2022/08/06 13:12

以下の文章は今春文系大学に入学された大学生からのプロジェクトに対するコメントで、この春高校を卒業したばかりとは思えない文章力です。
「翻訳」に関しては本文中説明不足でしたのでここで補足します。条件文をまず細切れにし、解答に直結する条件と与えられた条件で、未知のものを未知のまま式を立てます。ここがずるさです。まったく道筋を立てなくてもよいというのではなく、いくつかの式それだけでは解けないとき、式同士を結び付ける仲介を探し、結び付ける条件式を立てるという手続きを行っていきます。そのための訓練がこの講座です。重要なのは「全体を見渡して筋道を立てる」という考え方から、「この値があれば助かるんだけど、あっちの条件から持ってこれないかな」という部分な筋道探しに考えを切り替えることです。

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 以下に述べることは、数学の出来ないバリバリの文系からの感想に過ぎません。多少衒学的な議論が混在しているかも 知れないことを、ご容赦下さい。


❶数学的なイメージの養成

 本文では、数学的なイメージの養成の例として、マイナス×マイナスの計算を、オセロの碁の概念に結び付けることが挙げられていました。学科問わず、学習事項をイメージに結び付けることはとても大切である様に思います。英語でも、(僕の場合は、)英文法を、一イメージとして捉える試みとして、図式化してみると、記憶に鮮明に残る上、スッと「腑に落ち」ます。詰まるところ、勉強で大切なのは、如何にして「理屈」を「感覚」に落とし込むか、という点である気がします。

 しかしながら、学習内容をイメージ・感覚の域に落とし込むことは不可欠ですが、時々このイメージ・感覚が中立性を欠くことがあります。自分は、高校時代に、物理が得意な理系の友人が、しばしば「イメージ」という言葉を口にしていたのを思い出します。彼はイメージが大事だと言いますが、こちらがそのイメージを具体的に尋ねてみると、それを上手く言語化出来ない状態の様でした。自分の体験で言うと、少なくとも、英文法を感覚に落とし込む際、仮にその「感覚」を図式レベルで詳説することを求めるなら、これは個々人でどうしても個人差が出てしまいます。これは、論題の抽象性が上がれば上がる程そうです。

 従って、中学生にイメージを伝授なさる際は、色々な角度からの視点で考えた、色々なパターンのイメージをお考えになると、尚良いかも知れません。イメージが図式であろうが言葉であろうが、「一つの事象につき一イメージ」ではなく、「この事象は、AとかBとか、Cみたいなイメージ」といった風に、複数個のイメージを予め用意なさると、より円滑かも知れません。


❷「言い換え作業」と「単純作業」の分化

 本文では、数学が他学科に比べて、「問題の言い換え」の練習により特化している、という旨の記述がありました。ですが、これは国語の現代文や世界史の論述問題にも、充分に当て嵌まることの様な気がします。(理数系科目に於いては、この言い換えを「記号列」に置き換えさせる、というのが特色の様に思います。)表面的なやり方が異なっていても、本質では他学科に於いても同様に「書き換え」の能力が要求されると考えます。では、数学が、その独自の特性として担える思考の役割は何か?数学にしか担えない役割は何か?ーーそれは、「議論を展開して行く力」の養成だと思います。数学の素晴らしいところは、ある論題について、新視点を取り入れることで、先に先に議論を展開して行くことです。これにより、「目標を見据えた」実践的な問題解決能力が鍛錬されます。

 この「換言作業」は、本文では「翻訳」と呼称されています。本文では、翻訳さえ出来れば、「大きな問題全体の道筋を考える必要がな」い、としていますが、これはあくまで数学が得意な人からの目線ではないでしょうか?昔から理数の才能が皆無で、それ故大変な苦労を強いられて来た僕の様な人間にとっては、この「翻訳」の作業の段階で、既に莫大な知力を費やすことになります。「翻訳」は、当てずっぽうに山勘でやるわけには行きません。ある程度「ゴール」を見据えていないと、将来性のない暗中模索になってしまいかねません。この点、無意識にこの見据える作業を行えるのが理系で、出来ないのが文系な気がします。又、ここで言う「翻訳」の作業とは、「新視点を取り込んで、言い換える」ということに等しいです。何故なら、翻訳は、「Aという事柄は、こういう見方をしたら、Bと同じ意味だよね」という過程を、必然的に経るからです。しかし、この「新視点」というのは、実質的に「問題の道筋を考える」ことと同義な気がします。何故ならば、適切で無駄の無い「新視点」を思い付く為には、問題の全体像が見えている必要があるからです(はっきりとは見えていなくても、何らかの鋭い「勘」がいります)。


❸イメージと、物理の視点

 (自分は教育学や教授法の方面に、全く詳しくないですが、)由利さんのアイディアの画期性は、主観性を見くびらないことにあると思います。上述の様に、イメージというものは、図式であるにせよ言葉であるにせよ、多少の主観性を免れません。ですが、この「イメージ」があるのとないのとでは、学科の内容理解の度合いが大きく違って来ると考えます。あると、深く広く印象深く分かるが、ないと、授業がただの念仏に聞こえます。これは英語でもそうだと思います。由利さんは、ご自身の物理学者としての経歴を活かして、このイメージを養成することに貢献されるのでは、と思います。詳しいことは分からないので、余り多くは意見しかねますが、素人ながらに個人的に感じることを言わせて頂きますと、「物理が意味付けを非常に重視している学科である」ということです。このアカデミックな精神を以って、数学の学習事項の抽象的な本質を探るべく、イメージを創作し伝授するのは、本当に画期的で素晴らしいアイディアだと思います。これは、この点、確かに、従来の教育の盲点に焦点を当てた、補完的な試み、である様な気がします。


以上です。こんなお粗末な意見でも、少しでもご参考になる部分があれば、幸いです。失礼します。