監督のご挨拶
はじめまして ドキュメンタリー映画監督の原村政樹です。1985年以来、40年近く、農業をライフワークに作品を創り続けてきました。埼玉県で唯ひとつの村となった東秩父村でIターン、Uターンした若者たちが村のお年寄りたちと共に、村の貴重な暮らしの営みを未来に残そうと活動をしている日々の撮影を2019年5月から 続けています。
3年に及ぶ撮影で50日余り、その他、打合せなどで東秩父村を訪れた日数を含めると100日を超えました。そこで発見したことは驚きの連続でした。恐らくこれだけの時間をかけなければ決して見えない山里に暮らす人々の深い精神性に触れたのだと思います。
東京一極集中に代表される大都市への人口過密が、コロナ禍に象徴されるように、膨大な弊害が顕著に現れています。2040年までに過疎地の市町村の約半数が消滅するとの試算さえあります。山里の自然は、水や空気など、街に暮らす私たちにとっても大切な場所。そこに人が住まなくなれば、貴重な自然環境は荒廃してしまいます。この映画を制作しようと思い立ったのは、そうならないために、山里に暮らす若者が増えて欲しいと願ったからです。その想いを込めてタイトルは「若者は山里をめざす」としました。撮影と編集はほぼ終了し、最終編集作業を行って、今年、5月には完成します。
経歴:1957年千葉県生まれ。上智大学卒業後、1988年、東南アジアの熱帯林破壊をテーマにした「開発と環境 ~ 緑と水と大地そして人間」(JICA企画)で監督デビュー。医療・看護・建築・伝統文化・国際協力などの短編映画・テレビ番組の制作を経て2004年「海女のリャンさん」(文化庁記録映画大賞・キネマ旬報ベストテン第一位)で長編記録映画の製作を開始。以後「いのち耕す人々」、「天に栄える村」、「無音の叫び声」(農業ジャーナリスト賞)、「武蔵野 ~ 江戸の循環農業が息づく」、「お百姓さんになりたい」、「タネは誰のもの」、「食の安全を守る人々」など、農業をテーマに作品を発表。
映画「若者は山里をめざす」製作委員会からのメッセージ
「変わるものと変わるべからざるもの」
東秩父村の若者たちの取り組みを描く原村監督の新作「若者は山里をめざす」 。こ の製作と上映活動を支援すべく3年の準備を重ねてきました。コロナ禍のなかで、山里で活動する若者達の思いと行動、村人との交流を描くことで、現代に生きていく意味を探る原村作品にご関心を持っていただきたいと切望しています。
川越市で生まれ育ち現在も居住する自分にとって、比企丘陵は故郷の一部です。東秩父村の山々や道の駅にはこれまで何度も訪れ和紙を含めた産物を愛でてきました。今回、原村監督の取材撮影に同行して改めて、公共交通の不便さと、だからこその四季の移り変わりの美しさ、山里だからこその村人たちの生活力(底力)を目の当たりにしました。若者たちの取組みが、忘れられがちだった山里の価値を蘇らせコロナ禍で閉塞した現代に問いかけています。
映画に登場する若者たちの姿に、「都会からの逃避じゃないか」「生活して行くのはそんな甘いもんじゃ無い」という批判もあるでしょう。さらに「本当に地域が活性化するのか?地域起こし協力隊は税金の無駄遣いじゃないか」との投げかけも聞こえます。しかし、世は効率だけではかれません。短期間で答えがでるものでもありません。いつの時代も変わらぬ若者たちの純粋な思い、山里の価値を素直に受け入れるなかで懐かしくかつ明るい未来が開けてくると確信しています。
「不易流行」という言葉があります。私は、これを「時の流れに応じて新しきにチャレンジし変化を取り入れて行くことも大切だが、変わらないヒトとしての根本精神や暮らし方、自然のありようも一体となって大切にすることだ」と解釈しています。一次的な「流行」に傾斜しがちな今の時代に、変わらないもの変わるべからざるもの=「不易」の意味を再考すべきだと感じています。山里を舞台に、若者の生き方を通して現代における「不易」とは何かを描く原村監督作品にご期待ください。多くの方のご支援を、どうぞよろしくお願い申し上げます。
経歴:映画『武蔵野』のプロデューサー兼製作委員会副会長として、川越市・所沢市・狭山市・ふじみ野市、三芳町に広がる平地林の四季と循環農業を描く原村政樹監督の映画製作と上映活動を支援。一般社団法人農山漁村文化協会(農文協)のグループ会社で、雑誌・書籍・全集・小冊子などの企画編集製作を手がける株式会社農文協プロダクションの代表取締役を務める。 長年にわたり農文協編集部で全国の農業農村を取材してきた。農的暮らしを提案する生活雑誌「季刊・うかたま」の初代編集長。企画プロデューサーとして出版・映像・Webの企画編集製作のほか、地域づくり・農業教育・食育等イベント事業(展示・コンクール・研修会)等の企画運営に、現在も関わり続けている。川越市在住。
映画の制作意図
戦後、長い年月をかけて育んできた山里の伝統的な生業や暮らしは急速に姿を消していきました。今はその頃とは比べものにならないほど便利で、しかも沢山の物に溢れた「豊かな暮らし」を手に入れたことは疑うことができません。しかし、怒涛のごとく押し寄せる急激な変化の中で、激烈な競争に曝され、経済効率重視で人間らしさを奪われ、息苦しさを感じている人は少なくないように感じます。
そうした今だからこそ、自然を慈しみ、人と人の結びつきが強く、お互いにが助け合いながら生きる山里の暮らしを、山里に生きることを選んだ3人の若者を通して伝えたいと3年前、撮影を始めたのです。
過疎地でこのような動きが他にもあります。そんな中でこの村を選んだ当初、まだ、若者たちの活動が始まったばかりでした。すでに実績のある場所とは違い、若者たちが手探りで試行錯誤しなければならない時期だったのです。皆目、見通せない状況にありましたが、それだからこそ、長期撮影をすれば、様々なドラマが起こるはずだと考え、敢えてリスクのある取材を始めたのです。
何度も「このまま続けても何も見えてこないかも知れない」という不安に駆られながらも、その気持ち打ち消し、我慢に我慢を重ねて見つめていくうちに、様々な変化が生まれてきました。すでに実績のある場所での撮影では出来ない、ドラマがあるリアルなドキュメンタリーとなっていったのです。
映画の内容について
東秩父村は都心から僅か60キロ、都心まで電車で1時間の場所に標高600メートルの山々が連なる山間の村です。村には便利さの象徴であるコンビニはありません。山腹に点在する殆どの集落には高齢者ばかりが暮らしています。近い将来、消滅してしまうと悲観的です。しかし都会とは対照的に山里ではコロナ禍の今も、マスクをしている人は殆ど見かけません。そんな村に都会暮らしを捨てた若者が数年前から暮らし始めました。
彼らは何故、便利な都会を捨てて山里で暮らしているのか。勿論、新型コロナの不安から逃げようとの消極的な理由ではありません。人と自然が共存し、人と人が繋がりあう山里の暮らしに希望を見出しているのです。
ー 村に戻ってきた女性
東秩父村出身の西沙耶香さん 、30歳。5年前の25歳の時、東京での勤めを退職しUターンで戻ってきました。彼女は10代の頃、都会から見捨てられていたような「何もない村」にコンプレックスを感じていました。しかし「埼玉県での消滅可能性都市No.1」に指定されたことに反発、ふるさとを消滅させたくない、ふるさとに輝きを取り戻したいと、就職難の最中、入社した会社を1年で退職して村に戻り、ふるさとの魅力を伝える活動を始めたのです。
村に戻った西さんはそれまで挨拶程度しか付き合いがなかった村の老人たちの元へ通い始めました。そして老人たちの様々な生きる知恵に驚かされました。山の自然を活かしながら逞しく生き抜いてきた老人たちのパワーに圧倒された。西さんは昔の暮らしの中に現代社会を乗り越えるヒントがあると確信したのです。
とりわけ西さんの心に響いたことは、ゆったりとした時間の流れでした。何事にも焦らず、人と人の繋がりを大切にした生き方、確かに都会とは比べものにならないほど不便な暮らしですが、なぜか心にゆとりがある。しかも老人たちは孤独ではない。いつも笑顔を絶やさない。そんな暮らしぶりに惹かれた西さんは、生涯、この村で生きる決心を固めたのです。
村で途絶えていた祭を復活させようと西さんは集落の人達と3年間話し合い、実現にこぎつけました。人手が足りない集落ですが、周辺の地区の人達や村を離れた家族の人たちが大勢、結集し、6年ぶりの祭の復活となったのです。
東京で暮らしていた時とは正反対に、西さんは今、何事にも焦らずゆっくりとしたペースで取り組んでいます。それは急速なテンポで変化する現代社会とは違った山里に流れる時間の流れに身を任せて生きようとする暮らし方が大切だとはっきり見えてきました。
― かつての暮らし(生きていた共同体)
昭和30年代までは、山腹の集落に山道しかなく、水道やガスも無く、自給自足に近い暮らしでしたが、当時を生きてきた村人たちは、その時代を生き抜いてきたから、今、どんなに困難が起きても戸惑わないと言います。東日本大震災の時、道路は寸断し、水道も電気もガスも止まって陸の孤島となりましたが、渓流の水や薪、そして食料の備蓄も十分あったので、困らなかったと言います。
災害で道路や橋が寸断された時、かつては集落の全員が総出で修復作業をしました。昔は村の行政の力が弱かったから、自分たちで生活を防衛してきた、あの頃は沢山の人が住んでいて活気があった、共同体が生きていたと話します。様々な矛盾を抱えつつも、貧しい人も共に暮らしていくことができました。
― 東京育ちの青年
3年前に東京から東秩父村に移住した高野晃一さん、25歳。大学卒業後、都内の銀行に就職しましたが、希望した仕事には付けず、上司のパワハラにも会い、憂鬱な日々を送っていました。そこで心機一転、東秩父村の地域おこし協力隊に応募して採用されました。東秩父村を選んだのは景観の素晴らしさと同時に、東京からも近く、村に暮らしながらも、必要があればすぐに東京へ出かけることができるからでしだ。山深い自然にありながらも、東秩父村は決して隔絶した山間僻地ではなかったのです。
ところで東秩父村はユネスコの無形文化財に指定されている手漉き和紙の細川紙で有名ですが、それ以外にこれと言った特産品がありません。高野さんが移住する2年前から村の老人たちがノゴンボウという野草を使った特産品の開発を進めていましたが、後継者が見つからない。将来が危ぶまれる中で高野さんに希望が託されたのです。
当時、高野さんは23歳、この若さで自分が必要とされていることにやりがいを感じました。成果が中々出ない中でも、高野さんは1年、2年、3年と諦めずに取り組み続けました。地道に努力を続ける高野さんの姿を見て、応援する人たちも増えていきました。決して一人ではないことに高野さんは勇気づけられ、村の伝統食を現代風にアレンジして、人気を博するまでになりました。
今年3月には地域おこし協力隊の任期が終わりとなりますが、高野さんはこの村に永住する決意です。村の農産物を使って、村ならではの食文化を発信する事業を目指しています。
― 隣町から移り住んだ青年
和紙職人を目指している市村太樹さん、26歳。市村さんは今、村の和紙工房で働いています。村の伝統の和紙作りが途絶えるのではないかと、村は4年前、後継者を育成しようと募集、それを知った市村さんは研修生となりました。隣の寄居町出身の市村さんの自宅まで車で20分の近いですが、移住を決意、今は村で土地と畑付きの家賃2万円の広い家に住んでいます。
市村さんの同級生が皆、東京で就職する中で、彼は「都会で効率重視の仕事をするより、地元から必要とされている仕事をしたい」 と選びました。和紙が出来るまで非常に手の込んだ根気のいる作業の連続です。根気のいる仕事です。楮という樹木から和紙が出来るまで、何段階も異なる作業を手仕事で、しかも時間をかけなければ完成させることが出来ません。は山里の自然の恵みを活かす知恵と技が凝縮しています。そこに人と自然が向き合う本当の姿があると思えます。
市村さんは「テレビでは紙漉きの場面だけが紹介されるし、見学に訪れる人たちも紙漉きばかりを見に来るが、本当は地味で今期のいる事前の仕事を知って欲しい」と語ります。その言葉を受け、和紙がどのように出来るのか、映画では細かく紹介します。自然の恵みを暮らしに活かすとは、どんなに大変なことか、その苦労が自然を大切にしようと生きて来た伝統社会の精神があることを伝えたいと思います。
― また新たな若者がやって来た
撮影も終盤になって、新たな若者が村に移り住みました。京都の芸術系の大学で和紙の技術を学んだ足立桜さん(23歳)が大学卒業すぐに後東秩父村に飛び込みました。同級生たちが皆、和紙では食べていけないと別の道を歩む中、足立さんはたったひとり、和紙職人を目指し、東秩父村にやってきたのです。彼女は「1000年前の和紙の古文書が残っていることの素晴らしさを実感し、和紙を消滅させてはならい」と貴重な山里の文化を未来に残そうと意欲的です。今は先輩の市村さんが働く村の工房で修業の日々を送っています。
これまでの活動
ドキュメンタリー映画監督になって35年、その間、短編映画、テレビドキュメンタリー番組を数多く制作してきました。その後、20年前から自主製作の長編映画の制作をスタートし、これまでに13本の作品を創りました。中でも農業をライフワークにしてきました。その幾つかをご紹介します。
2006年 「いのち耕す人々」 これは1986年から20年かけて完成させた作品で、山形県高畠町の有機農業の軌跡を描いたものです。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第4位)
2009年 NHK・ETV特集「よみがえれ里山のコメ作り」 耕作放棄田の再生に賭ける福島県と新潟県の農家を描いたものです。
2010年 テレビ東京・カンブリア宮殿「日本一のコメ作り」 コメのコンクールで5年連続、金賞を受賞した有機農家・遠藤五一さんのコメ作りを苗作りから収穫までの1年を丹念に追った番組です。
2011年 NHK・ETV特集「原発事故に立ち向かうコメ農家」 福島県で放射能汚染ゼロを目指す農家集団と東電と闘う農家を追ったものです。(農業ジャーナリスト賞受賞)
2012年 「天に栄える村」 福島県天栄村で原発事故を乗り越えようと動く農家集団と彼らを応援する市民の姿を描いたもので、原発事故以前の2009年から4年間かけて完成させました。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第5位受賞)
2014年 NHK・戦後史証言プロジェクト「日本一のコメ作りを目指して」 稲作を主軸に日本の農業の歩みを敗戦から現代まで伝えた番組です。
2016年 「無音の叫び声」 日本を代表する農民詩人、木村廸夫さんの詩から、戦前から現在までの村の歴史を描いた作品です。木村さんの詩のテーマの一つに<山(自然)があるから人間は生きていける>という村の伝統的な価値観があり、そのことに迫りたいという思いが、次の作品に繋がりました。( 書籍「無音の叫び声 農民詩人・木村迪夫は語る」 と農業ジャーナリスト賞W受賞)
2018年 「武蔵野 江戸の循環農業が息づく」 私が暮らす地域の農村を舞台に、江戸時代から続く落葉堆肥農法を伝えました。平地の雑木林を舞台にしたもので、次回作は、山奥の村を描きたいと今回の映画の引き金になりました。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第6位)
2019年 「お百姓さんになりたい」 これも私が暮らす川越市に隣接する三芳町で、自然栽培農法を実践している明石農園の日々を描きました。農業を通じて地域で人々が共生する姿を伝えた作品です。
2020年 「タネは誰のもの」 種子法廃止、種苗法改定の動きの背景にあるグローバル化の問題に迫りました。(キネマ旬報文化映画ベスト・テン第7位 / 日本復興奨励賞受賞)
2021年 「食の安全を守る人々」 日本と韓国、アメリカに取材して、世界的に危険が認知されている除草剤や子どもたちの発達障害を引き起こす殺虫剤、そして流通が始まったゲノム編集食品の危険性に迫り、子どもたちが健康で健やかに育って欲しいとの願いを込めて 、 給食のオーガニック化の大切さを訴えました。
資金の使い道
現段階で編集は最終段階にあります。それをさらに質の高い作品にするためには、専門の映像スタジオで時間をかけて仕上げる必要があります。長年、テレビドキュメンタリーの制作に携わってきた経験からいうと、丁寧な仕上げをするためには、最低でも番組の3倍の時間をかけなければなりません。
また、映画完成後の上映活動を精力的に行って、出来る限り大勢の人達に観ていただけるような活動も展開したいと、今まで以上にエネルギーを費やす所存です。
そのために必要な資金をクラウドファウンディングで調達したいのです。
1)スタジオでの費用:100万円(スタジオ代60万円、ナレーション20万円、音楽20万円)
2)上映用素材作成費:40万円(DCP、ブルーレイ、DVD 予告編作成)
3)上映配給経費:110万円(チラシ・ポスター作製費<デザイン、印刷>50万円、配給会社発注費30万円、宣伝営業経費30万円)
4)クラウドファンディング手数料:22万円(税込み)
5)リターン経費:28万円
合計300万円(内自己資金100万円)
クラウドファウンディング調達目標金額:200万円
リターンについて
東秩父村はユネスコ無形文化遺産に認定されている細川紙(手漉き和紙)の村です。そこでリターンには映画のパンフレットや手漉き和紙の製品をお届けしたいと思います。また、映画の場面を再編集した短編映像DVDや本映画の上映権付DVDを提供いたします。
実施スケジュール
2月~4月:最終編集、宣伝材料作成、音楽作曲
5月中旬:映像スタジオでの仕上げ(本編集、整音、音楽・ナレーション収録、ミキシング)
5月末:完成。以後、上映配給活動スタート
最後に
現在、この映画の続編となる「山里の生業(仮題)」の制作中です。今回の映画では伝え切れなかった昭和30年代以前の暮らしを膨大に記録された報道写真とその当時を生きた方々の証言、さらに、今も嘗ての生業を継承している方々の技の、3本柱で構成する映画を目指しています。完成は2年後を目指しています。
さらに、今回の「若者たちは山里をめざす」は最終地点ではありません。映画完成して上映が普及して終わるのではなく、その後の村の変貌も私は追い続けます。ゼロから始まった山里での若い力がこれからどのような花を開かせるのか、5年、10年先を見つめて参ります。
<募集方式について>
本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
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