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石巻の街中にある3つのアートギャラリーで若手作家を中心とした企画展を開催したい!

宮城県石巻市の街中にある3つのギャラリーで石巻在住の若手作家を中心とした企画展「手つかずの庭」を開催します!震災以降、この土地で生まれた街へのイメージに縛られすぎずに、これからもここで活動していく作家たちが制作を続けていくための実験的な企画展示です。ぜひご支援・ご協力をお願いいたします!

現在の支援総額

822,800

117%

目標金額は700,000円

支援者数

78

募集終了まで残り

終了

このプロジェクトは、2021/06/30に募集を開始し、 78人の支援により 822,800円の資金を集め、 2021/08/12に募集を終了しました

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現在の支援総額

822,800

117%達成

終了

目標金額700,000

支援者数78

このプロジェクトは、2021/06/30に募集を開始し、 78人の支援により 822,800円の資金を集め、 2021/08/12に募集を終了しました

宮城県石巻市の街中にある3つのギャラリーで石巻在住の若手作家を中心とした企画展「手つかずの庭」を開催します!震災以降、この土地で生まれた街へのイメージに縛られすぎずに、これからもここで活動していく作家たちが制作を続けていくための実験的な企画展示です。ぜひご支援・ご協力をお願いいたします!

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震災を機に石巻にUターンをし、自身の彫刻作品を中心とした制作を続けてきた彫刻家・ちばふみ枝。窓、カーテン、扉、壁、階段などのモチーフに、記憶の中の風景を組み合わせた造形を特徴とするその作品群は、鑑賞するたび自身の記憶とも接続されていく。「石巻のキワマリ荘」のメンバーとして活動しながら、東京・東北を中心に展示も開催。最近は被災した家を記録した写真作品も発表している。
彼女の記憶の中の風景を組み合わせた独特の彫刻作品は、どのようにして生まれたのだろうか。

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2012 年 個展「くすんだベール」展示風景/日和アートセンター -ちばさんの作品は一貫したモチーフがあるように思えるのですが、このような作風になったのにはどのような経緯があったのでしょうか。

ちば 学生時代から大学院までの時間で自分の作りたいものやどうやって作るのかなどの方向性は試行錯誤していました。レリーフを彫るみたいな作り方は大学院の修了展の時にやりはじめたものです。

-大学時代はどのような作品を作っていたのでしょうか?

ちば 家の中にあるものや日常的に触れるものがモチーフになることが多かったです。人間ではなくて、室内の柱とか壁とかふすまとかがモチーフなのは今と通じていて。それは彫るのではなくて、実際にふすまの紙を買ってきたり、柱も角材を買ってきて柱みたいに色を塗ったりとか。あとは、家の中で目にするもので、例えばジャンプ(週刊少年雑誌)とか使ったりもしたこともありました、断面とかを嵌め込んで使ったり…。柱にフックをかけたり、お盆を窓みたいに貼ったりとか、モルタルを塗り込んだりして形を作るっていう作品を制作したり…。
テラコッタ課題作品/大学時代 -普段目に写るものがモチーフになっていることが多いんですね。

ちば これは大学一年生の時の作品ですね。
テラコッタを使った課題で、和式のトイレを型取りして作りました。この時から結構今の作品につながっていて。トイレって壁を隔てて、昔のだと扉も低くて上からのぞけて、下からも見えるって言うそんな薄い壁を隔ててみんなあられもない姿になっていると思うととても気になって…。
石膏どりの課題で人体も制作しました。でもめっちゃ疲れているモデルさんのときがあって…。「えー」って思いながら作ってたんですよね。全然面白さを見つけられなくて、その時に「もう人体は作れないな」って思ったんですよね。何も引き出せないな、という風に感じました。
それで、3年になってからはちょっとサブカル寄りっぽい感じになっていきました。和風なことに興味があって、そういう作品を作っていたり…。これも今の作品の組み立てに似ているんですよね。

2003年/《記憶に在る家》

ちば 4年は若干今の作風に近づいていますね。この作品は卒展のときの作品ですが、パタンパタンと閉じられるようになっています。

-組み立てはだいぶ今の作品につながっていますね。家の一部が切り取られたみたいになっていますね。大学の時から今のちばさんの作品に通ずる雰囲気を感じますね…!課題以外の作品は今の作風と近いものが多いですよね。

ちば 結構今に通じる作品が多いですね。修了展の時にはけっこう悩んでしまって、最後の方まで制作に取り掛かれなくて。これが初めて彫った作品です。勉強したことを生かそう、 っていうのが今までの作品だったのですが、実はこの作品にはモデルがいて…舞台に立っている子がモデルなんですが「その子がいる場所を作りたい」っていう気持ちと、その子に対するステージとか憧れとか、そういうのも含めて、自分のごく個人的な内面の部分と創作が結びつけられないかと思って。それで客観的にその子がいる場所を作ってみようと思ったんですよね。

2006年/《彼女のつづく》

-このモデルさんはどんな方なのでしょうか。

ちば これは私のアイドル笑
この子は、演劇の舞台とかライブとか歌とか、あとストリップの踊り子だったの。だからちょっとステージっぽい感じの作品になっていて、家着、外着、舞台の衣装をきた彼女がいるんです。

-結構意外でした。ちばさんはあまりサブカルとかアイドルとかに興味があると思っていなかったので…。

ちば 永遠のアイドルで…。ストリップとか一人で見に行ったりしていたんですよね。

-しっかり応援していますね。

ちば その子がいると怖くない、みたいな。ライブとかも、知名度があんまりなかったから、適当なブッキングをされることもあったりして、他のバンドは全然知らない人だけど、果敢に見に行って…。その子がいると最強だなって思っていたので。

-それは東京時代ですか?院を卒業して…

ちば そうですね。25歳くらいまで、うろうろしていて
大学院卒業した後に、大学で教務補助の仕事をやっていて、週に 3,4 回出勤して、夏休みもあって…という2年契約のパートをしていました。だから大学に場所があるっていう感じでしたね。他のバイトも掛け持ちしつつ、アトリエも借りて制作を続けていて。
その任期が終わってからは、他のバイト探して家兼アトリエを借りて制作を続けて行っていた時に震災が起こって…。

-震災前にすでに「美術を生業にして食べていこう」という気持ちが強かったということでしょうか。

ちば 何も考えていなくて…。親が許してくれる限り、好きなことをやっていて…。
「美大行きたいんだったらいいよ!」っていう風に親が応援してくれたこともあって、院に行く時も「いいよ」っていう感じだったので、そのまま好きな制作を続けていましたね。震災前は石巻に帰ったとしても、制作をやっていくっていうイメージが全然湧かなくて…。

-震災後、宮城にはいつ頃帰ってきたのでしょう。

ちば 2011年の9月に宮城に帰ってきました。でも、石巻に最初から帰ってきていたわけではなくて、親が仮設住宅ではなくて仙台の方に家を借りたんですよね。親が会社を経営していてそこも被災したんだけど仕事を再開したいという意思があったので、私も帰ったら働かせてもらって、片付けも引き続きやろうと思いました。
その時は本当に「家の仕事や片付けもあるし」という気持ちで、いったん制作するという自分の活動がお休みになっても仕方ないな、と思っていました。むしろその時に、制作することは一生続けられる、って思ったんですよね。それまでは年齢も年齢だったし、20代後半に差し掛かって、「どうするんだ、自分」という焦りもあり「このまま何にもなっていないまま制作を続けていくの?」と思いつつ、かといって、自分がどのように生活を安定させていけるかっていうのもあまりピンときていなくて…。
震災があったことで、地元に帰る流れは当然のことという感じで受け入れられたし、家の片付けもしたいし、じゃあ仕事もやろうっていう気持ちになって。制作は別にやめないし、いったんお休みっていう期間があってもいいじゃん、という吹っ切れたような気持ちで帰ってきました。それで、次の年から通いで石巻の仕事をはじめました。

-会社にはどのくらいの期間勤めていらっしゃいましたか。

ちば 8年くらい。普通に働いていました。震災後の期間は、細々と制作をしているだけでアートシーンについてはすっぽり抜け落ちています。

-自分の制作は続けているけれども、それまでよりは制作活動を中心に生活していくという感じではなくなったということですかね。

ちば そうですね。だからインプットがほぼないような状態で、あっても自分が好きで見に行きやすい東京の展示をたまに見にいく、ということはありましたが…。積極的にいろんな本読んだりとか、情報を集めたりっていうのはしていなくて、2010年代はぽっかり空いている感じですね。

-石巻のキワマリ荘との交流はいつ頃始まりましたか。

ちば 2019年のReborn-Art festivalに参加したのですが、その前に「石巻のキワマリ荘」では個展をしました。
そもそも中崎透さん※1が、私の大学の先輩で…。透さんが「日和アートセンター」も紹介してくれて…透さんには頭が上がらないというか、足をむけて眠れません笑
透さんが仙台のメディアテークの企画に参加していて、連絡をくれたりしていて、「日和アートセンター」を(透さんの)知り合いが立ち上げるから遊びに行ってねーっていう感じでオープンの日も教えてくれて。なんか半信半疑でした。現代アートのレジデンス施設が石巻にできるっていうこと自体が。

日和アートセンターオープニングレセプション風景 -「日和アートセンター」※2は現代アートのギャラリー兼レジデンス施設として存在していましたよね。

ちば 2012年に私が仕事を始めてちょっとした時にそういう連絡が来て、オープンに行ってみたらすごく賑わっていて…。いろんな作家の人が展示していたんですけど、その展示していた作家の一人が、私が大学入試の時に通っていた予備校で一緒だった女の子がいたんですよね。大学は別々で、久しぶりに会って楽しくなって。黄金町※3の皆さんともその時につながりも出来ました。
これからギャラリーをやっていく、という時に私が地元の作家として紹介されたりして、日和アートセンターを運営していた立石さんとも仲良くなりました。後々だけど、会社以外に通える場所がすごく自分にとって大きくて、それがあったから自分も制作を細々とでも続けていこう、関わっていこうと思えることができたと思います。ギリギリのところをつないでくれたっていうか。

-アーティストにとっては展示できる場所が自分が住んでいる場所の近くにある、と思うと制作続けようかなと思いますよね。

ちば 実際自分がすぐ展示しなくても、そういう関われる人がいるとか、環境があるってすごい違うなって思いました。
2012年に仙台で二人展をしたんですよね。大学院で一緒だった広島に住んでいる團良子さん※4という作家がいるのですが、彼女が「東京時代に同じ職場だった方が仙台でギャラリーをやっているので、個展をしませんか?という話があるので仙台行くかも!」という連絡をくれて、私は「来て来て〜」っていう感じだったんですが、その後、團さんから「個展だと心細いから、ちばちゃんもやろうよ!」という話をもらって。ちょうど私が仙台に住んでいた時期とかぶっていたので、遊びに行く気は満々だったのですが、えーっ!と思って、制作する場所もないし、生活もあまり整っていないし…無理でしょ!と思って一回断ったんですよね。それが2011年の年末とかの話で。

でもちょっとしてから、「やっぱやりたい!」という気持ちが育ってきて…家の片付けもちょっと落ち着いてきて、鍵も閉められるし、電気も通ってるし、水も流れるぞ、っていう風になったんですよね。部屋を片付けたら制作するスペースできるかもと思って、せっせと片付けをやり始めたんですよね。2012年の3月くらいに、1年の振り返り、みたいな感じでいろいろ考えるようになって…その時に「展示やっぱりやる!」という気持ちになりました。それで、團さんに「制作場所も整えたし、展示がやれるイメージが出来ました。」という連絡をして二人展をチフリグリ※5という仙台のギャラリーで開催しました。そのギャラリーのオーナーの方とも、同世代の女性だったのですが、仲良くなれて、すごく楽しくて…そういうスペースがあるということにも励まされましたね。

2012年 /團良子・ちばふみ枝 二人展「バックトゥザフューチャー」/ギャラリーチフリグリ

2012年/《星の砂》-同世代の女性がいる、ってなるとやりやすいですしね。

ちば そう。そこから数年会社勤めをするんだけど、チフリグリのオーナーの佳代ちゃんにもすごい助けられました。グループ展をやる時にも声をかけてもらったりして、小作品を制作して展示していただいたり…。それが細々とあるから、なんとか「やっています」っていう気持ちに自分もなるし、人にも言えるし…。すごくありがたかったですね。

-ちばさんは海外でも展示していますが、それも誰かとの繋がりで紹介されたっていう感じだったんでしょうか。

ちば そうですね。企画者の高田彩さんと繋がったのは、塩釜にムサ美彫刻の 1 年下の子がいて、仙台出身だったんだけど塩釜のビルド・フルーガス※6 に関わっていて、それをきっかけにビルドの彩さんに紹介されて出展しました。ニュージーランドのクライストチャーチという地域で2011年2月22日に地震があって、被害も大きかった地域だったので「交流してアーティスト同士繋がって何かやりましょう。」という企画が立ち上がっていました。それに私は参加作家として呼んでいただきました。最初は、仙台のメディアテークでクライストチャーチの作家さんが展示してオンラインで繋がるイベントがあって、今度はこっちの作家がクライストチャーチで展示するという流れで…。作品だけ預けてもよかったんだけど、私は「あれ?行きたい!」となって、実際に現地に向かいました。 

2013年/「Shared Lines」展示風景/カンタベリーミュージアム-ちばさんは興味関心に素直に行動することが多いですか。

ちば 気持ちがそっちに向く、とか向かないとかあるじゃないですか。見極める時間もあると思うんですけど、その時は「有給こういう時に使うのか?」と思いながら、仕事も調整して行きましたね。

-そう言われると、現実的ですね…。

ちば 震災後だから、いろんな動きがあってたまたま縁があったから乗っかれたっていうのはありましたね。

-仙台と石巻と美術的な繋がりができて、そこから石巻のキワマリ荘加入まで繋がっていくんですね。

ちば そうですね。今後も制作を続けていきたい、っていう気持ちもあったし…。
日和アートセンターに関わっていた時に思ったのですが、いろんな作家さんが他県から来て、出会えることがすごくいいなと思っていて…。日和アートセンターは irori の隣だったから、施設には関係ない街で活躍している人とも知り合いになれたりしましたね。もちろん地元の人たちとも出会えて。そういうのが楽しかったですね。単純に友達もできました。


-日和アートセンターはアートと地域を接続する中間的な立ち位置の施設でよかったな。と思いますね。


ちば 日和アートセンターは私が街なかに関わるとか、街に遊びに行くっていう意識が芽生えた場所でしたね。なにもなかったら、田舎だから引きこもってしまうし…。たまに東京から友達が戻ってきたらご飯食べに行ったりするくらいで。でも、通う場所が街にできたのがすごく大きくて、それがあったからだいぶ生活も変わったなと思いますね。自分の中でコミュニティを持てるというか。透さんの話に戻るんだけど、Reborn-Art Festivalっていう現代アートのイベントがあることも透さんが教えてくれて。それも結構半信半疑で。笑そんな大きな話が進んでるの!?みたいな。

2012年/個展「くすんだベール」展示風景/日和アートセンター -今までそんな大きい現代アートのイベント的なものはありませんでしたよね。


ちば そうですね。それで透さんが、「有馬さんが石巻引っ越したから会ってみて」という話をされて。そこで水戸のキワマリ荘の皆さんもいらっしゃるからその時に一緒に会おう、っていう風になり…。有馬さんは00年代の知っている作家さんだったので、実際に会った時に「あ、有馬さん…!?」っていう感じになったんですよね。水戸で有馬さんの作品を拝見したことがあったのですが、一体どんな人なんだろう?と思っていて。新聞紙のドローイングの作品は衝撃的でした。雑誌で犬山のキワマリ荘での活動を知って、そういうコミュニティを作れる人がいるのっていいなあと思ってた作家さんだったんですよね。実際に会ったら社交的だし、普通にコミュニケーションも取れて、水戸のキワマリ荘の人たちも楽しい人たちばっかりで…。
(有馬さんと出会った時)まだ有馬さんは引っ越してきたばかりだったので「このスペースをやる上でとにかく人脈がないから、いろいろ知りたいんだ」っていうので、かたっぱしから人を見つけたり、紹介してもらった人にたくさん会っている時期で、それで私も有馬さんと会って…、「こういう場所にしたい」っていう話を有馬さんから聞いて、各部屋ずつ運営者を募りたいという話だったのですが、私も仕事をしていたから余裕がないな、と思ってすぐに借りますとはなりませんでした。でも、今後関わっていきますねということで、関係が続きましたね。Reborn-Art Festivalが終わった後に「じゃあ地元の人たちで独自の運営を続けていこう」という流れになり、最初の個展を「GALVANIZE gallery※7で開催するからちばさんやれない?」っていうお誘いを受けて、GALVANIZE galleryでの最初の個展を私が開催することになりました。

2017年/「serendipity」展示風景/ガルバナイズギャラリー 2017 年/《これから》-ではGALVANIZE galleryでの1回目の個展がちばさんだったんですね。正式なメンバーになったのはいつからですか。

ちば 多分、2019年が終わった時かな。Reborn-Art Festivalに出るために、その時は借りていなかったのですが、アーティストとして有馬さんが呼んでくれたので、みんなでスペースをどう使うか、という話し合いにも参加するようになりました。
実際に展示した後に、メンバーが何人か抜けて、スペースが空いてしまうことになったので「私が空いたスペースに入ります」という話になったんですよね。2019年のReborn-Art Festivalの時にたくさんお客さんが来てくれて…。私、それでとても新鮮な気持ちになったんですよね。こうやって人が認知してくれたのに、(スペースが空いたら)もったいないなと思っていて、継続していく場所だから、こうやって何かで知ってくれた人が継続してきてくれたらいいなという気持ちもありましたし、積極的に地元の人にも認知してもらえる場所になったらいいな、石巻で現代アートが見れる場所として育っていけばいいな、と思う気持ちもありました。
何人かメンバーが抜けると、キワマリ荘に足を運んできてくれた人たちが見れるものが減るわけじゃないですか。その時、有馬さんが「仙台から来るのにも往復1800円くらいかかるから、ギャラリーの入場料は無料だけれど、それだけかけてきてくれた人たちにそれだけの価値を持って帰ってもらわないといけない。」という話をしていて。その時は、この一拠点しかないし、だったらせめて各部屋埋まっていた方が「見た」っていう気持ちになるし、コンテンツが一つでも多くあった方がいいな、と私自身も思っていたので石巻のキワマリ荘に加入して、2020年の1月から「mado-beya」というスペースをオープンすることになりました。

「mado-beya」 入口 -割と最近ですよね。石巻のキワマリ荘自体もオープンしてからあまり時間が経過していないですよね。

ちば Reborn-Art Festival2019の前とかは、山形芸術界隈※8の人たちの展示を楽しみにキワマリ荘に来ていて…。

-あの借り方すごくよかったですよね。いつ行っても何か見るものがあるっていうのは見ている側からは楽しいなと思いますね。東北はあまり県同士を跨いでアーティストの交流をするっていう機会があまりないと思うので、そういう意味でもすごくよかったですよね。

ちば やっぱりその時に交流もできて、みんなそれぞれ活動している人たちだけど、ここで出会えた縁っていうのが今後も緩やかに繋がっていけばいいなと思います。

-ここで、もう一度ちばさんの作品の話に戻りたいと思うのですが、ちばさんの作風はなぜこのような作風にたどり着いたのか…彫刻で人体を制作できないなと思ったという話についても詳しくお聞かせいただけますか。

ちば 彫刻だと基本が、最初人体から始まることが多いのですが、でも人間って目の前のこの「人」が全て完成していて、この人は自ら動いて、自らを更新していて、それが完成形だから作る私は手出しできないし、その人を象る、っていう風にしか考えられなくなってしまって。だとしたら、その人はそれで完璧だから、その人と関わるとしたら関係性かな、と思ったんですよね。だから「人」がいる場所を作りたいなっていう気持ちが最初ありました。

-その人はいないけど、その人がいたら完成する場所ということでしょうか。

ちば そうですね。「人」っていうのは私の想像の世界の「人」なんですけど、場所だったら、私もそこに入れるし、その「人」もきっと来てくれるんじゃないかなと思っています。人間って、体は生身だし、想像や観念の話だけでは完結しないと思っていて、生身の自分の体があった上で、その「人」と関わりたいっていう気持ちが強くて。だから、現実の「場所」を作りたいと思いました。
想像上の対象物、例えばぬいぐるみとか家族とか、アイドルっていう対象物と関係する場所やそれを想起する場所をモチーフに選んでいます。家族だったら部屋とか、アイドルだったらステージとか楽屋とか。

-最近はおばあちゃんの家を掃除して、そこにあるものの写真を作品にしていますが、彫刻から離れたのは何か理由があったのでしょうか。

ちば 記録的な意味もあるんですが、私は物が捨てられなくて…。感情移入してしまうんですね。だからぬいぐるみとか、おもちゃに命が宿るっていう話とか見られなくて、ただでさえ捨てられないのに、ぬいぐるみとかが意思を持っているなんて…っていうことが恐怖でしかなくて。そういうのが、お菓子の箱とかに対してもそういう気持ちがあるんですけど、最近は頑張って捨てるようにしているんですが…そういう性質があるので…。
家の片付けをする時に、明かに被災した畳とかピアノとかはボランティアさんが来てくれた時に「捨てちゃえー」という感じで捨てたりしていた時もあったんですけど、家はヘドロとかにまみれたわけではなくて、綺麗な海水に浸かって、部屋の中をかき回して、さーっと引いていった感じなんですよね。だからカビとか匂いとかも最初気にならなくて、綺麗なままで、服とかもちょっと砂がついているけどただの濡れた服みたいに見えていたので干していたりしていたんですよね。兄がいるんですけど、兄が濡れた服とかを干して置いちゃったんですよね、捨てるものだとはきっと思えなかったんだと思うんです。
おばあちゃんは一階にお部屋があって、おばあちゃんも捨てられない人だったので、部屋に物がギチギチにあったんです。服もなんでこんなにあるんだろう、っていうくらいあって…。捨てずに服とかを干したあと、衣装ケースとか段ボールにまたいれてしまったんですよ。そういう物もあるし、飾り物とかも捨てずにテーブルとかに乗っけたり…だからそもそもテーブルも捨てていないんですよね笑
元の場所に戻すっていう感覚で、でもさすがにちょっといらないだろうっていうものもたくさんあるし…そういうことを考えるとキリがないし、混乱してしまうし。だからせめて捨てやすくするために一旦、写真を撮って、そしたら後々捨ててもいいかな、っていう気持ちになるかな。と思って写真を撮り始めました。

2021年/《untitled (SALAD OIL)》

2021年/untitled シリーズ展示風景/mado-beya 

「mado-beya」の企画は3ヶ月ごとに考えているんですけど、年間の予定を考えていてなんとなくzineの展示ができそうだなと思っていたときに奥堀さんが詩を書いているし、zine作ろうっていう声がけを前からしていたんですけど、そうなったときにミシオくんもzineを出しているし、平野くんもzine作ってるみたいだから声かけよう、ってなった流れで自分も撮っている写真をzineにしたらいいかなと考えてzineの展示をしたんですよね。その時に、作品としてもみれる写真だよっていう風に見に来てくれた人が言ってくれたんですよね。まだ自分の彫刻と写真の作品がつながるところまでは完全には行ってないんですが、写真はzineの展示の時に「写真は写真だけで展示できたらいいかもな」くらいに思っていたんです。やっぱり「mado-beya」っていうスペースがあるのが大きくて、ある時、展示してほしいなと思っていた人が展示できないかも、となった時に「自分の写真出してみよう」となって写真の展示をやってみたんですよね。これから自分の写真と思考が結びつくのか、どうなのか…っていうところなんだけど、今年の 5 月に盛岡の cyg アートギャラリーで展示した家をテーマにした彫刻作品とつながるところもあって…。
この「手つかずの庭」の企画展とほぼ同時期にプロジェクト FUKUSHIMA!での展示も始まるんですが、それも中崎透さんに呼んでいただいて…自分がcygアートギャラリーで出していた「くすんだベール」という彫刻の作品と「くすんだベールの干渉」というzineに使用していた震災後当時の家の写真と「海とカモシカ」で使用していた写真の3つで展示してみないか、という打診をいただいて、ちょうど自分もそういう考えがあったので、中崎さんの後押しもあり、彫刻作品と写真の作品を一緒に展示してみようとなりました。

2021年/《くすんだベール》

zine「海とカモシカ別冊 くすんだベールの干渉」

zine「海とカモシカ 02」-私としては、ちばさんの彫刻の作品と写真の作品が同じ空間にあっても違和感なく入ってくるな、と思いました。ちばさんの作品は「記憶」とか「思い出」とかがベースなのかな、という風にステートメントを読んで思っているんですよね。こういう昔のものや、誰かの家族の記憶とかに触れると、同時に自分の思い出とかとも接続されていく感覚になりますし、彫刻は彫刻で日常的に触れるものがモチーフとしてあるので、そこはすごく親和性が高いんじゃないかなと感じています。あと、ちばさんの写真の作品の中で多分ちばさんのおばあちゃんが「ふみえちゃん写真」とか手書きで書いたものも混じっているんですけど、そういうのを見ると自分ではない家族の日常とか、生活とかがちゃんとあるんだ、っていうのを感じてグッとくるんですよね。

ちば たからもの、とか書いてありますよね笑

-これからも石巻では制作活動は続けていく予定なんでしょうか。

ちば そうですね。今、仕事辞めて数ヶ月おやすみする期間があって…。自分が根詰めて一企業で仕事をしていた時とはやっぱり気持ちが変わるんですよね、仕事をしていない自分になると。今は制作に割く時間を結構とっているので、空白の10年の間の「これ知らなかったな」とかそもそも20代で全然勉強してこなかったなということを振り返って、本とか読んだり勉強したりしてインプットするのが楽しいなと思っています。今は結構制作寄りに傾いていて、これからもそういう風にやっていければいいなと思っています。
街なかに「石巻のキワマリ荘」以外のアートの拠点もできて、20代の人たちも増えてわちゃわちゃやっているのもいいなと思っていますし、そういうところには人が集まってくるんじゃないかなとも思うし。そういう場所が自分の生活圏内にあって、自分も拠点として活動できるような場所としてあるっていうのが環境的に自分にとってはありがたいなと思っていて、自分がここでやれることがあればやっていきたいなと思っています。Reborn-Art Festivalがあるから人が来るっていう感覚もあって、人が来てくれるのは流動性もあって一過性のようでもあるけど、その中に出会いもあるからこの流れをすごく大事にしたいなと思っています。

-自分たちよりちょっと上の世代のアーティストの人がいると、若い世代のアーティストも相談しやすいと思うんですよね。先輩のポジションっていうか。

ちば あんまり偏らず、各世代バランスよくいる感じでいいですよね。
関わる人が単純に増えてくれるといいですよね。

-関わる人が増えると、相談できる人も増えていいなと思いますよね。

(2021年7月31日 収録) text:山田はるひ


※1 中崎透-美術家。1976年茨城県生まれ。武蔵野美術大学大学院造形研究科博士後期課程満期単位取得退学。茨城県水戸市を拠点に活動。

※2 日和アートセンター-2012年3月から2014年7月末まで、宮城県石巻市の中心市街地に開設していた文化芸術拠点。

※3 黄金町-横浜市にある黄金町エリアマネジメントセンター。黄金町は「アートによる街おこし」を推進しており、展覧会やアーティストのレジデンスなどが盛んに行われている。

※4 團良子-彫刻家。ちばふみ枝が企画する「mado-beya」の展示にも参加。

※5 チフリグリ-ギャラリーチフリグリは仙台市宮城野区にあるギャラリー。「チフリグリ」とは cheerfully=愉快に快活に、grin=笑うを、カタカナ読みにした言葉。「コレ」という固定観念のない空間を運営している。

※6 ビルド・フルーガス-「ほら、鳥が飛んでいる…(エスペラント語)」という意味を持つ。最先端のアートシーンを追いかけるのではなく、独特でユニークなアートシーンが生まれる場所、そして、そこで活動を行っているアーティストに注目し、様々な交流を図ることを目的にしたプラットホーム。

※7 GALVANIZE gallery-「石巻のキワマリ荘」一階部分のギャラリースペース。GALVANIZE (ガルバナイズ)の意味:電気を通して刺激する、治療する。駆り立てる、活気づける、活性化する。トタンを英語で、galvanized ironやGalvanized sheet。Luigi Galvani(イタリアの解剖学者1737~1798)の名前から来ている。オーナーが電気屋さんである、建物の外観がトタンである、街の活性化の三つからGALVANIZEとなった。

※8 山形芸術界隈-山形ビエンナーレ2016期間中に開催されたアートの市「芸術界隈」(ディレクター・三瀬夏之介)から派生した芸術運動体。「石巻のキワマリ荘」では2018年に年間を通して展示をするというプロジェクトを行った。

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ちばふみ枝

1981年、宮城県石巻市生まれ。2006年、武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻彫刻コース修了。同年、「ニュー・アート・コンペティション of Miyagi 」に入選。その後、都内を中心に作品を発表。2011年、震災を機にUターン。翌年には地元石巻での初の個展「くすんだベール」を開催。震災体験を共有するクライストチャーチと宮城のアーティストたちの協働企画「 Shared Lines 」に2012年より携わり、せんだいメディアテークでのグループ展と翌2013年のカンタベリーミュージアムでのグループ展に参加。2017年、アーティストの有馬かおる氏が立ち上げたGALVANIZE Gallery 初の企画展にて個展「serendipity」を開催。「石巻のキワマリ荘」内に自身が企画運営を行うアートスペースmado-beyaを2020年1月にオープンし、拠点として活動。窓、カーテン、扉、壁、階段などのモチーフに、記憶の中の風景を組み合わせた造形を特徴とする。レリーフを紐で連結する方法で自立させることで、仮設的な場としての彫刻を制作している。

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