(前回からの続き)
さて初フィリピン到着時の思い出はこのくらいにして、いよいよビジネス視点でのフィリピン進出の経緯の話をさせていただきます。
この1990年当時、日本から進出していた日本企業は製造業ではすでに多かったものの、ソフトウェア開発業では富士通さんくらいでまだほとんど手つかず状態でした。
そのため、フィリピンのナンバーワン校である国立フィリピン大学を視察して多くの理工系学生と話したところ、もし日本の企業がソフト開発会社をフィリピンに設立したらぜひ就職したいと言ってくれる人が大多数で。
もちろん話半分だとしても、日本で新卒採用では学生の興味を引くのに大苦戦している中小企業にとってはとても衝撃的かつ魅力的でした。
そこで早々にフィリピン大学のコンピュータサイエンス学部の主任教授を現地副社長に招き、マニラ首都圏に子会社を設立の準備を開始。
期待通り、フィリピン大学のコンピュータサイエンスやエンジニアリングの学部の成績上位者から順に採用できるという夢のような入れ食い状態で優秀かつ若いエンジニアを確保することができ、フィリピンでの現地法人の稼働がスタート。
当時の主事業はプリンター・複合機向けのソフト・ハードウェア開発であったため、顧客は日本企業であっても、そのマーケットはワールドワイドでした。
そのため、日本語ができなければいけないというネガティブな反応よりも「英語が話せる開発エンジニア」としての評価を高くいただくことができ、早い段階からフィリピンオフショア開発、そしてフィリピン人エンジニアが大きく活躍し始めました。
(続く)