ハイドンは1761年エステルハージ侯爵家の副楽長に就任し、ヴィヴァルディの「四季」などを愛好していたパウル・アントン侯から1日の時刻を題材とした交響曲の作曲を依頼され、交響曲第6番ニ長調「朝」、交響曲第7番ハ長調「昼」、交響曲第8番ト長調「晩」の3曲セットの交響曲を作曲しました。第1曲の「朝」交響曲は夜明けをイメージする序奏で開始され、5楽章のディヴェルティメント風の「昼」交響曲をはさみ、第3曲の「晩」交響曲は終楽章に「嵐」という標題を持ち、1日を夜明けから始め、最期は激しい嵐の楽章で締めくくりました。このハイドンの3曲セットの交響曲がのちの3曲セットの交響曲のモデルとなりました。
モーツァルトは1788年、おそらくイギリス旅行に備えるための3曲セットの交響曲を作曲しています。モーツァルトはおそらくハイドンの3曲セットの交響曲を知っていたのでしょう、長い序奏で始まり、壮大なフィナーレを持つ3つの交響曲を作曲しました。後期3大交響曲といわれる交響曲第39番変ホ長調K.543、交響曲第40番ト短調K.550そして交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551です。モーツァルトの3つの交響曲はそれぞれ特徴的ですが、特にジュピター交響曲のフィナーレは特筆すべき壮大さを持っています。モーツァルトは弦楽四重奏曲第14番ト長調(ハイドン四重奏曲第1番)で試みたソナタ形式とフーガの融合を、交響曲で行っています。モーツァルトがバッハの音楽に出会ってから標榜してきたポリフォニーへの回帰は、モノフォニーとポリフォニーの完全なる融合、かつて聴かれたことがない荘厳な天井音楽と評されます。
ベートーヴェンは1804年に交響曲第3番変ホ長調「英雄」Op.55を初演し、初めてのオペラ「レオノーレ、あるいは夫婦愛の勝利」(歌劇「フィデリオ」)の作曲をはじめています。フランスのブイイの原作はおそらく数奇な生涯を送ったフランスの英雄ラファイエット将軍の幽閉と出獄をモデルにしているとも考えられますが、ベートーヴェンはレオノーレに当時夫のダイム伯爵を亡くしたヨゼフィーネへの愛を投影したのでしょう。
しかし、1805年11/20のオペラの初演は失敗し、友人ブロイニングの台本改訂によって1806年3/29に第2稿を初演するものの、これも大失敗に終わりました。なお、オペラは1814年のトライチュケの改訂台本による最終稿初演で成功を収めました。ベートーヴェンはヨゼフィーネとの愛の勝利を願っていましたので、おそらく、オペラに代わり3つの交響曲によって夫婦の愛の勝利を成就したいと思ったと考えられます。ベートーヴェンはハイドン、モーツァルトの3曲セットの交響曲の様式にのっとり、第1曲には長大な序奏を置き、第2曲、第3曲の序奏は短く、フィナーレには壮大な音楽を構想しました。すなわち、交響曲第4番変ロ長調Op.60、交響曲第6番ヘ長調「田園」Op.68、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67を作曲します。3つの交響曲は交響曲自体が急緩急の性格を持ちます。長大な序奏を持つ交響曲第4番は、ダイム伯爵未亡人ヨゼフィーネへの愛の芽生えと高まりを表すベートーヴェン自身の感情表現の交響曲です。第2曲目の田園交響曲はヨゼフィーネが生まれ育ったハンガリーのマルトンヴァシャールの大自然を描いたヨゼフィーネのための交響曲です。ベートーヴェンはヨゼフィーネと出会った翌年の1800年の夏はヨゼフィーネの実家であるハンガリーのブルスヴィク伯爵家の邸宅に招かれています。そして、最後の交響曲第5番「運命」はヨゼフィーネとの愛の勝利の交響曲であり、運命に翻弄されながらも終楽章では愛の勝利を高らかに歌い上げます。なお、交響曲第5番が田園交響曲より先に出版されたために、順番が逆になりました。
このように、ハイドンによって創始された3曲セットの交響曲様式は、モーツァルト、ベートーヴェンによって交響曲創作史における最高の高みに達しました。
SEAラボラトリ 早川 明