2022/02/11 05:16

皆さん、今晩は。

今夜は、前回の「漢音」と「呉音」に続いて、『漢和辞典』の漢字の音は、耳で聞いた物を、いい加減に辞書に採用しているわけではない、というお話です。

〇大漢和辞典

『大漢和辭典(だいかんわじてん)』という書物があります。親字五万余字(親字とは見出しの漢字です)、熟語五十三万余語を収録した゛世紀の大漢和゛と言われる辞典です。昭和の初め頃に諸橋轍次(もろはしてつじ)先生が編纂を始められ、昭和七年に原田種成(はらだたねしげ)先生も編集委員として加わり、昭和三十五年五月に、第十三巻の索引が刊行されました。およそ漢文で書かれた書物を読むときには、必ず必要になる辞典です。

原田種成著『漢文のすゝめ ー諸橋『大漢和』編纂秘話』によれば、当初、諸橋先生は、簡野道明著『字源』(大正十二年刊行の辞典)の、二倍程度の物を作ろうと計画されていたようです。しかし、多忙な諸橋先生が、方法や進行について編集委員達に任せきりにしていたのをよいことに、出典・引用文は一つでよい、一句だけでよいと言われていたものを、『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』や『駢字類編(べんじるいへん)』に適切な引用文が三つも四つもあり、詩句も対になる句があるのに、手抜きのようなやりかたは嫌だと、引用文を二つ三つ、引用句も少なくとも二句以上にして、更に断りも無く、清朝考証学家の代表的学術随筆である、顧炎武(こえんぶ)の『日知録(にっちろく)』や趙翼(ちょうよく)の『陔余叢考(がいよそうこう)』などから、考証的な長文も引用しました。少しでも内容の良い辞典にと、情報量は膨らみ、完成は遅れに遅れ、ようやく昭和十八年九月に第一巻が発行されましたが、それで出版の苦労が終わったわけではありませんでした。同書によれば、

「続いて第二巻の印刷中、二十年二月二十五日の空襲のために、大修館書店は罹災して原本・原稿・資料は残らず灰燼(かいじん)に帰し、あの壮観だった印刷工場の六万本の組版も焼けて巨大な鉛の塊と化してしまった。そしてやがて敗戦の日を迎え、諸橋宅は幸いに戦災を免れ、数通の校正刷は安全な場所に疎開して無事であった。しかし敗戦後の我が国は連合軍の占領下にあり、国家の再建すら憂慮され、大方の国民は住むべき家を失い、食料は極度に不足し、その日その日の生活に追われている状態であったから、私たちが青春時代の情熱を傾注してこしらえあげた『大漢和』は再び日の目を見ることはないであろうと思っていた…。」

その後、戦後の復興と共に大修館書店も甦り、三十五年の『大漢和辞典』の完成によって、諸橋先生は四十年十一月に文化勲章を授与されました。

『大漢和辞典』の特徴は、辞典を作る際、熟語とその説明を、詩経・論語・孟子・老子・荘子…など誰でも知っている書物だけではなく、陔余叢考や説文通訓定声などの、昭和初期にはあまり知られていなかった書物を使用し、熟語の出典を明確にし、説明を加えているところにあります。原田先生は、戦後は時間が無く、書き直したい部分も多いと仰っていました。旧仮名遣いで部首の排列も特殊ですが、「漢文」を読む時には出典が明らかなので、索引代わりにもなる便利な辞典です。押しも押されもせぬ、昭和を代表する大著と言えます。

さて、『大漢和辞典』の音は、中国の

『玉篇』(ぎょくへん、文字の発音や意味を記した字書、梁の顧野王(519~581年)の著)
『広韻』(こういん、字書、北宋の陳彭年らの編、1008年に完成)
『集韻』(しゅういん、音韻書、宋の仁宗(在位1023~1063年)の時に司馬光等が勅を奉じて編集した)
『康煕字典』(こうきじてん、字書、四十二巻、清の康熙帝の命により、多くの学者を動員し六年を費やして編纂し、康熙五十五年(1716年)に完成・印行した)

等々に基づいて、一つ一つ丁寧に決められています。「漢音」を右に、「呉音」を左に、併記の必要のない物は、一音のみ記載されています。

〇反切

ところで、日本の仮名のような文字を持たない中国で、どの様に漢字の音を伝えていたのかと言えば、後漢末に考案されたと言われる「反切(はんせつ)」という方法を用いていました。これは、一つの漢字の音の説明をするのに、二つの漢字を用いる方法で、「○○の反」とか「○○の切」と書かれているので「反切」と言います。

例えば、『大漢和辞典』で「文」という文字をひくと、親字の「文」の下に、

[集韻] 無分切

と書かれています。 [集韻] は書物の名で、『集韻』から取った事を示しています。「無分切」を訓読すると「無文の切」となります。これが反切で、上字は子音を、下字は母音を表しています。もう少し説明を加えると、上字のつづり始めの子音を「声母」と言います。下字には-aiのような、一つまたは二つ以上の母音の場合と、-atや-anのような母音の後に子音がつく場合もありますが、それら全てを「韻母」と言います。

ある文字の音を表現するのに、その文字と同声の声母と同韻の韻母を結合させて音を表現します。この様に書くと複雑ですが、つまり、「文」の音を表現するのに、同声「無(bu)」の声母(b)と、同韻「分(fun)」の韻母(un)を結合させて、「ぶん(bun)」という音を出します。だから「文」の漢音は「ぶん」になるのです。もう一つ、

練、[集韻] 郎甸切

「郎甸の切」の場合は、
「郎(lou)」の声母(l)+「甸(ten)」の韻母(en)を合わせて=(len)
なので「練」の音は「れん」になるのです。

以上は漢音に従って音を出しましたが、中国語の場合には、上字が声母、下字が韻母と声調を表すので、

「郎(láng)」の声母(l)+「甸(diàn)」の韻母と声調(iàn)を合わせて
=(liàn)なので、「練」の中国語音は「liàn」になります。

つまり、小学校で習う「文」や「練」の音は、実は宋の仁宗(在位1023~1063年)の頃にまで遡る事ができる歴史ある音なのです。「漢音」や「呉音」は、それぞれに音体系を有しており、『広韻』や『集韻』から導き出されています。

こうして、漢字の音は、中国の書物から一字づつ決められていますが、これとは別に日本古来から使われている「音」もあります。例えば、「蜜(みつ)」「乳(にゅう)」「明(めい)」等々です。これらは、中国の字典には無いので「慣用音」と言われています。

漢字の「漢音」や「呉音」は、いいかげんに決められているわけではない、というお話をしました。

長くなりました。

本日が皆様にとって、好い一日でありますように。