2022/02/01 04:56

二月最初の記事は、嘘のような本当の話を一つ。

○通訳人

私は某県警察で、登録通訳人という仕事をしています。外国人の犯罪が起きた時、警察での取り調べや、地方検察庁・地方裁判所での手続等の時に通訳をする仕事です。事件が発生すると警察から電話で呼び出され、仕事が始まります。

これからお話しするのは、今から二十年近く前に某県で起きた、嘘のような本当の話です。その頃は今と違って、警察官が、何かをして捕まった人物を平気で怒鳴りつけていましたし、お茶を出したり、自分の煙草を吸わせたりもしていました。

さて、その日の晩、警察からの電話に出ると、知り合いの刑事さんがこんなことを言います、

「先生、たぶん中国人だと思うんですが、今から来てもらえますか?」
「はい、大丈夫です。たぶんというのは?」
「パスポート不携帯で、片言の日本語は話せるようです。最初は中国人だと言っていたのですが、今は韓国人だと言い出しまして。でも、中国人だと思うんですよね。」

と気まずそうに言うので、

「大丈夫です。違っていたら、他の通訳さんと交替してもらって結構ですよ。」

と言って受話器を置きました。

登録制で仕事をするところは、ファストフードのバイトと一緒ですが、捜査上の責任を負うので「通訳人」は「先生」と呼ばれます。面はゆいのですが、これも仕事のうちと割り切っています。

○刑事課

一般的な外国人の犯罪は、刑事課で扱われます。警察の建物にもよりますし、当時と今とでは組織も若干違っていますが、刑事課はたいてい二階にあって、学校の教室一つ分か、或いは、それ以上の広さを仕切りなく使っています。そこに盗犯(窃盗事件)・強行(殺人・恐喝・強盗・誘拐)・暴対(暴力団・組織犯罪対策)・鑑識等の担当課が入っています。意外なところでは、選挙違反などもここで扱われます。取調室は、刑事課の入り口から一番奥に五・六室、新しい警察署であれば、部屋の奥にあるドアを通った先に十数室ならんでいます。

この時も、警察署に入って階段を上がり、刑事課の扉を開いて直ぐのカウンターで、「中国語の通訳で参りました○○です。」、と名乗ると、近くに座っていた警察官が、部屋の奥に四・五室並んだ取り調べ室の一室に案内してくれました。

部屋の扉は大きく開かれており、四・五人が中を覗いています。

案内してくれた警察官が、「通訳の先生がいらっしゃいました。」、と中に向かって声を掛けると、覗いていた四・五人が一斉に振り返って私を見てから、ドアの両側に分かれました。

○取調室

中からは大声が聞こえてきます。

「だから、お前は何人(なにじん)なんだよ。中国人でも韓国人でもパスポートは必要なんだよ。お前のパスポートは、どこにあんだよ。」

取調室は、六畳(?)ほどの広さの縦長の部屋で、奥に事務机を二つ付けて一つにした物が、一方を壁に付けて置かれていました。机の向こう側には、三十代半ばと思われる外国人が、パイプ椅子に座っています。彼の後ろには鉄格子のはまった大きな窓があります。反対側には四十代と思われる取調官が、入口を背にして座っています。取調官の座る椅子は、警察署によって、パイプ椅子だったり事務用の回転椅子だったりしますが、この時はパイプ椅子だったように思います。入口近くには、鞄や資料を置くための、横長の机が一つ置かれています。

通訳をするときには、取調官と被疑者の両方の顔を見る事ができるように、机の横に椅子を置いてもらう事にしています。ちょうど、麻雀卓の一面が壁に付いているような座り方です。机の上には、取調官の筆記用具と、アルマイトの灰皿が一つ、それと、お茶か水の入ったプラスチックのコップが二つ置かれていました。

私が取調室に入った時には会話が続いていたので、邪魔をしないように、入り口付近で話を聞いていると、

「…ワタシ、ニホジン。」
「はぁ?お前は日本人か。日本人なんだな。」

中国人犯罪が珍しかった頃の事です。取調室に連れてこられてからずっと嘘をついていたと思われる人物は、まだ抵抗を続けているようで、

「ソウ、ワタシ、ニホジン。」
「あーそうかい、じゃ何て言うのか言ってみろよ。お前の名字は何て言うんだよ。」
「…タッ、タナカ…、タナカ。」
「田中って言うんだな、田中なんだな。そうかよ、じゃあ、下の名前は何て言うんだ。お前は田中なんあんだ。」

取調官の大きな声に対して、男は小さく答えました、

「ア…アオキ」
「はぁ?」
「…アオキ」

私は緊張して声を掛けられず、四十代と思われる取調官は、一瞬絶句した後に、押し殺した声でゆっくりと、

「…お前の名前は、田中青木って言うんだな?」
「ソ、ソウ」

堪忍袋の緒が切れると言いますが、この時は本当に「ブチッ」と音がした気がしました。取調官はいきなり立ち上がり、怒鳴りつけ、

「てめー、ふざけんじゃねえぞ、そんな名前の日本人はいねぇよ!」

入口の扉は開いたままだったので、取調官の罵声に刑事部屋全体が静まり返りました。

相当気まずい状況でしたが、私は取調官が着席するのを待って挨拶をした後、中国人に向かって、

「私の話が分かりますか?中国人ですか?」

と尋ねました。すると、中国語を聴いて安心したのか、あっさり認めたので、取調官に対して

「中国人です。話が通じるようです。」

と言って着席しました。肝心のパスポートについては、

「ヨーロッパではパスポートが無くても、各国を自由に行き来できるんだろう?別に、パスポートなんて無くてもいいだろう。俺は、ちゃんと金を払って来たんだ。」

などと言っていましたが、話を聞くうちに、どうやら事業に失敗して借金を抱え、一獲千金を狙って、知り合いや親戚から費用をかき集め、蛇頭(じゃとう)に頼んで密入国をしたので、パスポートを持っていないのでした。

その後、この人物は中国から戸籍と身分証・顔写真を取り寄せ、身分が証明されて後、強制送還となりました。

○冠夫姓 

私は長い間、取調室で「田中青木」と名乗るなど、苦し紛れの嘘にしても酷いことを言う物だ、と思っていました。しかし、2012年に「薄煕来(はくきらい)事件」が起きたことで、漸く中国には夫婦の姓を重ねる習慣がある事を知りました。薄煕来の妻 谷開来の名を、中央電視台が「薄谷開来」と報じていたからです。 

中国には「冠夫姓(かんぷせい)」という習慣があります。結婚後に主に女性の姓に男性の姓を冠する、というものです。

あの中国人男性は、咄嗟に「冠夫姓」を思ったのかもしれません。それにしても…ねぇ。 

それでは、今夜はこの辺で失礼します。

本日が皆様にとって、好い一日でありますように。