父の背中
「来年も発行できるかどうか保証できません。
物事に興味や好奇心を失い、
書くことに意味や情熱が持てなくなって
きているような危機感に襲われております。」
こんな文章を書いたその年に、
父は狭心症で亡くなりました。
西暦2000年のことです。
父の友人の葬儀で、
友人代表で弔辞を述べている途中。
衆人環視の中で、泡を吹いて倒れ、
そのまま「帰らぬ人」となりました。
参列者は150人。
人のお葬式の最中に亡くなるなんて、
目立ちたがり屋の父らしい死に様です。
64歳でした。
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父は年賀状ではなく、
年賀ニュースレターを発行していました。
冒頭の文章は、
その20号目、20年続いたレターの
編集後記に書かれていたものです。
身近な人の中で、
最も文章が上手かったのは、
僕の父です。
そんな父が、
書くことに意味や情熱が持てなくったと
書き綴っていたわけです。
でも、
来る日も来る日も
ジャーナリストとして文章を
書き続けていた父の背中を今でも想い出します。
僕が「文章の力」を信じているのは、
父のDMAなのでしょう。
お正月に発行したニュースレターに、
文筆への「意欲喪失」を明らかにしたのは、
たぶん、
自分の心臓が
年内もってくれることはないだろうとの
父の実感が書かせたものだったと推察します。
それでも、
いい人生だったのではないか…。
父はマルチタレントでしたし、
やりたいことは心残りなくやってきたのだろう…。
そう感じています。
芸術と文化を愛する生涯を貫いたと想います。
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地元新聞社で25年。
編集長にまでなってからしばらくして、
「首長でもペン1本で失脚させることができる」
と、ペンの力に自ら恐怖し、
新聞社を辞めてしまいます。
その後、
本家の経営するホテル常務におさまりながら、
それまでもやっていた数々の文化活動に
さらに拍車をかけて行くことになります。
混声合唱団の団長にして、
読書協会の会長。
地域のオーケストラでは、
ダブルベースの奏者。
論文を書いて県の補助金を得ると
町に大きな物産館を建て社長に就任。
田舎町の文化会館には、
毎年「笑点」のメンバーを一人づつ招致し、
結局、全員をコンプリート。
ドリフターズも、
プラターズも、
ビジーフォーも、
山本リンダも、
そしてあの劇団「前進座」も、
人口2万人少々の
小さな町に呼んでしまう
興行師でもありました。
例えばファルコンと言う名の町民ホールは、
収容600名ですが、父は毎回満席にしていました。
北秋田は山奥の田舎町。
インターネットも何もない時代に、
「影響力と行動力」
そして人間関係を武器に奮闘していた父。
もちろん、
芸術文化協会主催とか、
ホテルはじめみんなの協力が
あったればこそです。
娯楽に渇望していた町ということを差し引いても、
毎回満席とは、考えてみれば、すごいことです。
そこに気づいたとき、
僕は「まだまだ追いつけないな」と痛感しています。
「地方でも中央に負けない娯楽を提供したい」
「町の人たちに、本物を観てもらいたい」
父がそう言っていたのを、
今、あらためて想い出しました。
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僕が50代になってから
PR(パブリックリレーションズ)を
メインの仕事にすることになったのは、
やはり父の導きなのではないかな。
そんな風に想っています。
◆僕のメッチャ「身勝手」すぎるクラファンにお金が集まり出しています。
https://camp-fire.jp/projects/view/649605
自分事を
世間事として描く
コピーライティングの力と、
僕の想いや本心、そして
志への共感が集まって来たのだと
心から感謝します。
「ま~、松尾さんが頑張ってるから
ご祝儀のつもりでプロジェクト参加するか♪」
まだまだ頑張りますし、
ご存じのようにいろんなリターンを用意しました。
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松尾公輝