2018/01/25 18:43

1月31日発売の正田圭著「サクッと起業してサクッと売却する」無料一部公開第三回です。

残すところあと三日となりました。

このプロジェクトを支援されてくださっている方、そしてご興味ある方の判断材料になれば幸いです。

 

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「お金」か「時間」か?
お金と時間について、多くの人たちが勘違いしているようだ。
すぐにお金と時間を交換したがる。先ほども話した通り、「雇われ」体験に酔って、時間を売って金にするという「洗脳」をされてしまうからだ。
そのため、「お金よりも時間の方が大切」とか「自分の時間は無料」とか、そんな話をしたがる。
お金と時間は交換できるものではあるが、交換だけしていても何も産み出さない。お金も時間も、両方作り出すものなのだ。
お金が大事か、時間が大事かという質問は、そもそも質問の設定が間違っている。ごみ箱に何を入れてもごみになってしまうように、質問が間違っているとどんなに考え抜いても正しい答えは手に入らない。
あなたが設定しなければいけない問いは、「お金も時間も両方手に入れるにはどうしたらよいだろうか」だ。
実は、この話をしたいのは学生だけではない。むしろ、バイトやインターンをこなしながら大人になっていった、すべての世代の皆さんにも言いたい。
あなたたちも、時間の切り売りをしてしまっていませんか?
サラリーマンとして会社から給料をもらっているからダメだとか、自営業者だから大丈夫だとか、そういう話をしているのではない。
自分の時間をお金に換えるということをしてしまってはいないかということだ。
実は、これは学生やサラリーマンだけでなく、自営業者にも言えることだ。
実際、ほとんどの自営業者は時間の切り売りをしてしまっている。
本書は、ある意味で働き方改革の本だ。就職しているとか、自営業者だとか、学生とか、そんなことは関係なく、自分の時間をお金に換えるとか、お金を時間に換えるとか、あっちを立てればこっちが立たないみたいな発想から脱却するための、根本的な働き方改革をしようという提案だ。
お金も時間も確保する。そのための指標として、29歳までに1億円という目標を立ててみた。実際のところ、あなたが30代だろうが40代だろうが50代だろうが、そんなことはどうでもよく、お金も時間も両方手に入れるための戦略をきちんと考えようということである。
そして、その戦略は、連続起業家という生き方にある。
起業家などという職業はない
ところで、僕は「起業家」という言葉に少し違和感を持っている。便宜上、自分も起業家という言葉を使っているし、本書でも起業家という言葉は使わせていただくが、「起業家」という職業は厳密に言えば存在しない。そもそも、起業家という「肩書き」が流行り始めたのも、割と近年のことだと思う。
 例えば、耳鼻科医と内科医がいたとして、どこかでばったり会って「あ、同業ですね」と言っているのは想像がつくが、飲食店の社長とIT起業の社長を同じ起業家という職業でひとくくりにしてしまうのは、いささか乱暴な気がしてしまう。
豆腐屋のおやじとソフトバンクの孫さんが「同じく1丁(兆)2丁(兆)と数える起業家同士ですね」なんてしゃべっていたらもはやギャグだ。
一昔前の、いわゆる昭和の時代は、日本人のほとんどが自営業者であった。
そのため、起業したところで「ふーん」くらいの感じだった(はずだ)。となりの鈴木さん家が八百屋を始めようが、豆腐屋をやっていようが、何もすごい話ではないだろう(当時のことはよくわからないが、教師になったとかのほうが、「すげぇ!」ってなったんじゃないだろうか)。
しかし、今はサラリーマンが増えた。三世代サラリーマンなんてのは、まさに今どきではなかろうか。しかも、今は奥さんも共働きなんて家も増えているため、三世代のうち5人がサラリーマンやOLなんて家も珍しくもなんともない。
 こんな時代だからこそ、「起業家」なんて言葉が使われるようになったのであろう。
起業する人が相対的に少なくなってきたから、珍しくてスゴイって感じになってきたのだ。八百屋とか、電機屋とか、洋服屋は存在するが、起業家というのはちょっと違う。
「起業家」という言葉がピンとこないとするならば、何ならピンとくるのか?
「起業は手段である」ということだ。
もう一度言う。起業とは「手段」なのだ。それを「起業家」という枠組みに当てはめようとするから、「起業家」はこうあるべきだというフレームワークができてしまい、手段としての起業を見失ってしまう。
起業とは、自己実現のための手段である。そのため、起業するときはこうあるべきだとか、どうあるべきだとか、そんなことは本来考える必要のないものである。
僕自身、最初の起業の理由は、単純にお金が欲しかったからだ。これを言うと批判を浴びることもあるが、「お金が欲しくて起業して何が悪い」って今でも僕は思っている。
他に誰もやる人がいないから、自分で業を起こすのが起業だ。
世の中に使いたいサービスがまだ存在しないから、自分でサービスを作り上げるのも起業。
誰も雇ってくれないから、自分で働く場を作るために業を起こすことだって起業。
誰も自分を金持ちにしてくれないから、自分で自分を金持ちにすることだって起業。
仲間内でわいわいしながら仕事したいからという理由で、みんなで仕事をする場を作るためだって起業は起業だ。
要は「意識高い系の起業」である必要なんてないということだ。
「意識低い系の起業」、上等である。
僕の知り合いに、自分の子供が障害を患っている人がいた。この方は、残念なことに昨年癌でお亡くなりになってしまった。その人は、障害を患っていて就職することができない息子のために、当時働いていた会社を辞め、一緒に仕事をするために起業した。
これは、いわゆる「意識高い系の起業」ではない。サービスの革新や、テクノロジードリブンな要素は存在しない。しかし、「美しい起業」であると僕は感じた。
本来あるべき起業とは、このようなことを言うのではないかと思う。そこに崇高な理念はいらない。自分とその周辺が幸せになるための起業でじゅうぶんだ。
何度も言うが、自分のやりたいことを実現するための手段が起業なのであって、起業というものを難しく、あるいは神聖なものとして捉える必要はない。起業とは、自分が思い描く世界と現実の世界との間に橋を架ける作業のことを言う。それ以上でも以下でもない。
なんかやりたいことがあって、それが今ある社会のインフラを使って解決できなかったり、面倒な手順を踏むなぁと思ったりしたら、それだけで起業したらよいのだ。それが低俗なモノであろうと、自己中心的なモノであろうと、何でもよい。
人に迷惑がかかるようなものだったり、意味がないと思われたりするものであったならば、自分が辞めなくとも、儲けることができず、世間が無理やりにでも辞めさせてくれる。
起業とは、もっと自分勝手であるべきなのだ。

崇高な理念は後からついてくる
起業について僕がもっと言いたいのが、崇高な理念は後からついてくるということだ。
初めて起業して「この業界の非合理性を解消したい」とか「世の中を変革したい」といった青くさい起業家の発言をネット記事などでよく見かけるが、僕はそういう発言を一切信用していない。「初めて起業したのにその業界の何がわかるんだ?」「世の中を変革したいって、そもそもあなたは世の中をわかっているのか?」……なんてひねくれたことを思ってしまう。
例えば、子どもがおもちゃを欲しがるとする。欲しい欲しいと駄々をこねる。そして、そのおもちゃを買ってもらうものの、数日たつとそのおもちゃに飽きてしまい、次のおもちゃを欲しがっている。
もちろん、その子どもは本当にそのおもちゃが欲しかったのだろう。その場では心の底からそう思っているから駄々をこね、泣き叫んで自己主張したのだ。
おもちゃを欲しいという気持ちには嘘偽りはないのだが、一生そのおもちゃを大事にするかというと、そんなことはない。
初めて起業する起業家の理念も、そんなもんだと思う。そもそも社会に出たことがないのに、社会に対して問題提起ができるわけもなければ、課題を発見できるわけもない。
崇高な経営理念を思いついたから起業するなんて話は、薄っぺらい。
経営理念やミッションは、起業して、幾度もの経営の危機を乗り越えながら作り上げ、練り上げることによって出来上がっていくものだ。
僕自身、「意識低い系の起業」の極みだった。僕のことを知らない人のために説明しておくと、僕は15歳で起業した。
僕の家はごく平凡なサラリーマン家庭である。父親は会社勤め、母親は専業主婦で、とくに裕福だったわけではない。
僕は親の希望で、経営者や医者の子息が通う名古屋の中高一貫校に通っていた。そこで友人たちとの「経済格差」に愕然としたのが起業のきっかけだ。
 洋服一つ買うにしても、どこかへ遊びに行くにしても、友人たちと僕とではお金の使い方がまるで違った。なかには親からクレジットカードを持たされている友人までいた。
 持ち物も違った。ふだんの服装は制服だが、シャツやベルトはみんな好きなものを身につけていた。僕の友人たちはグッチのベルトをしていたり、バーバリーのシャツを着ていたりした。通学用のカバンがエルメスやプラダというのも珍しくはなかった。もちろん、僕はユニクロ一直線だ。
 彼らの持ち物は高級ブランド品ばかりだったため、そんな環境に囲まれて、僕もおのずと高級ブランドに興味を持ち始めた。
「僕もお金持ちになりたい」
 その一心で起業した。
 なので、当時、僕に明確な経営理念やミッションがあったわけではない。経営者を親に持つ友人を見て、「お金持ちになるなら、会社を経営しなきゃ」と感じたから、会社を作った。小遣いを増やしたい同級生のなかにはパチンコやスロットをする人もいたが、僕は会社経営をすることを選んだというだけの話だ。
 その後は、作った会社をなんとか回していこうとがむしゃらに働いた。損失を出したこともあるし、詐欺師にだまされたこともある。失敗を数え上げたらキリがない。
 会社のことに一生懸命で、学校の勉強はおろそかになっていた。
 ただし、起業はおもしろかった。
 うまくいかないこともあったが、知恵を絞ればその分、成果がお金となって返ってくることだってあった。月に数千万円単位の売上をコンスタントに上げられるようにもなった。だから、大学進学よりも働くことを優先した。
 こんな風に進んでいったのが僕の起業人生だ。
ここには、世界を変革するような崇高な理念はないかもしれないが、「生き残るのだ!」という強い情熱だけはしっかりと存在した。
起業するのに崇高な理念はいらない。それよりも、自分が起業によって何を得て、何を実現させたいのか、そういう自分の気持ちや欲望としっかり向き合うことの方が大事だ。
その気持ちや欲望は、「お金を儲けたいから」「起業家って格好いいと思うから」「この事業をやってみたいから」といったことでよい。
プロ野球選手になりたいという子どもに「なぜサッカーでもボクシングでもなく、野球なのか」と問い詰める人はいないではないか。「イチローが格好いいから」。それでいいのだ。
 お金というと、拝金主義的な思想を感じ、嫌悪感を抱く人は多い。しかし、お金はあなたの人生の選択肢を広げてくれる、便利な手段なのだ。
人はもっとお金のために起業してもよい。起業の理由を問い詰めるような空気が薄れれば、起業して会社を売る文化も広がるかもしれない。
「連続起業家」という存在
ここまでの話をまとめると、お金と時間の両方を手に入れるには、起業して会社を売却するという戦略が最も近道であるということだ。
起業して会社を売却するというスキルを身につけることができれば、もっともっと自由に生きることが可能になる。
そして、このような人のことを「連続起業家」(シリアルアントレプレナー)と呼ぶ。
仮にあなたが起業して、その会社を売って29歳で1億円を手に入れ、旅に出たとする。その旅から帰ってきて、再び起業をする人は意外に多い。僕の知り合いは、引退するといって60歳で会社を売却した翌月、再び起業していた。
起業は自転車に乗るのに似ている。一度乗れるようになったら、乗り方は忘れない。
起業して売却するという手段を一度覚えたら、繰り返しやろうとする人は多い。
僕はたいして著名な連続起業家ではないが、著名な連続起業家だと、メルカリの山田進太郎さんやキャンプファイヤーの家入一真さん、nanapiの「けんすう」さんがいる。
3人とも、会社を売却した後、また新しい会社を立ち上げている。そして、2度目に立ち上げた会社の方が、最初に立ち上げた会社よりも大きくなっている。
彼ら以外にも、実はたくさんの連続起業家が存在している。僕自身、この連続起業家という存在をもっともっと世に広めていき、連続起業家を増やしたいと考えているため、本書の執筆に合わせて知り合いの連続起業家たち30人に協力を仰ぎ、ウェブ上で「連続起業家対談」を公開している。
これはウェブ上で見ていただけるが、いろんなウェブサイトを回るのが面倒だという方は、申し込んでいただければ販売する。巻末にURLが貼ってあるので、そこからダウンロードしてほしい(2017年12月に行ったキャンプファイヤーさんのクラウドファンディングで販売していたものなので、無料でお渡しするわけにはいきません。繰り返しになりますが、ウェブで検索しまくれば全て無料で見られるので、お金を払うのが嫌な人は検索がんばってください)。
連続起業家たちは、自己実現の手段として、起業が最もシンプルかつ有効な方法だということを理解し、体感もしているため再起業するわけだが、他にも知られざる理由がある。
実は、起業は「数を重ねるごとに有利になっていくゲーム」なのだ。
若い人でも、一度会社経営に成功した人は、再起業する。初めて起業するときよりも、2回目の起業のほうが、ダントツで有利に進められる。