皆さん、こんばんは。
皆さんは、甲骨文字という物を知っていますか?
『漢字の話 -キラキラネームの秘密』には、文字についても触れていますので、今夜は、それにまつわる歴史悲話について、お話ししようと思います。
「甲骨文字」とは、殷代晩期(前14~前11世紀)の、主に河南省安陽の「殷墟」から出土した、王室の占いに用いられた亀甲と獣骨のことです。
殷の王は甲骨を用いて吉凶を占い、占いが終わると、問いの内容、或いは、得た内容をその上に記しました。亀甲と獣骨なので甲骨です。
その発見には、こんな話があります。
清朝末期の光緒二五年(1899年)、国子監祭酒の地位にあった王懿栄(おういえい)は、マラリヤに苦しんでいました。国子監は、大学を統括し科挙の試験を司る役所で、祭酒とは国子監の最高責任者の事です。東京大学の総長のような地位です。
医師の処方に従って、家人に薬を求めさせていましたが、たまたま買ってきた薬を調べているうちに、゛龍骨゛と呼ばれる骨片に何か書かれているのを見つけました。王懿栄は骨片に書かれている物が、籀文(ちゅうぶん)や金文よりも、更に古い時代の文字と考えました。
そこで、「商代卜骨」と名付けて買い集め、1900年までに、前後三回、千五百余片を収集しました。
この頃、列強は中国の分割に乗り出しており、ドイツが1898年に山東省の膠州湾(こうしゅうわん)を租借すると、続いて、ロシアが遼東半島、イギリスが九龍半島・山東省の威海、フランスが広州湾をそれぞれ租借し、その地域を中心に鉄道の敷設などを行っていました。米国は中国の分割には加わりませんでしたが、同年、ハワイを合併し、フィリピン群島を領有しています。
この各国の侵略に対して、中国国内には排外思想が広まっていました。
当時、清朝から邪教と認定された白蓮教(びゃくれんきょう)という秘密結社がありましたが、その分派の義和拳(ぎわけん)が1895年頃から山東省で流行していました。彼等は、呪いを唱え、義和拳と棒術を身に付ければ、矢にも鉄砲にも傷つかない、と信じていました。
光緒二六年(1900年)、義和団は「扶満滅洋(満州王朝を助け外国人を滅ぼす)」を唱えながら、鉄道・電信を破壊し、教会堂を焼き払いながら、北京方面に向かいました。
一方、朝廷の高官達は、密かに義和団を援助し、その力で外人を中国から追放しようと考えていました。
義和団はやがて北京に入城し、列国外交団の居留地である交民港と北京の教会堂に包囲攻撃を加えました。この攻撃で、ドイツ公使と日本書記官が犠牲となりました。
北京に孤立した外交団と教民を救うため、英国を始め各国海軍陸戦隊は天津から進軍しましたが、義和団と清朝正規軍に包囲されて退却しました。
朝廷では国際事情に明るい栄禄らが、外国と事をかまえるのは得策ではない、と警告しましたが、六月二十一日、列国艦隊が大沽砲台(たいこほうだい)を攻撃したという報せに接して、西太后は宣戦の詔を下しました。
同年七月二十日、八カ国連合軍(義和団討伐のために派兵した列強八か国、英・米・仏・露・独・伊・日・澳)が北京に入城し、外交団や居留民を救い出しました。
朝廷が列強に宣戦布告すると、王懿栄(おういえい)も衆を率いて東便門で応戦しましたが、北京はあっけなく陥落し、西太后や光緒帝は陝西省(せんせいしょう)の西安に落ち延びました。
帰宅した王懿栄は、
「私は義として、いたずらに生きながらえる事はできない」
と服毒したものの死にきれず、井戸に身を投じて果てました。
翌年九月、清国と列強は「北京議定書」を結びました。これにより、列強は巨額の賞金と、北京に守備兵を駐屯させる権利を得、北京は半植民地状態に陥りました。
王懿栄が亡くなると、収蔵していた甲骨は、全て劉鉄雲に譲られ、劉鉄雲はその中から資料として有用な物を拓本に取り、光緒二九年(1903年)『鉄雲蔵亀』を出版しました。
その『序』には、甲骨文は「夏殷(夏は十七代439年続いたといわれる王朝)」の遺物であり、古文字の研究の助けとなり、且つ、経史の内容を証明することができる、と述べられていました。
この出版によって、中国のみならず、各国が甲骨文字の存在を知る事になるのです。
少し長くなりました。
本日が皆様にとって、好い一日でありますように。