ロッシーニはパリで歌劇「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」を作曲した後、作曲家を引退し、後半生は食文化の道に生き、自らを「怠け者」と自嘲的に語ったとされますが、実は音楽史上、偉大な貢献をした特筆すべき作曲家でした。ロッシーニは引退後、作曲を全くしなかったわけではなく、全13巻200曲を超える大作である室内楽集「老年の過ち」を作曲するなど、歌劇作曲家から室内楽作曲家に転身しています。
音楽史における救世主と呼ばれる作曲家を2人選ぶとすれば、筆者はパレストリーナとロッシーニを挙げます。
パレストリーナは宗教音楽の父とも呼ばれるルネサンス期のイタリアの作曲家ですが、当時教会では世俗音楽のようなポリフォニー音楽も取り入れられていました。ところが、トリエントの公会議で教会音楽は、本来グレゴリア聖歌のようなモノフォニーで歌われるべきではないかとの議論が行われました。パレストリーナは1567年に「教皇マルチェルスのミサ曲」のようなポリフォニーの名曲を作曲し、宗教音楽としてのポリフォニー音楽の価値が認められ、ポリフォニーの発展に大きく貢献し、宗教音楽の父と呼ばれるようになりました。もし、宗教音楽において、ポリフォニー音楽が禁止されれば、音楽の発展に著しい影響があったものと思われます。
ロッシーニの音楽史における貢献は、作曲家に作曲した楽曲の所有権を認めさせたことです。モーツァルトは音楽史上初めてのフリーランスの作曲家でしたが、オペラを作曲しても興行主から500フローリン(約500万円)程度の謝礼を受け取るのみで、3年もすればどの歌劇場でも勝手に上演を行いました。
ベートーヴェンは歌劇「フィデリオ」上演で、興行主のブラウン男爵と大喧嘩をしています。興行に失敗すれば興行主は破産も覚悟しなければならない中で、作曲家は苦しい立場に追い込まれていました。ロッシーニは興行主にせき立てられ、歌劇「セビリアの理髪師」をわずか3週間で作曲したりしています。ロッシーニは1822年ウィーンを訪れ、尊敬するベートーヴェンを訪問し一緒に食事をしていますが、ベートーヴェンはロッシーニのオペラ・ブッファを賞賛し、また興行主を口汚く罵ったことでしょう。当時、ウィーンのケルントナートーア劇場にはイタリアの興行主バルバヤが支配人として招かれ、興行採算のために劇場内で、当時フランスで開発されたばかりのルーレットなどの賭博もはじめていました。一方モーツァルトの残された妻のコンスタンツェは印刷会社から出版の依頼があった時には、印刷後に必ず自筆譜の返却を求めていましたので、ベートーヴェンはロッシーニにこのことを話し、興行主に楽譜を貸し出すことを勧めた可能性があります。
イタリアに戻ったロッシーニは興行主のバルバヤと激しく争い、作曲者の作曲した楽譜の所有権を奪い取りました。こうしてフリーランスの作曲家はモーツァルト、ベートーヴェンを経て、作曲した楽曲の所有権を獲得することとなり、すぐれた作曲を行なえば経済的に恵まれるという制度が確立され、以降多くのロマン派の作曲家を輩出することとなりました。ヴェルディやプッチーニは劇場に対し期限付きで自作品の楽譜の貸し出しを行い、経済的に恵まれた生涯を送りました。このようなことを成し遂げたロッシーニは怠け者ではなく、音楽史における救世主と言えるでしょう。
SEAラボラトリ 早川明