2022/11/22 19:27

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CAMPFIREから連絡がありました。支援者の皆様に感謝します。

大日本報徳社の鷲山社長から序文をいただいて原稿に組み込みました。

「今日では読むのに難儀する『静岡県報徳社事績』を、親しみをもって読みと通すことができるようになった。当時の報徳の事績と実践家群像が、眼の前に、生き生きと蘇えってくる。」と評価していただいた。

「報徳は、地域に根差し、地域の発展を促して行く思想と実践である。本書によって、その発展に心血を注いだ報徳実践家たちの奮闘の軌跡が明らかになった。」

まさに本書は報徳の実践に関するお手本でもある。

また「グローバル社会の到来を迎えて、私たちは「地域住民」「日本国民」「世界市民」の三位一体の生き方を追求することが求められている。その中で基盤となるのが「地域住民」の観点である。いかに地域を豊かに発展させていくのか。地域の充実と発展のかないかぎり、日本は衰退の途を辿ることになろう。」と問題提起いただいている。




『静岡県報徳社事績――報徳の師父 第二集――』


蘇える報徳実践家たちの生き生きとした軌跡

刊行によせて


大日本報徳社社長

鷲山恭彦


磐田市見附の報徳館には「伊藤七郎平の碑」がある。花壇を潰して碑を建てたのは大正五年で、大きな牛がその碑をへとへとになりながら引いてきたこと、高名な書家の日高秩父が見附まで来て碑文を書いたことなどのエピソードは、母から聞いたことがある。

下村湖人の『次郎物語』は、少年次郎の魂の遍歴を描いた教養小説として知られているが、静岡市清水の杉山報徳社の話が出て来る。青年団運動が軍部の圧力で解散させられ、塾生たちは再起を期して旅に出る。最後の訪問地が杉山部落である。

そこで賢者を思わせる片平翁の話を塾生たちは聞いて、地域を豊かに興す使命を一層強く心に誓う。そして各地に散って行くところで小説は終わっている。昭和十二年頃の設定になっているから、片平翁は杉山報徳社を開いた片平信明の子の信道であろう。

その前の場面には、H村のK君の話が出て来る。村を訪れると、青年たちだけでなく村のいろいろな団体の首脳者たちも集まって来る。村には、和やかに雰囲気、生き生きとした創意工夫、革新の精神に満ちており、その中心にK君がいるという。あれは初倉村の河村七太郎さんのことだよ、と父から聞いたことがある。

かつては、夕食の団欒で、あるいは農作業をしながら、こうしたエピソードをいろいろ聞いて、語られた人々の人柄に関心を持ったり、成し遂げた仕事についてあれこれ思いを巡らせたものである。しかし現在の私たちは、昔とは全く異なった生活環境の中にいて、こうした話はリアリティーが希薄になって、日常の話題には上りにくくなっている。いわんや後の世代にはほとんど伝わっていかない状況にある。


しかし、明治、大正、昭和のそれぞれの時代、貧困と疲弊の困難に直面した農村で、勤労を尊び、慣習を変革し、村を起こし、殖産興業に奮闘した一群の報徳実践家の人々がいた。『報徳訓』でいう「富貴」の道を求めて、一時代をリードした人々である。

「新田」の開発は「心田」の開発なしには成し遂げられない。これら報徳実践家たちは、家を立て直し、村を立て直し、心を豊かに耕しつつ、経済的自立を達成し、貴く生きる道を実践したのである。

二宮尊徳は言う、「一人の心の荒蕪を開けたならば、土地の荒蕪は何万町歩あろうと心配ない」と。そのように生きた彼らの軌跡には、珠玉の教訓が詰まっていよう。忘れられてしまうには余りに勿体ない人々である。その奮闘の上に今があることを思えば、決して忘れてはいけない人々である。


本書は、明治39年・1906年に刊行された『静岡県報徳社事績』の復刻である。復刻と言っても、漢字とカタカナで書かれた全文を現代かな遣いにそって、漢字平かな交じり文に翻訳して、現在の私たちに読めるように変換したものである。この変換は、簡単な作業ではない。刻苦の翻訳作業である。その奮闘のお陰で、今日では読むのに難儀する『静岡県報徳社事績』を、親しみをもって読みと通すことができるようになった。当時の報徳の事績と実践家群像が、眼の前に、生き生きと蘇えってくる。


当時、報徳社運動は興隆の時を迎えていた。駿河、伊豆地方では、二宮尊徳の直接の指導を受けた人々が報徳の活動を始めており、遠州地方では、安居院庄七が報徳を伝道し、明治に入って遠州国報徳社が生まれ、明治末期には大日本報徳社となり、中央報徳会の創設にまで発展した。

「緒言」読むと、「静岡県事務官 丸山熊男」が次のように書いている。「明治37年末、本県における公益法人報徳社は、本支社合わせて422の多きにおよんでいる」と、地域を救済し豊かにする、報徳運動の隆盛ぶりがまず報告される。

そして「結社以来、善をすすめ、産業を興す目的をもって社員を導き助け、その事業を遂行することによって、人民の個性の啓発や徳によって人々を刷新し、難村の救済若しくは農工商業の改良発達に利益を与えただけでなく、町村内の公共事業を振興させた」とその活動を高く評価している。

結びは「施設事業および効果の顕著なものを調査し、これを叙述して、人民の心をますます共同経営の道に向かわせるとともに、これらの機関が必要なことを知らしめ、将来この報徳の教えがますます普及することを期待して本書を公刊する」と刊行の意義を語っている。


叙述は、網羅的、総体的であり、静岡県における報徳社の活動が、各報徳社の沿革、組織、事業と次々に紹介され、難村救済、殖産興業に奮闘する報徳人の姿が浮かび上がる。

まず、支社をたくさん持つ6つの報徳社が紹介され、次いで個々に活動する13の報徳社が紹介されている。

必要に応じた編者「註」が設けられ、歴史的経緯、背景などが説明されている。懇切丁寧な大変優れた解説で、本書の理解を大きく深めている。

最初は、二宮尊徳の略伝で、業績とエピソードの簡にして要を得た叙述によって、尊徳の生涯と思想がクリア―に浮かぶ。次いで、安居院庄七、岡田佐平治、岡田良一郎、福山滝助よく知られた報徳人の略伝が続く。そして各報徳社における活動家群像が活写されている。


二宮尊徳は、江川太郎左衛門を通じて韮山に来ているし、御殿場にも来ている。直接指導を受けた人たちには、多田弥次右衛門。小林平兵衛、柴田順作などがいる。

こうした人たちの影響の下に、駿河地方、伊豆地方には多くの報徳人が輩出した。庵原郡尾羽村の牧田包栄、杉山村の片平信明、高部村の高田宣和、静岡市の多々良某、中上喜三郎、安部郡大里村の石垣治兵衛、志太郡大富村の塚本薫平、相川村の河村彌平、多々良治郎吉、駿東郡原里村の勝亦國臣、御厨町の小宮山聞一、梶常次郎、賀茂郡稲取村の田村又吉、八代善次郎、山田恒吉、そして上河津村の山田啓吉、等々といった指導的な報徳実践家である。


遠州地方に報徳を広めたのは安居院庄七である。報徳は次第に広がり、嘉永6年・1853年、岡田佐平治、神谷与平治、中村常蔵、山中里助、竹田平左衛門、松井藤太夫、内田啓助たち、後に遠州報徳七人衆といわれる人たちは、安居院庄七と共に日光の尊徳を訪ねている。報徳社の活動報告を聞いた尊徳は全てを認め、遠州報徳社は尊徳直系のものとなった。

山中里助は、戦国武将の山中鹿之助を祖に持ち森町の出身だが、後に新村里助となり兄弟で報徳を広め、伊藤七郎平、小野江善六の山中三兄弟は、森町、磐田、浜松で報徳運動を担った。

こうして報徳の思想と実践は遠州地方に広がり、山名郡堀越村の永井五郎作、彦島村の名倉太郎馬、磐田郡三川村の金井平六、笠西村の山本桂一郎、桑原太三郎、袖浦村の相場長平、石川多喜二、堀内金三郎、小笠郡平田村の松永源吉、引佐郡中川村の松尾幸七、浜名郡神久呂村の高部廣八、掛川農学社の丸尾文六、山崎徳次郎、松本文治、浅井小一郎といった個性豊かな報徳人を輩出した。


グローバル社会の到来を迎えて、私たちは「地域住民」「日本国民」「世界市民」の三位一体の生き方を追求することが求められている。その中で基盤となるのが「地域住民」の観点である。いかに地域を豊かに発展させていくのか。地域の充実と発展のかないかぎり、日本は衰退の途を辿ることになろう。

報徳は、地域に根差し、地域の発展を促して行く思想と実践である。本書によって、その発展に心血を注いだ報徳実践家たちの奮闘の軌跡が明らかになった。わたしたちはこの歴史を大切に顕彰し、反芻して、そこから大きな励ましを受け取って、これからの生き方の羅針盤にしていきたいと思う。