という作品で「石巻のキワマリ荘」の展示作家として参加。ミシオ 在廊中は主に作品の説明を来場者にしていました。平常時のギャラリーの時よりたくさんの来場者の人がキワマリ荘に来たので、その人たちに作品の説明や、キワマリ荘の説明をしていましたね。その時に、自分や作品、ギャラリーの説明を何回もすることで一気に人とコミュニケーション取ることに慣れた気がします。説明するときのシミュレーションをしたり、「こういう風に説明したらもっとわかりやすいかな?」という例えの引き出しをたくさん作っておいて、お客さんが来た時にちゃんと話せるように自分なりに準備したりもしました。期間中は本当にいろんな人が来るので、嬉しいコメントをもらったりもしましたが、その反面ちょっと悲しいことを言われたりしたこともありました。でも、それで自分の感情のコントロールの仕方を学ぶことができました。-ミシオさんの作風や制作する作品は石巻に来たことが影響して変化しましたか。ミシオ 結構変化したと思いますね。石巻に引っ越してくる前の絵は結構勢いで描いていた部分があったのですが、有馬さんと絵の話をしている中で変化していきました。(有馬さんに)「描ける線の数を増やすと、それだけ絵のレパートリーが増えるよ」という話をされて、線のレパートリーを増やしたり…今までとは違う描きかたを模索していく中で、タッチが変わっていきました。京都にいる時は、自分の絵に対するコンプレックスが強くて、上手く描けなくて途中で描くのをやめてしまったりすることが多かったです。今も絵に対するコンプレックスは強いですが、人には見せられるようになりました。あと、美大ではもともと高校から美術系の高校だったり、アートに触れる環境にいた人が多くて、自分はそういう環境にはいなかったから、その人たちより美術に造詣が深くなくて…それがきっかけで作家や美術史について勉強しました。-そのコンプレックスや周囲と自分がいる環境とのギャップみたいなものは作品にどのような形で反映されているのでしょうか。ミシオ 「ゴミに顔を描く」っていうライフワークが特にそれを表現していると思います。あの作品自体は、続ける予定で制作していたわけではなく、大学在学中の最後の合評で出した作品でした。-在学中は油画コースに所属していたと思いますが、コースとしてもそのような作品が受け入れられる雰囲気だったのでしょうか。ミシオ いや、全然そんな雰囲気ではなく…。周りが絵を描いている中で、あの作品を出したので、むしろ僕自身としては「すべったな」と思いました。先生の反応も全然良くなかったし。でも、そのときは経済的にキャンバスや絵具を買うことができなくて、最終的には電車賃も払えなくなった時期でした。片道3時間近くかけて大学に自転車で通っていました。自転車で地元から大学がある左京区まで来る途中に、道端に落ちているたくさんのゴミを見て「このゴミはゴミ箱に捨てられて、廃棄されるっていうルートから外れたのかも」と思うようになったんです。僕はそれがうらやましくて…。-ゴミがうらやましいというのは、どういう理由があってそう思うようになったのでしょうか。ミシオ ゴミがうらやましいっていうか、その本来あるべきルートから外れた姿がうらやましいと思いました。その道端に外れたゴミの姿を、世の中の既存の仕組みやルートから抜け出すというイメージと重ね合わせて、この作品ができました。それは自分とお金持ちの人との違いや、自分ともともとアートに触れる機会があった人たちとの違いを肌で感じて、その差を超えていきたい、壁を取っ払いたい、それを乗り越えていきたい、という気持ちがあったからです。その後に、自分が元々住んでいた地域が、関西でいう「部落」と呼ばれている地域の側にあって割と治安が悪かったことを知りました。高校生の時に、家の近くのマンションにポスティングをしに行ったりしていたんですが、そこのマンションの中庭が荒れていて…その光景を思い出した時に、この庭がこの状態になっているのは、住んでいる人たちが選択してこうなっているわけではないんじゃないのかな、と思ったんです。治安が悪い地域で、経済的にも余裕のない暮らしをしていると選択肢が普通の人よりも少なかったり、そもそもどういう選択肢がこの世にあるのかを知らなかったりする人が多いと思います。僕はそういう境遇を表現したいと思っていて、選択肢が少なかったり、選べない選択肢があるルートから飛び出したい、とも思っています。-本来あるべき道筋から外れる、とか飛び越えていくという意図は、「 路上のゴミに顔を描く」という作品以外でもそれはミシオさんの作品に現れていますか。ミシオ 僕はドローイングの作品をレポート用紙の裏に描いて、わざとレポート用紙の本来使うべき面にある直線を透かしています。これは「人生の中での過去・現在だけでなく、未来もシミュレーションできて、言葉で記述できてしまうのではないか」という疑問から、そういったことの向こう側に行きたい、という気持ちでいたからです。制作のきっかけは、去年あたりから自分のルーツのことを知り始めている影響が大きいと思います。そういう自分のルーツに目を向けて作品を制作できるようになったのも、石巻に来たことで周囲の人から受けた影響が大きいです。僕が石巻に来て驚いたのは、ここに住む地域の人は自分たちの土地のことについてよく知っているし、それを他所から来た僕のような人に喋ることができることです。それで、自分は地元のこと全然知らないな、と感じ、地元について調べ始めました。そうして、自分のルーツを調べていく中で、「路上のゴミに顔を描く」やドローイングの作品群を制作をしていく理由を言葉にしていくことができたと思います。2021/庭が背後霊2021/2021年拳で抵抗2021/落穂戻し-ミシオさんは今まで石巻で美術家としてキワマリ荘で活動してきましたよね。京都に帰ってからもその活動は続けていくと思いますが、今後の展望をお聞かせください。ミシオ 京都に行ったらまずバイトを探さないと…。活動を続けていくために、アトリエのようなスペースを持ってそこで制作を続けていきたいな、とは思っています。それは地元かもしれないし、地元じゃないかもしれないけど、できれば地元の近くで、制作しながら自分の生まれた土地についてもっと知りたいなと思います。作家活動を続けていくにあたって、そういうアートスペースみたいなものはあったほうが、自分は良いんじゃないかなって。キワマリ荘を出たら野良アーティストになるので笑今年とか、来年とか、(作家の方などから)誘ってもらったりしてちょっとずつ展示の予定が決まったりしているんですが、正直な話それもすぐなくなるんじゃないかなって…。そういう不安があるから、早く自分の制作する場を持ちたい、という気持ちが強いです。30歳までに自分の制作の基盤を作らないと、作家活動も続けいけないんじゃないかなとも思っているので…。ただ、キワマリ荘にいる時にたくさん周りに迷惑かけてきたので、自分一人でアートスペースなんて始められるのかな…。-ミシオさんには作家活動を続けて行って欲しいと思いますが、また石巻に帰ってきて欲しいなとも思います。滞在ではなくて、移住で…。ミシオ その時はきっとボロボロになって帰ってくることになるんじゃないかな…笑 そうなって石巻に帰ってこないように、これから頑張ります!(2021年7月6日 収録)text:山田はるひ--------------------------------美術家・ミシオ1998年、京都府生まれ。宮城県石巻市在住。2017年、京都府の美大を中退。2018年、Reborn-Art Festival 2017をきっかけに石巻市へ移住。「石巻のキワマリ荘」にて、住居兼アトリエ兼ギャラリーの「おやすみ帝国」を立ち上げ、作家活動を行っている。日々、町を徘徊しながら路上に落ちているゴミに顔を描きんろで、「今見えている世界から目線をずらし別の場所へ脱出する」ことをテーマに制作をしている。