こんばんは、劇団みんわ座です。今日は江戸写し絵についてお話しをさせていただこうと思います。長文になりますが、よろしければお付き合いください。
西欧の映画誕生に百年あまりも先行した、江戸の映像劇
江戸写し絵は、場を共有する演劇の実存と即興性、そして映像の奔放な想像力とが融和した、新しい表現様式に途を開く芸能です。
もともと「写し絵」は、「蘭学事始」にオランダから日本への輸入が記載されている西洋のマジックランタンが原型です。それが江戸の盛り場「上野山下」で、一緒に持ち込まれたガラス絵の西洋の珍しい街や風景や麗人を映して評判を呼んでいました。それをみて、閃いた一人の男がいました。後に「池田都楽」と芸名で売り出した「高松熊吉」で、着物に絵を描く上絵師でした。
「上野山下」でこの興業を見た熊吉は、「こいつぁいける!」と閃き、本業は放って蘭学者を訪ね、わずか二年で技を覚えて興行を打ちました。
元々マジックランタンは、金属製で光源には、オイルで灯芯に火を点していました。金属製ですので、中に火を点していればマジックランタン自体は熱くなり、重たいから台に据え置いて、映像を映していました。
ところが当時の日本では、金属の圧延技術は充分でなく、それで金属ではなく、桐材でマジックランタンを作りました。木材では灯芯に、適度の幅をとれば燃えません。光源とレンズの性能はオランダに劣ります。その弱点を補ったのが、一台で映像を大きく映すのではなく、木製の幻灯器を四台、五台と作り、登場人物を大勢登場させる技術を工夫しました。
マジックランタンを、日本では「風呂」と呼んで、登場人物がそれぞれ自在に動く操作術を発展させました。輸入のマジックランタンよりも、遥かに表現力を向上させた「写し絵」がかくして誕生したのでした。風呂を抱えて演技者が舞台上で操作する自在性が、西欧のマジックランタンではできませんでした。あとで触れますが、アメリカの映画芸術科学アカデミーで高く評価されたのは、その独特な技術を開発した日本人の創造性になります。
それが享和三年(1803)春のことで、オランダ渡来の映像とは、およそようすが違うものになっていました。
日本は江戸の昔から、人形を精緻に動かす「絡繰りの技」を競って見せる伝統がありました。この写し絵にも、当然その絡繰りの技が生かされて、頭だけが瞬時に向きを変えたり、交互に足を交わす、映像のアップや美女が一瞬に夜叉に変化するなどの映像の絡繰り仕掛けに工夫を凝らして、オランダ渡来の映像に比べて、格段に進化させて映像で多彩に劇を演じました。説教節の大夫が「小栗判官照手姫」を語れば、毒手を飲まされて、身が変わり果てた我が夫とは知らずに、伊座車を引く照手姫に客が同情の涙を流し、江戸市中が騒ぎに沸き立って、神楽坂に江戸っ子が、押すな押すな、やれ押せ、やれ押せとばかりに客が群がったと、江戸の評判記がそれを伝えています。
三味線語りに、笛、太鼓、鉦の音曲が劇を盛り上げる、本格的な映像劇を二百年以上も前に、日本では演じていたのです。
2008年アメリカハリウッド「映画芸術科学アカデミー」に招かれて「リンウッドダン劇場」で上演。私たちを接待した担当者から、「この劇場のステージに立つことは映画人にとって名誉なことです。あなたはこの劇場に立った最初の日本人です」と告げられました。
終演には盛大なスタンディングオベーションをもらいました。
私たちは、日本の方たちにこそ、江戸の写し絵をご覧いただきたいと思っています。日本全国どこへでも巡業しますので、是非お呼びください!市町村や学校だけではなく、企業様の研修にも最適です。とてもよい刺激になります。演技者一同、ご連絡をお待ちしております。