こんにちは。【浅草のスイーツカフェからキッチンカーで全国へ!希望とワクワクを届ける幸せクレープ】の金野です。
今日は私のADHD、発達障害について書かせて頂きたいと思います。
まずは私のADHDが原因でこれまで不快な思いをさせてしまった皆様、仕事が遅くてご迷惑をお掛けしてしまった皆様に自分がADHDである事を隠してきて申し訳ありませんでした。改めてお詫び申し上げます。
私が3歳の頃、全く喋らなくなり心配した両親は病院に行ったそうですが、軽い自閉症ではないか、特に治療の必要はないと言われたそうです。当時、まだ一般的ではなかったADHDを疑うことも無くしばらくするとまた話ができるようになったのでそのままにしたそうです。でもいつも大人しく「いるかいないかわからない」とよく言われました。これは人との関わり方が分からず、何を話して良いか分からずいつも黙ってしまっていただけで誰とでも仲良くなれる姉を羨ましく思っていました。
小学校に入ってからもあまり友達は出来ずいつも1人で図書館に行って本を読んだり勉強をしていました。「洋子は勉強が好きだなぁ」と親からは言われていましたが、実は好きな訳ではなく、人の何倍もやらないと漢字の暗記やかけ算九九が出来なかったのです。
また、アスペルガー症候群でもあり、特に対人関係が苦手で何を話して良いか、相手がどう思っているのか読み取ることがとても苦手で、クラスメイトとは、ある一定の距離を持って生活をしていました。
そんな幼い頃の私の1番の目標は、姉のような人間になることでした。いつも沢山の友人に囲まれてそんなに勉強しなくてもある程度の成績が取れる姉が羨ましく、そして1番の目標でした。大人になるにつれ、姉だったらどう行動するだろう?と考えて行動するとこで、少しずつ友人もできるようになりました。ですが、根本的にADHDが治った訳では無いので、仕事上では、時間がかかったり、人の名前や顔が中々覚えられなかったり、要領よくこなす事は出来ませんでした。そんな私に出来ることは、寝る時間を削ってでも努力することだけでした。
30代になって自分がADHDでアスペルガー症候群だと知った時、自分は駄目な人間ではなくそういう個性なのだと知った時の本当にほっとしました。私は駄目な人間なのではなくそういう特徴を持って生まれてきただけなのだと。と同時に、専門書を読み漁り、どうしたらこの先少しでも周りの皆様に迷惑を掛けずに生きていけるのか考えました。でも結局は努力しかなく、それでもメモのとり方やお名刺の整理の仕方、常にToDoリストの確認と更新、これに尽きるということを痛感しました。
対人関係では、やはり未だに失敗してしまうこともあり、お叱りを受けることもありますが、その度に誠実に謝ることしかできません。
今回のキッチンカー事業に関しては本当に悩みました。それでも自分なりのマニュアルを作り自分なりの仕事をどうしてもしたいと思い計画しました。何度も事業計画書を書き直し、3年かがりで形にしました。決して器用でもなく、要領が良いわけでもありませんが、こんな私でも応援してくださる人がいる限り、そして寄り添ってくれる家族がいる限り精一杯頑張りたいと思っています。
どうか力を貸してください。よろしくお願いします。