ご挨拶
みなさん、こんにちは!
私は学生時代から管楽器奏者として音楽に関わり、サラリーマン時代の余暇のかなりの時間を音楽にとりくみ、30年前からは名曲創作史年表に取りかかり、気づいてみますと現在までに膨大な音楽史情報が蓄積されました。この度、音楽の楽しみを生き甲斐のひとつとしたい方のために、WEB上に音楽史年表情報を無料で公開するデータベース・システムの開発に取り組むことといたしました。
音楽は芸術文化の歴史の中で最も古く、古代ギリシャのギリシャ神話には竪琴を持った吟遊詩人オルペウスが現れます。ヨーロッパでキリスト教が広がると、教会ではグレゴリオ聖歌などが歌われるようになり、弦楽器やパイプオルガンなどの器楽も発達しました。中世、ルネサンス期を経てバロック期に至り音楽は劇的な進歩を遂げ、古典派、ロマン派を経て現代に至っています。バロック期からは各都市には教会の他に、音楽を演奏するための優れた劇場が建設され、現代にいたるまで古典派、ロマン派を中心とした多くの名曲が演奏され、また映画やラジオ、テレビ、オーディオ、インターネットなどのメディアの発達により、クラッシックという分野にとどまらず、ポピュラー音楽やジャズやラテンなど広い分野の音楽であふれるようになりました。
このように音楽は現代人に欠かせないものとなっていますが、音楽の歴史を振り返ってみますと、多くの作曲された音楽は時を経て、選りすぐりの優れた名曲といして繰り返し聞かれるようになっています。少し古い時代の名曲を聴くとき、音楽を聴くだけではなく、その音楽が生まれた社会の様子や作曲者の生活環境等がわかれば、さらに音楽への興味が増します。今日メディアの発達により、音源はCD、DVDなどの広がる中、多くの著作やSNSやインターネット上に情報はあふれていますが、多くの情報がインターネットなどから得られる現代において、音楽史年表についても更なる情報提供が求められるようになっています。
このような状況の中で、音楽を愛する皆さんに、音楽についてより多くの知識を得ていただき、より一層楽しんでいただけるように、名曲創作史年表として蓄積された音楽史年表をデータべース化し、インターネット上に無料で公開するシステムを開発することとしました。名曲創作史年表は現在、1350年頃から現代まで約600年にわたり、まさに大河のように成長してきた音楽史として、年表項目数約15000ステップ、作曲家数約200名、掲載楽曲数約6000曲からなっておりますが、今なお日々成長を遂げています。
データベース化にあたりましては、より信頼性、安定性の高いシステムを構築し、ユーザーのみなさまに安心して大いに利用していただくために、クラウドファンディングを利用させていただくことといたしました。
おそらく日本語による初めての音楽史年表データベースの構築とユーザーのみなさまへの無料公開となりますが、是非音楽史年表データベース開発プロジェクトにご参画いただき、更なる充実したデータベース・システムの構築にご協力いただきたく、よろしくお願いいたします。
音楽史年表データベース開発プロジェクト 代表 早川明
1.音楽史年表データベース(Hayakawa Music History Database)について
今回の音楽史年表データベースは約200名の作曲家の約6000曲を掲載しますが、主に日本で知られている名曲といわれる作品が中心となります。これらの作品の作曲年月日、初演年月日、出版日、あるいは改訂日など、あるいは作品の創作に関する作曲の動機や作曲者の社会的立場や人的交流状況などに触れて記載します。
過去に今日ほど、生き甲斐の必要性が高まったことはありませんでした。人生を心豊かに過ごすために、作曲家や作品についてより多くのことを知ることが、さらに音楽によって生き甲斐と安らぎを得られることにつながります。
2.音楽史年表データベースの構成
音楽史年表データベースは、上記の音楽史年表から得られた記事、これらの音楽史関連記事は写真、図表、地図などを使いなるべくわかりやすく記載されますが、記事とともに本編となる音楽史年表データファイルと作曲家別作品データファイルの2つのデータベースから構成されます。
音楽史年表データベース = 音楽史関連記事 + 音楽史年表データファイル + 作曲家別作品データファイル
(1)音楽史関連記事
音楽史年用データベースでは複数の作曲家の創作史を一元化されることにより、作曲者同士の創作における影響がわかり易くなり、相互影響に関する新たな発見も得られます。多くの作曲家は同時代以前の作曲家によって作曲された楽曲を聞き、影響を受け作曲を行っています。また、音楽史においては膨大な歴史的事実が存在しますが、これまで見過ごされてきた重要な発見も期待できます。これらにつきましては音楽史関連記事として掲載しますが、下記にいくつかの記事の例につきまして説明いたします。
【ベートーヴェン・交響曲第9番の「歓喜の歌」の主題の源流について】
ベートーヴェンは歓喜の歌の主題を1795年頃から1822年頃まで長期にわたって、歌曲や合唱幻想曲などに使用していますが、モーツァルトが1775年にミュンヘンで初演したオッフェルトリウムK.222に歓喜の歌の主題が現れることが知られています。このモーツァルトのモテットとの関係については、モーツァルトのモテットが作曲初演された年表情報から、ベートーヴェンがボン宮廷で仕えたマクシミリアン・フランツ選帝侯とモーツァルトが1775年にザルツブルクで会合している状況をもとに、次の仮説が得られます。
モーツァルトは1768年にウィーンで孤児院ミサ曲を初演し、臨席した皇帝ヨーゼフ2世やフェルディナンド大公、マクシミリアン大公に大きな感動を与えました。マクシミリアン大公は1775年フランス王家訪問の途中ザルツブルクに立ち寄りました。モーツァルトはマクシミリアン大公を歓迎するための牧歌劇「羊飼いの王」を上演しましたが、この時、ミュンヘンで作曲した最新作のオッフェルトリウムK.222の楽譜をマクシミリアン大公に奉呈した可能性があります。後にマクシミリアン大公はケルン大司教となりボンに宮廷を持ちますが、多くのモーツァルトの作品を持ち込んでいます。ボン宮廷の若き音楽家ベートーヴェンがモーツァルトのモテットを聞き、あるいは演奏し、その主題を書き留めた可能性が考えられます。
なお、モーツァルトとマクシミリアン大公は同年の生まれで、モーツァルトが最初にウィーンを訪れた際には、女帝マリア・テレジアからモーツァルトにマクシミリアン大公のために仕立てられた宮中の礼服が贈られ、モーツァルトの父レオポルトは絵画に残しました。
(音楽史年表より)
ベートーヴェンは交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125の第4楽章の歓喜の歌の主題としてモーツァルトのオッフェルトリウム「ミセリコルディアス・ドミニ」K.222に現れるバイオリンのメロディーを使用した可能性がある。
モーツァルトのオッフェルトリウムはバイエルン選帝侯の依頼によって作曲されたが、その初演の1月半の後、ウィーン宮廷のマクシミリアン・フランツ大公がザルツブルクを訪れ、モーツァルトは歓迎のために牧歌劇「羊飼いの王」K.208を作曲し、上演している。マクシミリアン大公は1768年に12歳のときにウィーンでモーツァルトの孤児院ミサ曲K.139を聴き大きな感動を得て、それ以来皇帝ヨーゼフ2世とともにモーツァルトを擁護していた。モーツァルトは孤児院ミサ曲以来7年間の教会音楽における自身の作曲者として成長を示すために、このオッフェルトリウムの楽譜をマクシミリアン大公に奉呈したのではないかと見られる。
後に、マクシミリアン大公はケルン大司教・選帝侯としてボンに赴任するが、ボンを新たな音楽の都にするために、モーツァルトの歌劇を含めた多くの楽譜がボンに持ち込まれる。ボンに新たに創設された宮廷楽団には、ビオラ奏者として若きベートーヴェンが加わるが、ベートーヴェンは宮廷音楽家として多くのモーツァルトの作品を演奏する。この折にベートーヴェンがモーツァルトのオッフェルトリウムのメロディーを書き留めたとしても不思議ではない。
【モーツァルトの出世作となった孤児院ミサ曲ハ短調K.139】
音楽史の中で重要な事実が見過ごされてきた例がありますが、モーツァルトの孤児院ミサ曲K.139の初演がこの例にあたるでしょう。モーツァルトが2回目のウィーン旅行中に作曲され初演された孤児院ミサ曲の初演には、若き皇帝ヨーゼフ2世と4人の大公、大公女の臨席がありました。この時、初演に立ち会ったヨーゼフ2世と、フェルディナンド大公、マクシミリアン大公はミサ曲の演奏に感動し、後々までモーツァルトに対し作曲家として絶大な信頼を寄せることになりました。
(音楽史年表より)
1768年12/7モーツァルトにとって初めての大ミサ曲である孤児院ミサ曲ハ短調K.139が皇帝ヨーゼフ2世他4名の大公、大公女の臨席のもと、モーツァルト自身の指揮により初演された。このミサ曲は臨席した5人の皇帝、大公、大公女に深い感動を与えた。特に、表現豊かな情感が、3本のトロンボーンの悲愴な響きにも表れている。当時トロンボーンという楽器は合唱部のアルト以下の3声部の補強か、難しいソロを吹くというのが通常の用い方であるが、この曲でこれほど表情豊かに用いている独創性は特筆すべきである。そして、このミサ曲の作曲と初演は、モーツァルトにとっての出世作ともいうべき作品となり、ウィーン宮廷の皇族から、作曲家としての大きな信頼を勝ち得たのである。
モーツァルトは人生最後のオペラ「魔笛」で、再び3本のトロンボーンの和音を響かせるが、晩年においてもこの孤児院ミサ曲の成功が思い出されたのかもしれない。
なお、孤児院ミサ曲K.139の初演に臨席したのは女帝マリア・テレジアであるとした著作があるが、当時夫フランツ・シュテファンの死去と大公女マリア・ヨゼファーの死去に伴い喪に服していたマリア・テレジアの臨席は疑わしく、また、カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳「モーツァルトの宗教音楽」、海老沢敏著「モーツァルトの生涯」では、皇帝ヨーゼフ2世と4名の大公、大公女が臨席したとされている。
(2)作曲家別作品データベースの検索
【ファイル情報】 作曲者、生年月日、作品番号、作品名、作曲日・初演日・出版日等
・作曲者を選び、作品データを表示します。
・作品名キーワード検索機能
・音楽史年表データへのリンク・・・作品データの作曲日、初演日等を選ぶと(3)の音楽史年表データベースのその年月日にちなむ作品情報へリンクします。
作曲家別作品データファイルの例(モーツァルトK.201~の例)
(3)音楽史年表データベースの検索
【ファイル情報】 年月日、作曲者(年齢)、作品等に関する情報
・検索方法は年月日を入力し、その年月日にちなむ作曲家(年齢)、情報を表示します。
・データ表示中に、新たな年月日を入力すれば、入力された年月日のデータを表示します。
・作曲家の作品情報を見たいときは、(2)作曲家別作品データベース検索への移行が可能です。
音楽史年表データファイル例(1775年の6項目の例)
3.ご支援の方法
①新規登録
②このプロジェクトを支援するをクリック。
③リターンを選んでクリックします。 支援の金額設定
※(金額を指定する)において、金額はいくらでもOKです!
金額によりリターン品目が変わりますが、お気持ちで金額を指定することができます。
④支払方法選択 (クレジット決済、コンビニ払い等あります) ご都合の良い決済をご指定してください。
⑤お支払い画面へクリック
⑥情報入力し、決済画面へ。
以上がご支援の方法です。
4.資金の使い道
・データベース・システム開発費:200万円
・システム維持費:50万円(2年間)
5.リターンについて
支援していただいてくださる皆様に、感謝の気持ちをお届けするために、音楽史年表関連の特別なリターンをご用意させていただきました。
(1)2000円~5000円未満の支援の方:音楽史関連記事小冊子(A4版・14ページ)
音楽史に関する記事や参考資料をお届けします。
・作曲家の生誕地とキリスト教宗派
・オペラ創作史(初演日、初演地、台本言語)
・モーツァルトの「フィガロの結婚」について
・古典派の時代に貴族の音楽から庶民の音楽へ移行する (1)ハイドン(2)モーツァルト(3)ベートーヴェン
○ハイドンは貴族のために作曲した。しかし、ハイドンは自ら作曲した音楽が小編成に編曲され、民衆が歌い踊っていたことを知っていた。
○モーツァルトは貴族と民衆のために作曲した。モーツァルトは民衆のために作曲した最初の作曲家であり、大衆劇場のために1791年に作曲した歌劇「魔笛」はモーツァルトの死後ウィーンで大ヒットし、1800年までに200回のロングラン公演が行われた。
○ベートーヴェンは貴族のためでも民衆のためでもなく、身分を超え、人のために作曲した。ベートーヴェンの葬儀には2万人のウィーン市民が集まり、墓地への葬列に加わった。これほどの葬礼はかつて皇帝でも受けたことがなかった。(ベートーヴェンの親友ズメスカルのテレーゼ・ブルンスヴィクへの報告)
・モーツァルトの出生作となった「孤児院ミサ曲」
・ベートーヴェンの「歓喜の歌」の主題の源流
・ベートーヴェン「女性と作品」・・・ベートーヴェンの創作に深く関わる女性と作品
(2)5000円以上の支援の方:音楽史関連記事小冊子(A4版・約40ページ)、(1)を含みます。
・音楽分野別創作史・・・シンフォニー創作史、オペラ創作史、コンチェルト創作史、弦楽四重奏創作史、室内楽創作史、ピアノ・ソナタ創作史、ミサ曲創作史など、音楽の分野ごとに名曲といわれるほとんどの楽曲を網羅し、創作史をツリーに見立て、各名曲の音楽史における位置を視覚的に確認でき、また同時期の他の作曲家の創作状況を確認できる便利なツールを提供します。
・ヨーロッパ史における音楽史・・・古代より絶え間のない戦乱のなか、音楽は進化し発展してきた。(約20ページ)
○古代文明とキリスト教、民族大移動、カール大帝のフランク王国とグレゴリオ聖歌の成立、神聖ローマ帝国、十字軍派遣、百年戦争と中世音楽・ルネサンス音楽、宗教改革と30年戦争、戦乱の中バロック音楽が始まる、戦乱の後バロックの巨匠が次々現れる、オーストリア継承戦争、7年戦争、前期古典派からウィーン古典派へ、ナポレオン戦争とロマン派、世界大戦と後期ロマン派・フランス印象派・国民楽派・現代音楽へ
(3)15000円以上の支援の方:作曲家別作品一覧(約6000曲掲載・A4製本版)と(2)
・名曲創作史年表索引・・・作曲家一覧、五十音順作曲家一覧、作曲家別作品一覧
データベースからも、作品検索は可能ですが、作品目録は音楽史年表データベースの検索ガイドになります。製本版による楽曲検索方法は下記のとおりです。
①五十音順作曲家一覧から作曲者を探す。
②五十音順作曲家一覧で作曲者の生年を確かめ、生年順に並んだ作曲者別作品一覧から作品を探す。
③作品一覧には作曲年月日、初演年月日等が記載されているので、音楽史年表へリンクすることが可能です。
(4)35000円以上の支援の方:名曲創作史年表(項目数15000ステップ・A4製本版)と(2)および(3)
・名曲創作史年表・・・音楽史年表の原稿となった名曲創作史年表を製本し、お届けします。
これらはデータベースから検索可能ですが、約1000ページの製本版音楽史年表および約6000曲を収録した作曲家別作品一覧によりデータベースの全貌が確認できます。
製本版名曲創作史年表の検索方法は以下の通りです。
①(3)の作曲家別作品一覧で調べたい楽曲の作曲年月日、初演年月日等を調べる。
②名曲創作史年表で該当する年月日の楽曲を調べる。
なお、リターン資料の版権につきましては、SEAラボラトリにございます。リターン資料は皆さまの私的な利用に限らせていただきますが、もしそれ以外の利用をされるときは、メール等でお問い合わせ下さい。
6.実施スケジュール(予定)
・2022年7/15頃 クラウドファンディング開始
・2022年9/20 クラウドファンディング終了
・2022年9月 音楽史年表データベース・システム開発開始
・2023年1月~3月頃 音楽史年表データベース・システム公開開始
おわりに
最後まで読んでいただきありがとうございました。
最後になりますが、音楽史年表データベースの基本情報となります各文献、著作を執筆されましたすべての執筆者、著作者、翻訳者のみなさまに感謝申しあげます。今回の音楽史年表データベースプロジェクトは、これまで音楽史につきまして、並々ならぬご努力によって積み上げてこられました研究者、著作者の研究成果から歴史的事実を中心としまして、一元的に年表情報として取りまとめ、WEB上に公開し、音楽を愛好する皆さまに役立てていただくことを目的としております。
今回の音楽史年表データベースは更なる充実に向けて緒に就くもので、今後はさらにその拡充に向けて取り組んでまいりますが、今回本プロジェクトに賛同いただきました方々と共に進めてまいりたいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。
なお、分かりにくい項目や不明な点などございましたら、メッセージをお送りください。個別に対応させて頂きます。
よろしくお願いいたします。
音楽史年表データベース開発プロジェクト 代表 早川明
<募集方式について>
本プロジェクトはALL-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンをお届けします。
最新の活動報告
もっと見る作曲家の生誕地とキリスト教宗派
2022/12/16 07:04あなたの好きな作曲家、作品を検索してみましょう・・・ハヤカワ音楽史年表データベースヘ 作曲家は自身が生まれた地域のキリスト教宗派による洗礼を受け、作曲においてもその宗派の影響を受けることになります。イタリア、オーストリー、フランスはローマ・カトリック圏であり、ドイツはライン川以東とチェコの北の地域がプロテスタント・ルター派それ以外の地域はカトリック圏と2分されます。北欧はプロテスタント・ルター派、またイングランドは英国国教会、アイルランドはカトリック圏、スイス、オランダ、スコットランドはプロテスタント・カルバン派圏となります。カルバン派は宗派の教義により音楽は重要視されませんでしたので教会において宗教音楽は用いられず、それに伴い作曲家も輩出していません。作曲家を輩出したのは、ローマ・カトリック圏、プロテスタント・ルター派圏、英国国教会圏に限られます。 それぞれの宗派の音楽の特徴を見て行きますと、華美で華やかなカトリック圏と質素で質実剛健なプロテスタント・ルター派のように対比が見られます。カトリック圏では華やかなオペラ文化が隆盛を誇りましたが、プロテスタント・ルター派圏ではオペラ文化はハンブルクとドレスデン、ベルリンに限られルター派の作曲家の多くはオペラを作曲しませんでした。一方、イギリスの英国国教会はプロテスタントの中ではカトリックに近く、カトリックの音楽文化を受け入れています。 ヘンデルはルター派のハレに生まれますが、オペラが上演されていたハンブルクに移り、やがて音楽修業のためにイタリアへ渡ります。ベネツィアでオペラ「アグリッピーナ」を成功させると、ヘンデルは一夜にして名声を獲得し、各国の要人の間でヘンデルの争奪戦が始まったといわれています。ヘンデルはドイツ・ハノーファー選帝侯の宮廷楽長に就任します。ハノーファー選帝侯ゲオルグ・フリードリヒの母親は英国の血筋で選帝侯は当時のイギリスのアン女王とは又従妹にあたり、アン女王には跡継ぎがなく、ヘンデルは選帝侯の命で情報収集のためにイギリスへ渡ったともされています。アン女王が亡くなるとハノーファー選帝侯はジョージ1世としてイギリス・ハノーファー連合国の国王として即位します。ヘンデルはイギリスでイタリア・オペラを多く作曲し、またオペラの興業が行き詰まると「メサイヤ」をはじめとするオラトリオを作曲しました。ヘンデルは1727年イギリスに帰化しましたが、宗派は生涯ルター派を貫き、英国国教会に改宗することはありませんでした。 一方のセバスティアン・バッハも生涯ルター派を貫きますが、領主にあたるザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はルター派からカトリックに改宗しています。アウグスト2世はポーランド王も兼ねていたためカトリックのポーランド支配のために改宗したものと言われています。選帝侯に宮廷作曲家の地位を申請したバッハは1724年にカトリックの典礼に基づいたロ短調ミサ曲のグローリアを作曲し1733年にはキリエとともに選帝侯に捧げました。その後、バッハは1748年にロ短調ミサ曲を完成させていますので、ロ短調ミサ曲はバッハの宗派を超えた作品となり、音楽家としての自身の人生を締めくくる作品としたのでしょう。モーツァルトのミサ曲ハ短調も未完に終わっていますが、おそらくモーツァルトが長生きしていれば完成させたかもしれません。 バッハの末っ子のクリスティアン・バッハはイタリア音楽を学ぶためにイタリア・ミラノへ渡りますが、ミラノでカトリックに改宗しました。その後、ロンドンへ渡りますが、ミラノのバッハ、ロンドンのバッハなどと呼ばれています。 クリスティアン・バッハ以降、多くのドイツ生まれの作曲家がカトリック圏で活躍しています。ベルリンに生まれたユダヤ系のマイヤーベーアはフランスのパリへ渡りオペラ作曲家となりました。シューマンはカトリック圏のデュッセルドルフに赴任し、合唱指導を行いますが、ここでバッハのマタイ受難曲を演奏し、合唱団員からは激しい反発を受けます。これが精神に異常を起こした原因のひとつとも考えられます。 ワーグナーはベートーヴェンの交響曲やマイヤーベーアのオペラから強い影響を受けましたが、ドイツ・ロマンオペラの偉大な作曲家となりました。ワーグナーは娯楽としてのオペラの対極の総合芸術としてドイツ・オペラを楽劇に発展させました。ドレスデンで革命運動に参加しドイツを追われたワーグナーは活躍の場をカトリック圏のミュンヘンに求めますが、ゲルマン民族のワーグナー音楽の演奏の場をプロテスタントとカトリックの境界に位置するバイロイトに定めました。 ハンブルクに生まれたルター派のブラームスはウィーンに移りますが、オペラなどには関心を示さず、交響曲やドイツ歌曲、ドイツ・レクイエムなどを作曲します。ブラームスはウィーンでバッハのマタイ受難曲を演奏しますが、これがウィーンでのマタイ受難曲の初演であったかもしれません。 フランスの作曲家ではグノーがローマ賞を受けイタリアに音楽留学しますが、その帰途にプロテスタント圏のライプツィヒのメンデルスゾーンを訪ね、バッハの音楽に接しました。パリに戻りバッハの平均律クラヴィーア曲集を弾いているときに旋律が現れ、この旋律にアヴェマリアの歌詞を付け、こうしてグノーの「アヴェマリア」が誕生しました。【音楽史年表より】1733年、7/27、J・S・バッハ(48)、ロ短調ミサ曲BWV232フリードリヒ・アウグスト2世にキリエとグロリアのパート譜を献呈する。バッハは1733年7/27ポーランドの王になるためにルター派からカトリックに改宗した、ドレスデンのザクセン選帝侯アウグスト強王(1733年2/1逝去)の皇太子であるフリードリヒ・アウグスト2世に、宮廷作曲家の称号を請願します。このときに請願書とともに提出されたのが、このいわゆる「ロ短調ミサ曲」のキリエとグローリアのパート譜でした。(淡野弓子・バッハの秘密より)1859年、グノー(41)、ピアノ伴奏声楽曲「アヴェ・マリア」パリ音楽院に在学していたグノーは1839年にカンタータ「フェルディナン」でローマ賞を受賞し、2年間のローマ留学に出発する。留学を終えたグノーはウィーン、ライプツィヒ、ベルリンを経てパリに戻るが、ライプツィヒではメンデルスゾーンに会い、セバスティアン・バッハの音楽を学ぶ。1859年グノーはバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番ハ長調BWV846を伴奏とし、ラテン語の聖句「アヴェ・マリア」を歌詞とする声楽曲を作曲する。(ニューグローヴ世界大音楽大事典より)SEAラボラトリ もっと見る
ハヤカワ音楽史年表データベースが無料公開されました
2022/12/13 16:51ハヤカワ音楽史年表データベースが無料公開されました。作曲家、作曲家別作品、作品にちなむ年表データ、音楽史年表が簡単に検索できます。あなたの知っている作曲や曲を検索してみてください。関連する情報が次々と現れます。下記へリンクください。ハヤカワ音楽史年表データベースへリンク作曲者数:約200名登録作品数:約6000曲音楽史年表項目数:約15000ステップ(1350年から1975年)リンク:作曲者-作曲者別作品ー音楽史年表は互いにリンクします。みなさんの音楽の楽しみ、生き甲斐がますます広がることを祈っています。以上、お知らせいたします。SEAラボラトリ もっと見る
音楽史の謎(8)3曲セットで作曲されたベートーヴェンの中期交響曲
2022/09/03 11:22ハイドンは1761年エステルハージ侯爵家の副楽長に就任し、ヴィヴァルディの「四季」などを愛好していたパウル・アントン侯から1日の時刻を題材とした交響曲の作曲を依頼され、交響曲第6番ニ長調「朝」、交響曲第7番ハ長調「昼」、交響曲第8番ト長調「晩」の3曲セットの交響曲を作曲しました。第1曲の「朝」交響曲は夜明けをイメージする序奏で開始され、5楽章のディヴェルティメント風の「昼」交響曲をはさみ、第3曲の「晩」交響曲は終楽章に「嵐」という標題を持ち、1日を夜明けから始め、最期は激しい嵐の楽章で締めくくりました。このハイドンの3曲セットの交響曲がのちの3曲セットの交響曲のモデルとなりました。モーツァルトは1788年、おそらくイギリス旅行に備えるための3曲セットの交響曲を作曲しています。モーツァルトはおそらくハイドンの3曲セットの交響曲を知っていたのでしょう、長い序奏で始まり、壮大なフィナーレを持つ3つの交響曲を作曲しました。後期3大交響曲といわれる交響曲第39番変ホ長調K.543、交響曲第40番ト短調K.550そして交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551です。モーツァルトの3つの交響曲はそれぞれ特徴的ですが、特にジュピター交響曲のフィナーレは特筆すべき壮大さを持っています。モーツァルトは弦楽四重奏曲第14番ト長調(ハイドン四重奏曲第1番)で試みたソナタ形式とフーガの融合を、交響曲で行っています。モーツァルトがバッハの音楽に出会ってから標榜してきたポリフォニーへの回帰は、モノフォニーとポリフォニーの完全なる融合、かつて聴かれたことがない荘厳な天井音楽と評されます。ベートーヴェンは1804年に交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55を初演し、初めてのオペラ「レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利」(歌劇「フィデリオ」)の作曲をはじめています。フランスのブイイの原作はおそらく数奇な生涯を送ったフランスの英雄ラファイエット将軍の幽閉と出獄をモデルにしているとも考えられますが、ベートーヴェンはレオノーレに当時夫のダイム伯爵を亡くしたヨゼフィーネへの愛を投影したのでしょう。しかし、1805年11/20のオペラの初演は失敗し、友人ブロイニングの台本改訂によって1806年3/29に第2稿を初演するものの、これも大失敗に終わりました。なお、オペラは1814年のトライチュケの改訂台本による最終稿初演で成功を収めました。ベートーヴェンはヨゼフィーネとの愛の勝利を願っていましたので、おそらく、オペラに代わり3つの交響曲によって夫婦の愛の勝利を成就したいと思ったと考えられます。ベートーヴェンはハイドン、モーツァルトの3曲セットの交響曲の様式にのっとり、第1曲には長大な序奏を置き、第2曲、第3曲の序奏は短く、フィナーレには壮大な音楽を構想しました。すなわち、交響曲第4番変ロ長調Op.60、交響曲第6番ヘ長調「田園」Op.68、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67を作曲します。3つの交響曲は交響曲自体が急緩急の性格を持ちます。長大な序奏を持つ交響曲第4番は、ダイム伯爵未亡人ヨゼフィーネへの愛の芽生えと高まりを表すベートーヴェン自身の感情表現の交響曲です。第2曲目の田園交響曲はヨゼフィーネが生まれ育ったハンガリーのマルトンヴァシャールの大自然を描いたヨゼフィーネのための交響曲です。ベートーヴェンはヨゼフィーネと出会った翌年の1800年の夏はヨゼフィーネの実家であるハンガリーのブルスヴィク伯爵家の邸宅に招かれています。そして、最後の交響曲第5番「運命」はヨゼフィーネとの愛の勝利の交響曲であり、運命に翻弄されながらも終楽章では愛の勝利を高らかに歌い上げます。なお、交響曲第5番が田園交響曲より先に出版されたために、順番が逆になりました。このように、ハイドンによって創始された3曲セットの交響曲様式は、モーツァルト、ベートーヴェンによって交響曲創作史における最高の高みに達しました。SEAラボラトリ 早川 明 もっと見る
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