2017/11/06 16:41

 私たちのホームグラウンドは,諏訪神社を中心に拡がる諏訪山公園一帯で,<諏訪山公園グランド>,<金星台>,<ビーナスブリッジ・ビーナステラス>を指します.

 最寄駅は,市バス⑦系統“諏訪山公園下”すぐ,また,市営地下鉄“県庁前“北に徒歩15分の位置にあります.

 なかでも金星台は,諏訪神社の南東に接していて,陳舜臣が“神戸ものがたり”で「神戸を一望できる手頃な場所である」と記述しています.

 

(1) 誰の所有地だったのか?

 この金星台一帯はかって,中宮・花隈・宇治野・北野等六ヵ村の共有地だった.中宮村は,諏訪神社氏子だけの村で戸数6戸だったと伝えられている.

 この共有地は,諏訪山温泉発見に端を発して小野組の関戸由義が買収し,明治5年前田又吉(京都ホテル創業者)が“常盤楼”を建設.これには三田藩主“九鬼隆義”の支援があった.明治7年小野組の破産により大蔵省の財産区になり,昭和23年神戸市に寄付される迄は地域の財産区だった.

 この間,「諏訪山会館(紅葉館)」「諏訪山遊園」「諏訪山動物園」として地域の憩いの場であった.明治初期の土地買収は居留地開発を巡って、小野組・三田藩の志摩三商会・福沢諭吉・白洲退蔵等が深く関わったと云われている.また,昭和23年返還の際,東に隣接する鈴木商店由来の追谷墓地も含まれた.更に,返還の条件に“区公会堂建設”があり,今の勤労会館に至っている.

 

(2)金星観測の石碑.

 この石碑は,明治7年12月9日 フランス人による金星太陽面通過観測がこの地で実施されたことを記念して,100年後の1974年に建立された.この金星観測は,当時,横浜・長崎・神戸,に観測拠点が設けられた.横浜にはメキシコ隊,日本海軍.長崎にはフランス本隊・アメリカ隊だった.神戸は,フランスの予備隊として置かれたのだが,長崎の当日天候が悪くて十分に観測できず,神戸のデータが採用された.観測員は,フランス人ドラクロウ,助手はフランス留学生の清水誠だった.この清水誠は,フランス留学中に学んだ知識がマッチ開発に役立ち,明治8年(1875年),東京において日本で最初のマッチ製造工場を操業した.

 だからこの場所を,金星を観測したことから”金星台”と呼ばれるようになった.

 

(3)金星太陽面通過観測

 この写真は,明治7年12月フランス人による金星太陽面通過観測がこの地で実施された様子.

 金星は,太陽と地球の間を584日毎に通過する.しかし,金星の公転軌道面は地球のそれとは3.4度ほど傾いているために,太陽-金星-地球が完全一直線に並ぶ機会は意外に少ない.そのめったにない機会が、1874年(明治7年)にあった.この観測の意味は,当時の天文学では地球-太陽間の距離(1天文単位)が正確にはわかっていなかった.そこで,日面上を通過する金星を地球上の各地で正確に観測することによって,天文単位を正しく算定できるというハレーの理論に基づき観測した.この機会に、当時世界中の科学先進国が国威をかけ、世界各地に金星観測隊を送り出したという訳だった.

 下の写真は,神戸市中央区・地域の学校などと協力して”すわやまの会”が,平成24年(2012年)6月6日に開催した観測会風景です.

 次回の金星日面通過は,101年後の2117年12月11日だそうです.

 

(4)海軍営之碑

 この碑は,勝海舟が14代将軍徳川家茂神戸来訪を記念して元治元年(1864年)に作り,神戸海軍操練所敷地内に設置しようとした.しかし,操練所は閉鎖となり,完成していた高さ2mもあるこの碑は,海舟の友人であった神戸の豪商・生島四郎太夫に預けられ,海舟の意向から一時は生島の邸宅内に埋められていたらしい.

 その後半世紀が経ち、大正4年(1915年)に土中から掘り起こされ,ここ金星台に移設された.複製品は,神戸市中央区メリケンパーク公園にある.

 なぜ,勝海舟の碑がここ金星台に移設されたのか?よく分かっていない.

金星観測隊は,フランス隊だった.江戸幕府は,フランス海軍と親交があった.

意外と,金星台は,“勝海舟”がキーワードだったかもしれない.

 

(5)孫文潜居の地

 1913(大正2)年8月,袁世凱打倒の第2革命に敗れた孫文は,日本に亡命しようとしたが当時の犬養首相など日本側は上陸を許さなかった.しかし,孫文は船で神戸に到着し,当時の川崎造船所社長の松方幸次郎(松方コレクション)らの手引きで,夜陰に紛れ川崎造船所から上陸し、諏訪山の常盤花壇別荘に8月9日-8月16日の間,身を潜めていた.

 この史実の100年目,2013年8月,潜居していた常盤花壇別荘を見下ろせるこの金星台に,孫文記念館・神戸市・すわやまの会を中心とした地域,によって銘板を設置した.

 当時の兵庫県知事は,服部一三だった.当時の孫文は日本政府にとっては“招かざる客”であったが,服部は何かと便宜をはかっていた.8月15日別れの宴を開き,「つまれても猶もえいづる春の野の若菜ややがて花ぞ咲くらん」と詠んだ.服部は,ラフカディオ・ハーンや,六甲山の開祖A・H・グルームらと,非常に親しかったと云われている.

                            (金星台紹介終わり)

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