2022/02/18 05:26

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〇甲骨文字の発見(二)

甲骨文字は、清朝末期の光緒二十五年(1899年)に、国子監祭酒の地位にあった王懿栄(おういえい)が発見しました。彼は当時マラリヤに苦しんでおり、その薬の中の゛龍骨゛と呼ばれる骨片に何かが書かれているのを発見しました。王懿栄は、骨片に書かれている物が、籀文(ちゅうぶん)や金文よりも、更に古い時代の文字であると考え、そこで「商代卜骨」と名付けて買い集め、1900年までに、前後三回、千五百余片を収集しました。

光緒二十六年(1900年)、八か国連合軍が北京に入城し、朝廷が列強に宣戦布告すると、王懿栄も衆を率いて東便門で応戦した物の、北京はあっけなく陥落。西太后や光緒帝は西安に落ち延び、王懿栄は帰宅したのち、「私は義として、いたずらに生きながらえる事はできない」、と服毒したものの死にきれず、井戸に身を投じて果てました。

王懿栄が亡くなると、収蔵していた甲骨は、全て劉鉄雲に譲られました。劉鉄雲は、羅振玉(らしんぎょく)の勧めもあって、その中から資料として有用な物を拓本に取り、光緒二十九年(1903年)に『鉄雲蔵亀』を出版しました。この書に付された羅振玉の『序』には、甲骨文は「夏殷(夏は十七代439年続いたと言われる王朝)」の遺物であり、古文字の研究の助けとなり、且つ、経史の内容を証明することができる、と述べられています。

この『鉄雲蔵亀』の出版は、中国のみならず、各国に甲骨文字の存在を知らしめる事になりました。当時、中国に関係していた米国人フランク・へーリング・しゃるファン(Frank Herring Chalfan 1862年~1914年)、英国人サミュエル・クーリング(Samuel Couling 1859年~1922年)、英国駐天津領事ライオネル・チャールズ・ホプキンス(Lionel Charles Hopkins 1854年~1952年)、ドイツ人リチャード・ウィルヘルム(Richard Wilhelm 1873年~1930年)等が、合わせて五千片余の甲骨を買い求めています。

日本人による収集は羅振玉よりも早く、例えば、三井源右衛門は一度に三千片を得、林泰輔(はやしたいすけ)氏は1905年から収集を始め、1928年までに、日本人が収集した甲骨は、凡そ一万五千片に及びました。

江上波夫著『東洋学の系譜』によれば、甲骨文字の真贋が問題視され、白眼視されている時期に、林氏は、明治四十二年(1909年)に『清国河南省湯陰県発見の亀甲獣骨に就きて』という論文を発表し、甲骨文字を精査考証し、中国古代研究史上、きわめて貴重な資料である事を論証しています。これは、我が国の学会に衝撃を与えたばかりでなく、羅振玉を刺激して『殷商貞卜文字考』を執筆刊行させる契機となりました。

龍骨の出土地についても自らも収集を始めた羅振玉は、1908年に、骨董商からその出土地を聞き、林氏よりも一年遅れて、1910年に発表した『殷商貞卜文字考』の中で、甲骨の出土地が、史書に「殷墟」と記されている河南省安陽の小屯(しょうとん)であり、『史記・殷本紀』と比較して、歴史的資料価値のある物である、と証明しました。因みに、林泰輔氏は、『大漢和辞典』の諸橋轍次先生の師匠に当たります。

殷は、紀元前1700年頃~前1100年頃まで存在した王朝です。「殷墟」は『史記』に出てくる地名で、殷王朝の中期以降から最後の紂王(ちゅうおう)までの約三百年間、小屯付近に都が置かれていましたが、長く伝説時代と思われていました。

羅振玉は、 当時の多くの官僚がそうであったように、日本の力を借りて清を復興させようと考えていました。彼は溥儀(ふぎ)に従って満州国に行き、満州国参議・満日文化協会会長等の要職に就きました。そのため、新中国建国以降の評判は芳しくはありませんが、保守的な思想を持っており、清室に忠誠を尽くした人物でした。

1896年に、上海で私塾「東文学社(東文は日本語の意)を創設して日本語の教育に務め、その後、京師大学堂農科大学(現 中国農業大学)の学長に就任しました。辛亥革命が起きると日本に亡命し、1919年に帰国。1928年に、溥儀の招聘に応じて旅順に移り住み、1940年5月に亡くなるまで、この地で過ごしました。林泰輔氏の論文に刺激を受け、1911年~1933年にかけて、甲骨文の資料を編纂・出版し、伝統的な国学の研究に、大量の新資料を提供しました。

その後、甲骨文字の研究は、「東文学社」で学んでいた王国維(おうこくい)に受け継がれ、彼によって、小屯は、殷の第二十代の君王盤康(ばんこう)が定めた都であり、この地で八代十二王が政務を執っていた事が明らかになりました。

亀甲獣骨の表面からは、およそ4,500種の文字が発見され、約1,700文字が解読されています。その中には、象形を始め指事・会意・形声等の文字が含まれており、文字として相当進んだ段階にあった事が分かっています。つまり、殷の盤康以前の文字の状態は明らかになってはいないものの、漢字の歴史は、更に古い時代にまで遡ることができる、と予想する事は難しい事ではないのです。

〇増え続ける漢字

ところで、漢字は古いということ以外に、もう一つ特筆すべき点があります。中国で漢字が生まれたように、我が国にも日本製の「峠」「辻」「鰯」等の国字があり、また、唐の則天武后は「圀(国)」「埊(地)」等の則天文字を作りました。

どの時代に幾つの漢字が存在したのかと言う問題は、歴代の辞書を調べれば容易に判明します。殷末に4,500だった文字は次第に増加し、後漢の許慎(きょしん)の著した『説文解字(せつもんかいじ、100年~121年の間に成立)』では9,353字、三国時代の魏の張揖(ちょうゆう)が編じた『広雅』(隋の煬帝の諱(いみな)が煬広なのでそれを避けて『博雅』とも言います)では18,151字、南朝梁の顧野王(こやおう、519年~581年没)の著した『玉編』が22,726字、北宋の陳彭年らの編で1008年に完成した『広韻』には26,194字、清の康熙帝(こうきてい)の命により、六年を費やして康熙五十五年(1716年)に完成・印行した『康煕字典』には、42,174字が収められています。そして、日本で作られた『大漢和辞典』の親字は五万字です。

殷の甲骨文字4,500 字
後漢『説文解字』9,353字
三国時代『広雅』18,151字
南朝梁『玉編』22,726字
北宋『広韻』26,194字
清の『康煕字典』42,174字
 昭和『大漢和辞典』五万字

殷墟から発掘された「甲骨文字」と、許慎の著した『説文解字』の間には、約千四百年の隔たりがあります。許慎は後漢の人物なので、『説文解字』には、秦の始皇帝の統一した文字である「小篆」と、彼の時代に残っていた秦以前の文字が使われていますが、「甲骨文字」と「小篆」には、「鶏」や「奚」など殆ど同じ文字が存在しており、また、占卜の文面から考えて、周・秦・漢と「甲骨文字」の表す言語の間には、いちじるしい断絶はないと言われています。

私は、留学中に北京の「中国歴史博物館」に出かけた事があります。そこで、殷の二十二代 武丁の時代の亀甲が展示されているのを見ました。大きな腹側の亀甲に、数行にわたって文字が書かれており、出土した時からそうなのか、朱色に染められた文字までありました。それを見た時には、ヒエログリフや楔形文字は既に滅んで伝わらないのに、現在にまでこの文字の流れが伝わっているのか、と思ったのを覚えています。

殷の時代に約4,500だった文字は、昭和に編纂された『大漢和辞典』では五万字に増えています。例えば「釔(イトリウム)」「鈦(チタン)」「鉀(カリウム)」等の元素記号を表す文字は、『康煕字典』には掲載されていないので、『大漢和辞典』は、元素記号については、『中華大辞典』から取っています。同書は収載の文字、およそ四万八千余字。『康煕字典』以降で最良の書と称されています。

甲骨文字を起点として、現代にまで流れ続ける漢字は、時代の変化に応じながら、今も増え続けているのです。

長くなりました。

運が良ければ、あと一回、掲載しましょう。

今夜はこの辺で。

皆さんにとって、好い一日でありますように。